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第六章 大海の王者と魔導白書(グリモワール)
第二十二話「再会の主従」
しおりを挟む真っ暗闇の中、アリスは目を覚ました。色も音も無いこの場所は、何となく主が幽閉されていたあの牢獄に似てはいるが、そこで感じた様な恐怖はなかった。むしろ先程まで見ていた夢を思い出し、両手で肩を抱き小さく丸まる程の恐怖を感じた。
心を蝕まれ、体が作り変えられていく感覚。
力は感じるが主人の魔力の様な暖かさは無く、時折自分の中に入ってくる、痛みや恐怖、絶望という感情が、凍るかと思える程の冷たさを感じた。
「私はどうしてしまったのだろうか……」
思わず口に出た弱気な言葉も、周囲の闇に取り込まれ消えていく。
気がつけば自分は服を纏っていない事に気付くが、不思議と何も感じず、羞恥心から身体の一部を隠す程の気力は残っていなかった。
「このまま死んでしまうのでしょうか……」
アリスはあの街に入ってからの出来事を思い返していた。
意地になってまで欲したグリモワール。だがそれは主と袂を分かってまで手に入れるべきものだったのだろうか。そうしてまで手に入れた力を、あの方は喜んで受け入れてくれるのだろうか。
結局、自分一人では何も出来ず、混乱に乗じて盗人の真似事をするしか出来なかった。
その後、あのゲームはどうなってしまったのか、強欲だが私に付き合ってくれたあの男はどうしただろうか。アリスは記憶を辿ろうとするが、何故か思い出そうとすると漠然とした恐怖が甦り、慌てて思考を止めてしまう。
自分に何が起こったのか、これからどうなるのか。そして主は無事でいるのか。
いつのまにか、アリスは涙を流し泣いていた。
子供が親に縋る様に、何度も何度も主の名を呼び泣いた。
「タロ様……アスタロト……様ぁ」
陶器の様に白く美しい体が揺れている。
頼りない背中を丸め何かに耐えている。
孤独が、そして無くした記憶が、アリスの心を不安の中に引きずりこむ。
その時ふと、背中に温もりが宿る。
アリスは一瞬目を開き、その温もりが記憶にある中で最も知っているものであることに気付くと、安堵と共にまた静かに目を閉じた。
『アリス…』
「タロ様…」
おそらく再び溢れそうな涙を我慢しているのだろう、小さな肩が震えている。この少女は小さな体でどうやって欲望の街を渡り歩いたのか。その事を思うと黒猫もまた、心に込み上げるものがあった。
「タロ様……遠慮なさらなくても、背中では無く前の方からこの豊満な肉体を堪能してもいいんですよ?」
『悪いが、無いものは堪能出来ん』
アリスは振り向かず、主の尻尾を掴もうと腕をバタつかせる。見えないうえに黒猫は巧みにかわし、少女はついに諦めた。
「やっぱり、あの駄肉カタコト女の方がいいんですね」
『…………いや、ちが』
「否定が遅い」
再び少女の手と黒猫の尻尾による攻防が再開する。
そんなやりとりが一応落ち着き、黒猫は溜息をつきながら自らの背を合わせ丸くなった。アリスも多少の落ち着きを取り戻したが黒猫には背を向け顔は見せなかった。
黒猫はアリスを問い詰める事はしなかった。
船上の惨劇。
グリモワール。
そして神の器。
確認すべきは数あれど、主はただ従者に寄り添った。
『心配したぞ』
「そばにいてくれなかったくせに」
『そばにいたかったさ』
「話を聞いてくれなかったくせに」
『ちゃんと話をしたかったさ』
アリスは「嘘つき」と言いかけ思い止まった。また、あの時の様に、戦争へ行ってしまった日の様に魔法で私から逃げる気だと、叫んでしまう事を恐れた。主は怒らず、ただ困らせてしまう事をアリスは知っていた。
「アスタロト様に……大事なものをお返ししたかった」
神の牢獄から脱出する際、マジックアイテムを使用した代償に命を落とそうとしたアリスを、アスタロトは自らの神の力を与えて防いだ。その結果、アスタロトはただの獣へ堕ち、アリスは罪の意識と後悔を背負ってしまった。従者をどれほど苦しめたのだろうか。アスタロトも同様に罪の十字架を背負った。神と人、主と従者。だがアスタロトにとってのアリスはそれ以上の特別な思いがあった。
それは名状しがたく形容しがたい。
アリスの行動は決して自分が楽になるためでは無い、純粋に神に力を、アスタロトに光を返したかったのだろう。その献身にアスタロトは更に罪の意識に苛まされる。それだからこそ心根からの言葉をかける。
『私にとって大事なのはお前だ。アリス』
いつのまにかアリスは声をあげて泣いていた。黒猫を抱え、押し殺していた弱さを吐き出して、泣き叫んだ。
「あなたの!あなたの光を奪ってしまった!私はそれを償いたくて、ずっと旅をしてきました!」
『お前の……私はお前の人生を、運命を奪ってしまった。その後悔が私の命をつないでいる』
その時、胸に抱えた小さな命は、徐々に大きな光となり緩やかに姿を変えた。短い足は人の両手両足となり、細く伸びた首から端正な顔立ちが覗かせる。それを見たアリスは驚きと歓喜が入り混じった感情で頭が混乱する。だが忘れるはずもないその懐かしい顔に言葉は出なかった。
「そのお姿は……アスタロト様……でも何故」
眩い光の中で微笑みを浮かべ、長身に腰まである長い髪は黒髪ながらキラキラと星屑を纏う同じく全身を纏う布は無かったが、その神々しい姿はアリスが夢にみたかつての「神」そのものだった。アスタロトは少し照れるアリスをよそに力強く抱きしめる。
『古い友人が力を貸してくれたのだ。ひと時の時間だがお前を感じるのには十分だ』
「あぁ、あぁ……やっと、やっと会えた……アスタロト様ぁ……うわぁぁぁぁぁ!」
淡く光を放ち何も身に纏わない従者を神は優しく包む。頭を撫でながら親が子をあやす様に、恋人が愛でる様に、神が人を慈しむ様に。何とも形容し難い、それでいてこの主人と従者はそのどれの様でもあった。アリスは少しずつ落ち着きを取り戻すが、名残惜しそうに主の背中に回した腕は解かず、顔を胸に埋めたままだった。
「また、猫の姿に戻られるのですか……」
『あぁ、それほどはもたない』
徐々にアスタロトの背中に回したアリスの腕から力が失われていく。それは眠気を我慢する赤子の様にゆっくりとゆっくりと。アリスは力を振り絞るようにこの姿の主との時間を続けようとした。
「また再び、小さな獣の姿に……貧弱で愚鈍で変態で浮気者で変態な姿に……」
『変態を二回言うな、後半最悪じゃないか』
アリスはイタズラっぽく笑う。いつもの調子で、あの頃の笑顔で。
「それでも私はあなたのお側にいます。あなたは私の……」
最悪の夜に訪れた奇跡が終わろうとしている。
『もう疲れただろう。少しおやすみ?』
「あなたは私の……運命……です」
アスタロトの声に呼応するようにアリスは眠りに落ちる。そしてその体は輝きを増し爆発のように放出した瞬間、やがて小さな光の泡になって昇っていった。それを愛しさと慈しみの瞳で見送ったアスタロトも、やがて光を失い元の黒猫に戻る。
『感謝する、古き友よ……今は卿への鎮魂と一族の未来に祝福を祈ろう』
アスタロトは歌を歌う。
どこの言葉か分からない歌を。
いつしか周りをクジラが囲み、その歌に呼応する。
クジラの群れは歌を歌う。
神が届けた祝福の歌を。
それは言葉を無くしたとしても未来永劫に歌い続けられるだろう。
暗く静かな海中に、わずかだが光がさす。
それは絶望の夜が明けた事を意味した。
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