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貪食

貪食からはじまる

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 壁の上から、メリーの歓声があがった。
 見た目だけは、大きな傷を負わせたのだ。あれが人間なら、致命傷だろう。

 だが、悪徳の夢魔だ。たやすくはないはずである。
 ラトスは、伸ばした剣身を元の長さにもどした。セウラザも飛ばしたこまかい刃を回収していく。

 夢魔は、止まっていた。
 セウラザの刃をはじいた格好で、静止している。攻撃が効いたのだろうか。ラトスは短剣をかまえたまま夢魔の頭を見た。

 三つの頭は、高く上がっていた。
 目に、光が宿っている。ひるんだ様子はなかった。むしろじっとこちらをにらんで、状況を確かめているようだった。

「効いているか?」
「わからない」

 ラトスの問いに、セウラザは剣をかまえなおした。
 無数の刃を、三つの渦に分けていく。反撃を警戒しているのだ。ラトスも短剣をかまえなおした。剣をにぎる手が、熱い。自身の身体が熱いのか。剣が熱いのか。手のひらにかく汗が、熱で乾きつづけている。

 夢魔の頭が、動いた。
 豚のような頭が、大きく口を開いている。叫ぶのか。そう思って、ラトスは耳をおさえようとした。すると、豚の頭は口を広げたまま、左右に首をふった。

「……食った?」

 ラトスは目を見開いた。
 豚の頭が、周囲の小さな夢魔を食べている。口を広げたから、たまたま入ったわけではない。明らかに小さな夢魔を吸いこんでいた。吸いこまれている小さな夢魔に、抵抗する様子はなかった。まるで、食べられるのを待っているかのようだった。

 いくらかの夢魔を食べ終えると、巨大な夢魔は再度ラトスたちをにらみつけた。両腕を大きく広げて、ゆっくりと歩み寄ってくる。
 石畳がゆれ、空気がはじけた。夢魔の長い尻尾が、大きく縦にふれている。ただそれだけの動きなのに、強烈な威圧感があった。無意識に半歩下がっていたことに気付き、ラトスは唇を強く結んだ。

「治っているな」
「なに?」
「傷が、治っている」

 セウラザが夢魔を指差した。
 見ると、ラトスとセウラザが付けたはずの大きな傷が消えていた。何事もなかったかのように、傷跡すら残っていない。

「そんなこと、あるのか」
「わからない。見たことは、ない」

 じりじりと、夢魔が距離を詰めてくる。
 傷が治るなら、勝ち目は薄い。一撃で絶命させられるなら良いが、たやすくはないだろう。

「もう一度、やろう」
「わかった」
「脚を狙ってくれるか。俺は、突っ込む」

 そう言ってラトスは、上体を低くした。
 この巨大な夢魔は、機動力がある。いきおいよく突進されたなら、枝葉の壁が壊れるかもしれない。三重もあるからと言って、一枚も無駄にはできない。無理やり作った地の利を生かしつづけなければ、ラトスたちに勝っているものは無くなってしまう。

 ラトスが走りだした。
 同時に、セウラザの刃の渦がひとつ、飛びだしていく。刃の渦がラトスの頭上をとおりすぎると、伸びる短剣をかまえなおした。剣先を前に向ける。夢魔の右側の足が、黒い石畳を踏んだ。

 瞬間、空気を切り裂くような音が、ラトスの手の内からひびく。
 剣身がいきおいよく伸び、踏み下ろされた巨大な足に剣先が突き立った。つらぬいた手応えが、しっかりと手のひらに伝わってくる。ラトスは柄を強くにぎって、短剣をひねった。夢魔の身体をえぐった感触が分かると、伸ばした剣身を一気に縮める。
 剣身を縮める力で、ラトスの身体が前方に飛んだ。
 夢魔との距離が縮まる。黒い短剣をかまえた。夢魔の足に激突する寸前、黒い短剣を深く、突き立てる。
 二本の短剣が突き立った部位から、いきおいよく黒い塵が噴きだした。
 短剣を引きぬいて、もう一度突き立てる。同じように黒い塵が噴きだした。

 再度短剣を引きぬいた時、ラトスの頭上で衝撃が走った。
 見上げると、夢魔のふり下ろした腕が、黒い塵となって霧散していた。セウラザの刃の渦が防いだのだ。
 大きな叫び声が、鳴りひびいた。
 夢魔の声だった。

 効いたのだと、ラトスは確信した。
 短剣をかまえなおし、駆けだす。さらに後ろの、二本目の足を目指した。短剣の剣身を伸ばし、横に薙ぐ。深くは斬れなかったが、確かな手ごたえを感じた。最初の足と同様に、ラトスは短剣をひねった。同時に剣身を縮める。いきおいよく前方に飛んだ後、黒い短剣を二本目の足に突き立てた。

 黒い塵が、あふれる。
 夢魔が、再び叫び声をあげた。そのまま何度も突き立てた後、ラトスは一度距離を取った。夢魔が暴れだしたからだ。道の端に添って、ラトスは駆けた。夢魔はその場で大きく回転し、長い尻尾をふり回した。

 ラトスの頭上を、長い尻尾が通過していく。
 尻尾は、道の端にならんでいるいくつかの柱を砕いた。柱の破片が、飛び散りながら黒い塵になっていく。ラトスは、塵の中を必死に走った。塵になりきらない破片が、何度も身体に当たった。足を止めようかと思った瞬間、再度、夢魔の長い尻尾が頭上をかすめた。

「ラトス。こっちだ」

 セウラザの声がひびく。黒い塵が舞いあがっていて、セウラザの姿は見えない。だが声が聞こえた方向に、ラトスは駆けた。
 真横に、強い気配を感じる。ラトスは、黒い短剣を気配に向けてかまえた。そのまま、全力で駆けつづける。夢魔の鳴き声が、横からひびいた。同時に、ワニのような頭が横から突進してきた。ラトスは、ワニのような頭の口先に、横から黒い短剣を突き立てた。
 浅い。
 もう一度刺すかどうか迷った瞬間、目の前に枝葉の壁が見えた。セウラザが小さな入り口の前に立っている。ラトスは短剣を引きぬくと、入り口に向かって走った。

 間に合うか。
 焦りを感じた直後、頭上に光が差した。
 風が、光に向かって強く流れている。見あげなくても、ラトスは助かったと息を吐いた。

 ラトスとセウラザが、小さな入り口に入る。
 枝葉の壁の上から、光の筋が、夢魔の胴に向かって放たれた。メリーの甲高い雄たけびが聞こえる。光の筋は、夢魔の胴の脇をかすめた。それだけで、光が当たった夢魔の身体の一部は、音もなく消し飛んだ。

「……メリーさんは、順調に人間離れしてきたな」

 ラトスがこぼすように言うと、セウラザは黙ってうなずいた。
 小さな入り口からのぞきこむようにして、夢魔の様子を見る。これまでとは違う、悲痛な鳴き声がひびきわたった。三つの頭が、もがくように暴れている。

 光が収まると、無残な夢魔の姿があらわになった。
 巨大な胴の周囲に、黒い塵が舞っている。ラトスが斬った二つの足も、力なく折れ曲がっていた。祓いきれてはいないが、立ちあがれそうにも見えない。

 勝ったか。そう思った直後、夢魔が叫び声をあげた。同時に、豚の頭が大きな口を開ける。周囲の小さな夢魔が、豚の頭に食われはじめた。

「まさか、食って、治しているのか」

 小さな夢魔を吸いこみつづける夢魔を見て、ラトスは苛立ったような声をあげた。
 夢魔の傷付いた身体が、治っていく。胴も足も、身体の内側から何かが膨らむかのようにして、傷を消していく。すべての傷が無くなると、豚の頭は小さな夢魔を食べるのをやめた。

「どうやら、そのようだ」
「これじゃ、倒せないぞ」

 周囲の小さな夢魔が減れば、傷を治せないかもしれない。そう考えたが、無駄だった。周囲を見回すと、小さな夢魔は減るどころか、増えつづけていたのだ。巨大な夢魔に惹かれるように、あらゆる方向から集まりつづけている。ただ、食われるために。

「貪食か」

 ラトスは、こぼすように言った。
 この夢魔も悪徳ならば、外見も行動も納得がいく。八つの悪徳のうちの一つ、「貪食」だ。

「どうする。このまま行くのか」
「行くしかない。どこかに弱点があるはずと信じよう」

 ラトスはそこまで言って、ペルゥを呼んだ。
 どこかに隠れていたのだろうか。ラトスの呼び声に、ペルゥはすぐ飛んできた。

「なにー?」
「メリーさんに、温存するように言ってくれないか」
「長引くかもってことね。まあ、さっきの光を連発したら、メリーはすぐ干からびるよね」

 笑いながら言うペルゥの瞳には、冷たさが沈んでいた。じっと状況を分析しているのかもしれない。
 ペルゥの指摘どおり、メリーの火力は高いぶん息切れが早かった。今回にかぎっては意識して火力をおさえさせる必要がある。止めが必要な時に戦力外となられては、元も子もないのだ。ペルゥはうなずくと、壁の上に飛んでいった。
 
 ラトスとセウラザは、壁の入り口から貪食の夢魔を見あげた。
 完全に元通りになった貪食の夢魔は、三つの頭をゆっくりと左右にふっていた。痛い思いをして、警戒を強めたのだろうか。足も治っているが、進んでくる気配はなかった。

「胴か、頭を狙おう」

 三つの頭をにらみながら、ラトスが言う。

「胴と足は、俺が行く。セウラザは、頭を狙ってくれ」
「防御はいらないのか」
「いらない。俺は陽動だ。派手に行くが、なるべく逃げに徹する」
「わかった」

 セウラザがうなずくと同時に、ラトスは短剣をかまえなおした。
 貪食の夢魔は、まだ動かない。ならば先に仕掛けてやろうと、ラトスは目を光らせた。

 駆けだす。
 伸びる短剣の剣先を、夢魔の胴に向けた。頭上からは、夢魔の鳴き声が聞こえてくる。目端で上を見ると、虎の頭がラトスを見下ろしていた。夢魔の大きな腕も、ふり下ろされようとしている。足を止めず、ラトスは短剣の剣身を一気に伸ばした。鋭い音がひびいて、剣先が夢魔の胴をつらぬく。

 大きな鳴き声がとどろいた。巨腕が、いきおいよくラトスに向かって落ちてくる。見上げながら、ラトスは短剣をひねった。同時に剣身を縮めて、前方に飛ぶ。直後、ラトスの足のそばに、夢魔の腕が叩き落とされた。黒い石畳が割れ、破片が四方に飛び散る。

 ラトスが夢魔の胴に短剣を突き立てたところで、セウラザも動いていた。
 無数の刃の半数を、三つの頭に向けて飛ばす。避けきれないよう、広範囲に刃を散らしていた。夢魔の腕は、片方降りている。片腕だけではほとんど防げるはずがないと、セウラザは読んだのだ。
 予想通り、夢魔は片腕をふって無数の刃をはじいた。だが、半分もはじき返せない。残りの刃は次々に、夢魔の頭と首へ突き立っていった。

 ラトスの頭上で、斬撃の音と、夢魔の叫び声がひびく。
 縮んでいく剣身のいきおいそのままに、ラトスは黒い短剣を夢魔の胴に突き立てた。同時に、伸びる短剣に力をこめる。胴を深くえぐるように剣身を伸ばし、横に薙いだ。夢魔の胴から、一文字に黒い塵が噴きだした。
 黒い霧の中、ラトスは二振りの短剣をかまえなおした。
 伸びる短剣の剣身を何度も伸ばし、狙いを定めずに上と左右へふり回す。剣をふりながら、ラトスはまた駆けた。長くとどまっていれば、たやすく狙い撃たれてしまうからだ。走りつづけて、とにかく目立ち、苛立たせるように斬りまくる。ひとしきり斬ったら、また駆けだした。延々とそれだけを繰り返す。

 壁の上でラトスたちの様子を見ていたメリーも飛びあがった。
 風をまとって、高く飛ぶ。貪食の夢魔の倍以上の高さまで昇ると、メリーは銀色の細剣をかまえながら、見下ろした。
 セウラザの無数の刃が、再度飛びだしていた。
 夢魔はふり下ろしていた腕を上げ、両腕で刃をはじく。何度も腕をふり回すうちに、夢魔の両腕は外側に大きく広がった。

 ここだとばかりに、メリーは急降下した。
 三つの頭が、無防備になっている。そのうちのひとつ、豚の頭目掛けて、メリーは剣先を向けた。柄頭の赤い宝石が、光る。風が集まってきて、透きとおった剣身が強く輝きだした。

 下で戦うラトスとセウラザからは、雷が落ちたかのように見えた。
 目を背けたくなるほどの光が広がって、夢魔の頭に落ちた。わずかに時が止まり、次の瞬間、強い衝撃が広がった。風が、爆ぜている。すべて吹き飛ばされるのではないかと思うほどの衝撃が、夢魔だけでなく、ラトスとセウラザにもおそいかかった。
 ラトスは黒い短剣を夢魔の胴に突き立てて、歯を食いしばった。風圧で、身体が浮きあがる。短剣の柄をにぎる力がわずかでも弱まれば、薄暗闇の空間に投げ飛ばされそうだった。

 次第に風はおさまり、光が消えていく。
 短剣を夢魔から引きぬくと、ラトスは急いで壁に向かい走った。夢魔から距離を取りはじめたとき、頭上に小さな影が走った。メリーだった。

 メリーは銀色の細剣をかまえながら、壁の上に飛んでもどった。
 貪食の夢魔は、止まっていた。だが、黒い塵におおわれはじめてはいなかった。まだ、祓いきれていないのだ。

 三つの頭のうち、豚の頭は完全に消えていた。
 貪食の夢魔は、かろうじて立っているように見えた。残ったふたつの頭は、うなだれている。

 このまま追い打ちをかけるべきか。ラトスはうなだれたふたつの頭を見あげた。瞬間、ラトスは叫んだ。
 焦りすぎて、なんと叫んだかは分からない。
 全力で駆けながら、もう一度叫ぶ。

「逃げろ!」

 ラトスの声にすぐさま反応したのは、セウラザだった。
 セウラザはすでに壁の小さな入り口までもどっていて、ラトスの様子をうかがっていた。彼は、ラトスが夢魔の頭を見た瞬間、表情を変えたことにすぐ気が付いた。剣をかまえ、無数の刃を集める。そして一気に上空へ飛ばした。

 それは、合図だった。
 不測の事態が起きた時、セウラザが無数の刃を上空に真っ直ぐ撃つ。何も狙わずにはなたれた刃を見たら、逃げる合図と決めていた。壁の上にいるフィノアとメリーに声をかけるのは時間がかかるし、正しく伝わるかも分からないからだ。
 刃を上空にはなつと同時に、セウラザは左に向かって指を差した。

 セウラザの指を見て、ラトスは転進した。
 壁に向かって走るのは危険だと、セウラザが察したのだろう。ラトスは道の端目掛けて、飛んだ。目端に、セウラザも道の端へ飛んだのが見えた。
 直後、熱い空気がラトスの後方を流れた。
 熱は水流のような音を立てて、壁に向かって流れているようだった。ラトスは道の端に無様な格好で着地すると、すぐにふり返った。

 赤紫色の何かが、枝葉の壁に向かって噴出していた。
 夢魔のほうに目を向けると、ワニの頭から赤紫色の液体が吐きだされていた。強烈な熱気をまとって、液体が枝葉の壁におそいかかっている。
 壁の上にいたメリーとフィノアは、すぐに逃げられなかったようだ。あわてふためくメリーを叱りつけているフィノアが見えた。なんとか我に返ったメリーは、フィノアを抱えて二つ目の壁に向かい飛んでいった。

「セウラザ!」

 ラトスは、自分と同じように道の端に飛んだはずの男に声をかけた。

「問題ない」

 少し遅れて、セウラザの声が聞こえた。
 彼もまた、道の端ぎりぎりまで飛んでいた。飛びながら、何度も転がったのだろう。髪は大きく乱れていて、全身に黒い塵が付着していた。

「彼女たちは、大丈夫か」
「逃げるのは、見えた。ペルゥもいるだろうし、大丈夫だろう」
「そうか」

 ラトスの言葉を受けて、セウラザは短く返し、うなずいた。
 二人は、赤紫色の液体が流れたほうに目を向けた。枝葉の壁は、半分消えていた。壁の中央が、溶けるようにして無くなっている。黒い石畳も液体によって溶け、黒い塵が舞いはじめていた。

 避けるのが遅れていたらと想像して、ラトスは身体の芯がふるえた。
 負傷どころではない。確実に死んでいただろう。

「これは、毒? いや、胃液か?」

 石畳の上にまき散らされた液体を見て、ラトスは顔をゆがめた。
 セウラザが後ろから寄ってきて、一度後退しようと、うながしてくる。彼の言葉を受けて、ラトスは貪食の夢魔を見あげた。液体を吐きだしたワニの頭は、動きを止めていた。大きな口から、赤紫色の液体がぼたぼたとこぼれ落ちている。直下の黒い石畳がえぐれるように溶け、黒い塵を散らしていた。

 ふたつの頭の目が、こちらを見ている。弱っているのかもしれない。本当に後退するべきか、ラトスは一瞬悩んだ。

「ラトス」

 セウラザが、強めの口調で呼んだ。
 名を呼ばれ、ラトスは彼のほうを見た。セウラザは、手のひらをこちらへ向けていた。なんだと思ったが、すぐに分かった。短剣をかまえて、戦いに行く寸前の様子を見せていたのだ。ラトスは無意識に武器をかまえていたことに驚き、両腕を下ろした。

「わかった。戻ろう」

 ラトスが短く言うと、セウラザは深くうなずいた。
 二枚目の壁に向かって、走る。夢魔はまだ動いていない。だが、荒い息遣いだけは聞こえてきていた。

 赤紫色の液体を踏まないよう、慎重に足を運ぶ。
 液体によって溶けた一枚目の壁は、まだ、じわじわと溶けつづけているようだった。手足が触れないように注意したが、壁をぬけるとき、マントの一部に液体がわずかに付いた。すると、マントは焦げたように変色し、腐り落ちた。あわててラトスは、マントを脱ぎ棄てる。

「こんなもの、何度も吐き出されたらどうしようもないぞ」
「そうだな。夢魔の様子を見る限り、連発は出来なさそうだが」
「そう信じたいところだ」

 液体がまき散らされた場所をぬける。
 二枚目の壁の上から、声が聞こえた。メリーが手をふっている。隣に小さな影も見え、上下にせわしなく動いていた。フィノアらしき影は、膝を突いてこちらを見ているようだった。

 ラトスは手をふり返して、セウラザと一緒に二枚目の壁の入り口をくぐりぬけた。
 裏側から、壁を登る。ペルゥが飛んできて、危なかったねと明るく声をかけてきた。まあなと、ラトスは短く返す。軽口を叩けるということは、彼女たちに怪我などはないのだろう。こちらが無傷なら、戦果は上々だ。

「ラトスさん、大丈夫でしたか」

 壁の上に立つと、メリーが心配そうに声をかけてきた。

「ああ。そっちも大丈夫そうだな」
「なんとか」
「王女さんは、腰が抜けたのか」
「……失礼ですね。本当に」

 フィノアはぺたりと腰を下ろして、ラトスを見あげていた。
 手と上半身をもぞもぞと動かしている辺り、本当に腰が抜けたのかもしれない。悪いことを言ったかと思って、ラトスは少女のそばに腰を下ろした。

「夢魔の様子は、どうだ」
「どう、とは?」
「戦いを見ていただろう。王女さんから見て、何か感じたか」

 ラトスが真面目な表情をするので、フィノアは困った顔をした。他の誰よりも長く、客観的に戦いを見ていたのだ。何も気付かなかったというわけにはいかない。フィノアは少し考えた顔をして、動かなくなった夢魔をながめた。

 夢魔は、動けないというよりは、様子を見ているようだった。
 あのまま攻撃をつづけたら、さらに赤紫色の液体をまき散らしつづけたかもしれない。実際、未だにワニの口からは、ぼたぼたの液体がこぼれ落ちていた。

「あの夢魔は、慎重だと思います。慎重さに付け込んで、良い結果が出ただけかと」
「そうだな。俺もそう思う」
「あの巨体で何ふり構わなくなったら、危険です。……ただ」
「ただ?」

 わずかに間を置いて、フィノアは夢魔を指差した。
 夢魔は、ゆっくりと立ちあがりはじめていた。ワニの頭が大きく口を開け、鳴きはじめる。周囲の小さな夢魔が、呼応するように動きだした。一斉に、ワニの口に飛びこんでいく。ワニの頭は遠慮なく小さな夢魔を食いつづけ、身体を治していった。

「見てください」
「治ってるな」
「そうではありません。夢魔の頭です」

 フィノアは口調を強めて、夢魔のふたつの頭を指差した。
 虎の頭と、ワニの頭がある。ワニの頭は小さな夢魔を食いつづけ、虎の頭はじっとこちらに視線を送っていた。豚の頭はというと、メリーの攻撃で消し飛ばされたまま治ってはいなかった。えぐれたまま、黒い塵の噴出が止まっただけだ。

「頭は、治らないのか」
「そのようです。最初のセウラザの攻撃でも、かすかに傷付いた傷は完治していませんでした」

 そこまで言ったフィノアは、よろめきながら立ちあがる。
 弱点は頭ですと、フィノアは断言した。言われてみると、思い当たる節がいくつかあった。セウラザの無数の刃が貪食の夢魔の頭を狙ったとき、両腕を執拗にふり回して防いでいた。だが、ラトスが足や胴を狙ったときは、そこまで過剰に防ぐ様子は見られなかったのだ。

「よし。じゃあ、二戦目と行こうじゃないか」
「頭狙いですか?」
「そうだ」

 メリーの問いに、ラトスは即答した。

 壊れた一枚目の壁の向こう側に、ふたつの頭が見える。
 失われた豚の頭以外の傷は治ったらしく、ワニの頭もこちらを見据えていた。

 ここからが本当の戦いになると、空気が強くふるえた。
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