56 / 72
◆無感情、その理由⑤
しおりを挟む
***
本社での重要な会議が重なり、この日の俺は疲れていた。
仕事を終えてぐったりしながら家に帰ると、リビングから灯りが漏れている。
「おかえりなさい。あなたも飲む?」
脚を組んでソファーに座り、凛々子が赤ワインをたしなんでいた。リビングにいるのは珍しい。
「疲れてるから休む」
「……最近、忙しそうだものね。プライベートでも」
ソファーの前のテーブルには、あらかじめグラスがふたつ置いてあった。
もうひとつの空いてるほうのグラスに凛々子が赤い液体をトポトポと注いでいく。
今の嫌味な物言いと、赤ワインを勧めるその行動で、俺になにか言いたいことがあるのだと察した。
早くシャワーを浴びて眠りにつきたいのに。
そう思いながらも疲れた重い身体を動かして凛々子の目の前に座る。
「この家を出るつもりなの?」
差し出された赤い液体に口を付けたところで、不意に凛々子がわけのわからないことを尋ねてきた。
「なんの話だ?」
「あなたがね、仕事の合間を見つけてはマンション探しをしてるって。会社にはわざわざ私の耳に入れてくる人がいるのよね」
あきれた。下世話な噂好きもいるもんだ。
人のプライベートを詮索してなにが楽しいのかと悪態をつきたくなる。
俺がマンションの物件を探しているのは事実だ。
梅宮ひなたが自宅アパート近辺で暴漢に襲われた。犯人は未だに逃げたまま逮捕されていない。
あのとき彼女は悲痛な声で俺に電話してきた。その瞬間、俺は激しく動揺した。
あんなに心を揺さぶられたのはいつぶりだろうか、と思うくらいにあせった。
しばらくホテルに泊めようとしたのに、あのアパートに戻ると言いだす始末だ。強姦未遂があったんだぞ? そんな危険な場所に帰せるわけがない。
幸い本人も引越しの意思があるようだったから、勤務先の近くでセキュリティーもしっかりしていて、なおかつ彼女が払っていけそうな家賃のマンション物件を探していただけだ。
新居が決まるまで、しばらく友人のところに泊まると言っていたが、とにかく急を要する。
「女と暮らすの? この前見たあの子と」
グラスをかたむけ、凛々子が突拍子もないことをサラリと言う。
まるで梅宮ひなたと俺がデキていると確信しているかのような言い方だ。
「それとも、マンションを買ってあげるわけ?」
「そんなわけないだろ。愛人じゃあるまいし」
マンションを買って女を囲う趣味など俺にはない。
「あの子が新しい住み家を探してるのは事実だ。……ちょっと事情があって、急に引っ越さなきゃいけなくなった。だけど俺と住むわけじゃない。彼女とはそういう関係じゃないんだ。どうしてそうなる」
探している物件はもちろん賃貸で単身用だ。
俺がマンションを探している、という情報だけしか耳に入っていないのだろう。
凛々子は俺の言葉を聞き、ふぅ~ん、と軽く相槌を打った。
「私、……別れないわよ?」
今の話の流れで、なぜそういう言葉が出てくるのか。まったく理解できない。
「別れてくれとは言ってないだろう」
静かに俺がそう言葉を返すと、凛々子がフンッと鼻で笑った。
「別れられないわよねぇ。私と離婚するって言ったらパパが悲しむってわかってるから」
「……それは……」
「あなたはね、私とは別れられてもパパとは別れられないのよ。私よりもパパのことが大事でしょう?」
凛々子の表情を見る限り冷静だ。だけど内心は幾分激高しているのだろう。
早口でとうとうと言い募ったのがその証拠で、喉元が赤くなったのも酒のせいではないはず。
「気持ち悪いわ」
「……?」
「あなたとパパよ。実の親子以上に蜜月で。気持ち悪い」
そんなふうに思っていたのか。
それは実の娘だから感じるある種の嫉妬か、それとも周りから見れば誰でもそう感じるのだろうか。
「だけど、あなたには悪いことをしたと思ってるの」
「なにが?」
「私もワガママだけどパパもワガママよね。あなたの気持ちを無視して私と結婚させたんだから。私だって契約のような形であなたと結婚した。考えてみたら私もパパもあなたをバカにしてるわ」
今更二年前のことを持ち出されても困る。
俺はバカにされたなどと思ってはいないのに。
頼まれたのもあるが、結婚は俺自身が決めたことだ。
俺は自分の人生に望みなどないから。
義父の恩に報いながら静かに生きる。ただそれだけでいい。
「だから、これはささやかなお詫びというか私からのプレゼントよ。普段絶対に笑わないあなたの笑顔が見たくなったの」
「……え?」
「あなたに愛する人が出来たら、こうしようと前から決めてた」
凛々子は極上の笑みを浮かべ、なに食わぬ顔で「乾杯しましょ?」とグラスを掲げた。
本社での重要な会議が重なり、この日の俺は疲れていた。
仕事を終えてぐったりしながら家に帰ると、リビングから灯りが漏れている。
「おかえりなさい。あなたも飲む?」
脚を組んでソファーに座り、凛々子が赤ワインをたしなんでいた。リビングにいるのは珍しい。
「疲れてるから休む」
「……最近、忙しそうだものね。プライベートでも」
ソファーの前のテーブルには、あらかじめグラスがふたつ置いてあった。
もうひとつの空いてるほうのグラスに凛々子が赤い液体をトポトポと注いでいく。
今の嫌味な物言いと、赤ワインを勧めるその行動で、俺になにか言いたいことがあるのだと察した。
早くシャワーを浴びて眠りにつきたいのに。
そう思いながらも疲れた重い身体を動かして凛々子の目の前に座る。
「この家を出るつもりなの?」
差し出された赤い液体に口を付けたところで、不意に凛々子がわけのわからないことを尋ねてきた。
「なんの話だ?」
「あなたがね、仕事の合間を見つけてはマンション探しをしてるって。会社にはわざわざ私の耳に入れてくる人がいるのよね」
あきれた。下世話な噂好きもいるもんだ。
人のプライベートを詮索してなにが楽しいのかと悪態をつきたくなる。
俺がマンションの物件を探しているのは事実だ。
梅宮ひなたが自宅アパート近辺で暴漢に襲われた。犯人は未だに逃げたまま逮捕されていない。
あのとき彼女は悲痛な声で俺に電話してきた。その瞬間、俺は激しく動揺した。
あんなに心を揺さぶられたのはいつぶりだろうか、と思うくらいにあせった。
しばらくホテルに泊めようとしたのに、あのアパートに戻ると言いだす始末だ。強姦未遂があったんだぞ? そんな危険な場所に帰せるわけがない。
幸い本人も引越しの意思があるようだったから、勤務先の近くでセキュリティーもしっかりしていて、なおかつ彼女が払っていけそうな家賃のマンション物件を探していただけだ。
新居が決まるまで、しばらく友人のところに泊まると言っていたが、とにかく急を要する。
「女と暮らすの? この前見たあの子と」
グラスをかたむけ、凛々子が突拍子もないことをサラリと言う。
まるで梅宮ひなたと俺がデキていると確信しているかのような言い方だ。
「それとも、マンションを買ってあげるわけ?」
「そんなわけないだろ。愛人じゃあるまいし」
マンションを買って女を囲う趣味など俺にはない。
「あの子が新しい住み家を探してるのは事実だ。……ちょっと事情があって、急に引っ越さなきゃいけなくなった。だけど俺と住むわけじゃない。彼女とはそういう関係じゃないんだ。どうしてそうなる」
探している物件はもちろん賃貸で単身用だ。
俺がマンションを探している、という情報だけしか耳に入っていないのだろう。
凛々子は俺の言葉を聞き、ふぅ~ん、と軽く相槌を打った。
「私、……別れないわよ?」
今の話の流れで、なぜそういう言葉が出てくるのか。まったく理解できない。
「別れてくれとは言ってないだろう」
静かに俺がそう言葉を返すと、凛々子がフンッと鼻で笑った。
「別れられないわよねぇ。私と離婚するって言ったらパパが悲しむってわかってるから」
「……それは……」
「あなたはね、私とは別れられてもパパとは別れられないのよ。私よりもパパのことが大事でしょう?」
凛々子の表情を見る限り冷静だ。だけど内心は幾分激高しているのだろう。
早口でとうとうと言い募ったのがその証拠で、喉元が赤くなったのも酒のせいではないはず。
「気持ち悪いわ」
「……?」
「あなたとパパよ。実の親子以上に蜜月で。気持ち悪い」
そんなふうに思っていたのか。
それは実の娘だから感じるある種の嫉妬か、それとも周りから見れば誰でもそう感じるのだろうか。
「だけど、あなたには悪いことをしたと思ってるの」
「なにが?」
「私もワガママだけどパパもワガママよね。あなたの気持ちを無視して私と結婚させたんだから。私だって契約のような形であなたと結婚した。考えてみたら私もパパもあなたをバカにしてるわ」
今更二年前のことを持ち出されても困る。
俺はバカにされたなどと思ってはいないのに。
頼まれたのもあるが、結婚は俺自身が決めたことだ。
俺は自分の人生に望みなどないから。
義父の恩に報いながら静かに生きる。ただそれだけでいい。
「だから、これはささやかなお詫びというか私からのプレゼントよ。普段絶対に笑わないあなたの笑顔が見たくなったの」
「……え?」
「あなたに愛する人が出来たら、こうしようと前から決めてた」
凛々子は極上の笑みを浮かべ、なに食わぬ顔で「乾杯しましょ?」とグラスを掲げた。
0
お気に入りに追加
16
あなたにおすすめの小説

隠れオタクの女子社員は若社長に溺愛される
永久保セツナ
恋愛
【最終話まで毎日20時更新】
「少女趣味」ならぬ「少年趣味」(プラモデルやカードゲームなど男性的な趣味)を隠して暮らしていた女子社員・能登原こずえは、ある日勤めている会社のイケメン若社長・藤井スバルに趣味がバレてしまう。
しかしそこから二人は意気投合し、やがて恋愛関係に発展する――?
肝心のターゲット層である女性に理解できるか分からない異色の女性向け恋愛小説!
禁断溺愛
流月るる
恋愛
親同士の結婚により、中学三年生の時に湯浅製薬の御曹司・巧と義兄妹になった真尋。新しい家族と一緒に暮らし始めた彼女は、義兄から独占欲を滲ませた態度を取られるようになる。そんな義兄の様子に、真尋の心は揺れ続けて月日は流れ――真尋は、就職を区切りに彼への想いを断ち切るため、義父との養子縁組を解消し、ひっそりと実家を出た。しかし、ほどなくして海外赴任から戻った巧に、その事実を知られてしまう。当然のごとく義兄は大激怒で真尋のマンションに押しかけ、「赤の他人になったのなら、もう遠慮する必要はないな」と、甘く淫らに懐柔してきて……? 切なくて心が甘く疼く大人のエターナル・ラブ。
あまやかしても、いいですか?
藤川巴/智江千佳子
恋愛
結婚相手は会社の王子様。
「俺ね、ダメなんだ」
「あーもう、キスしたい」
「それこそだめです」
甘々(しすぎる)男子×冷静(に見えるだけ)女子の
契約結婚生活とはこれいかに。
思い出さなければ良かったのに
田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。
大事なことを忘れたまま。
*本編完結済。不定期で番外編を更新中です。
沢田くんはおしゃべり
ゆづ
青春
第13回ドリーム大賞奨励賞受賞✨ありがとうございました!!
【あらすじ】
空気を読む力が高まりすぎて、他人の心の声が聞こえるようになってしまった普通の女の子、佐藤景子。
友達から地味だのモブだの心の中で言いたい放題言われているのに言い返せない悔しさの日々の中、景子の唯一の癒しは隣の席の男子、沢田空の心の声だった。
【佐藤さん、マジ天使】(心の声)
無口でほとんどしゃべらない沢田くんの心の声が、まさかの愛と笑いを巻き起こす!
めちゃコミ女性向け漫画原作賞の優秀作品にノミネートされました✨
エブリスタでコメディートレンドランキング年間1位(ただし完結作品に限るッ!)
エブリスタ→https://estar.jp/novels/25774848
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
オオカミ課長は、部下のウサギちゃんを溺愛したくてたまらない
若松だんご
恋愛
――俺には、将来を誓った相手がいるんです。
お昼休み。通りがかった一階ロビーで繰り広げられてた修羅場。あ~課長だあ~、大変だな~、女性の方、とっても美人だな~、ぐらいで通り過ぎようと思ってたのに。
――この人です! この人と結婚を前提につき合ってるんです。
ほげええっ!?
ちょっ、ちょっと待ってください、課長!
あたしと課長って、ただの上司と部下ですよねっ!? いつから本人の了承もなく、そういう関係になったんですかっ!? あたし、おっそろしいオオカミ課長とそんな未来は予定しておりませんがっ!?
課長が、専務の令嬢とのおつき合いを断るネタにされてしまったあたし。それだけでも大変なのに、あたしの住むアパートの部屋が、上の住人の失態で水浸しになって引っ越しを余儀なくされて。
――俺のところに来い。
オオカミ課長に、強引に同居させられた。
――この方が、恋人らしいだろ。
うん。そうなんだけど。そうなんですけど。
気分は、オオカミの巣穴に連れ込まれたウサギ。
イケメンだけどおっかないオオカミ課長と、どんくさくって天然の部下ウサギ。
(仮)の恋人なのに、どうやらオオカミ課長は、ウサギをかまいたくてしかたないようで――???
すれ違いと勘違いと溺愛がすぎる二人の物語。
エリート警察官の溺愛は甘く切ない
日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。
両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる