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第五章 闇ギルドと猫耳の姫君(プリンセス)
第十一話「イリスの真実」
しおりを挟む 私達が最後の宿泊地に定めたのはテラハ領の丘陵地にある古びた別荘だった。
イズーリ領に繋がるゼルニア大橋はこの丘陵地帯を抜けた先にあり、テラハ領の北東に隣接するアズール領に拠点を構えるカルロ達は明日にもこの付近を通過しようとするはずだった。
この別荘は狩りをたしなむ貴族達の為に先代のテラハ領主によって建てられたもので、狩猟祭が行われる際は大勢が宿泊することもあり、それなりに広い造りになっていた。とはいえ、三千人近い人数を収容する規模はもちろんないので、ここに泊まるのはフラムアークと私達宮廷からの随行者だけだった。諸将はそれぞれの隊ごとにまとまって野営の陣を張っている。
イズーリ周辺の有力者達からの援軍はまだ姿を見せておらず、カルロ達と遭遇する前に合流出来るかどうかが微妙な情勢だった。
夜を迎え、諸将と明日の軍議を終えたフラムアークの部屋に薬湯を持っていった私は、スレンツェの様子について相談した。
「うん……ユーファと一緒でオレもそこは少し気がかりなんだ。スレンツェは滅多なことで動じないけれど、今回の件に関してはさすがに堪えるものがあると思う。昔馴染みで自分を救おうとし続けてくれていた人物の期待を、こういう形で裏切ることになるんだ……スレンツェの与り知らぬところで向こうが勝手に突き進めてきたこととはいえ、そう簡単に割り切れるはずもない。ただ一人残った王族としてあの戦争の責任を両肩に負い続けるスレンツェにとっては、それこそ身を切られるような思いだろう」
フラムアークの表情は沈痛そのものだ。
「穏便に行くことを願うばかりだが、例えどんな形になったとしてもスレンツェは課せられた役目をやり遂げるだろう。そこは疑いようもない。オレとしてはむしろ、その後の方が気がかりかな。結果いかんによっては、そっちの方が心配だ」
誰にもまだ分からない、明日の行方―――最悪を回避するために最善を尽くすしかない、不確かな現実。
「今のスレンツェの気持ちを一番理解出来るのは、多分エレオラじゃないかな。彼女はスレンツェへの義理を通す為に長年所属していた組織を裏切る形になり、尊敬していただろうカルロや大勢の顔見知りを敵に回すことになった。明日には、親しくしていた者達と戦場で対峙することになるかもしれない。自ら覚悟して選択した道とはいえ、彼女もまた並々ならぬ状況にいる」
確かに……エレオラは未だカルロに敬称を用いているし、大きく立場を違えたとはいえ、彼はそれに値する人物なのだろう。
フラムアークの言う通り、スレンツェとエレオラは似たような状況にあると言える。当事者が抱える辛さというのは、外野がどんなに心を砕いてみても、当事者同士でしか分かち合えないものなのかもしれない。
「そうですね……確かにエレオラなら、今のスレンツェの気持ちに本当の意味で寄り添えるのかもしれない」
相槌を打ちながら、何とも言えない苦しさがじわりと胸に広がっていくのを覚えた。
ためらいのない献身。スレンツェに真っ直ぐに向かうエレオラの想いの深さ、見返りを求めない心の強さが伝わってくる。
エレオラは強いな……私が彼女の立場だったなら、同じような行動を取ることが出来ただろうか。今のように同僚という立場ではなく、お互いを深く知り得る関係でもなく、会うこともままならない地にいる、決して手の届かない相手と自ら想いを封じた男性の為に、自分がこれまで築いてきた何もかもを捨てて駆け付けることが―――。
「エレオラ自身は大丈夫なんでしょうか……? 気丈に見せていますが、自分の下した決断に押し潰されそうになったりはしていないんでしょうか」
今更ながらそこに思い至って彼女を案じると、フラムアークはそれを柔らかく否定した。
「そこは多分、大丈夫じゃないかな。エレオラは自分の心に向き合う時間もそれなりにあったわけだし、熟慮した上での決断だと思う。辛いには違いないだろうけど、後悔はしていないと思うよ。ベリオラの渦中でも見てきたけど、彼女は聡くて芯が強い。自分の定めた信念に基づいて行動出来る人だと思う。
今回に限ってはスレンツェの方が心配だ。スレンツェの方は全くの寝耳に水で、充分な心構えをする間もないまま、ここへ臨む形になってしまったから……。実はさっき、エレオラにそれとなくスレンツェの様子を見てきてもらうよう頼んだんだ。彼女なら煩わさずにスレンツェを気遣えるかと思って」
フラムアークはよく見ている。スレンツェのこともエレオラのことも、きっと駆け付けてくれた諸将や大勢の兵に至るまで―――。彼自身、にわかにこの謀略に巻き込まれた当事者で、そう余裕などないはずなのに……。
「フラムアーク様は大丈夫ですか……? 寝耳に水だったのは貴方だって同じはずです」
そう気遣うと、フラムアークはちょっと笑った。
「オレはカルロと面識がないからね。非情な言い方をすれば事務的な対処が出来るんだ。スレンツェやエレオラとは立場が違う」
そんな考え方が出来る人じゃないのは分かっている。貴方はカルロを「スレンツェの古い知り合い」と捉えてしまうでしょう?
「……オレは大丈夫だよ。ほら、ユーファからもらったお守り代わりもあるしね」
彼が胸元から取り出してみせたのは、以前私があげた手作りの香袋だった。飾り紐の先に付いた小さな袋にリラックス効果のある手製のドライポプリが詰めてあり、中身は彼に頼まれる都度、私が入れ替えている。
もう五年も前にあげたものだ。フラムアークは任務に赴く度にこれを身に着けてくれているから袋はかなりへたっていて、何度か新しいものに取り替えましょうと提案したのだけれど、彼はこれがいいんだと言って譲らないから、すっかりくたびれた見てくれになってしまっている。
それを目にしたら、何だか胸がいっぱいになってしまった。
「……ユーファは心配していることを素直に伝えるだけでいいと思うよ。それだけで君の気持ちは充分にスレンツェに伝わると思う」
「そうでしょうか……?」
「うん。ユーファの言葉がもたらす効果は大きいから」
「だと、いいんですが」
その効果が発揮されるよう願いながら、私は改まってフラムアークに申し出た。
「では……お願いがあります、フラムアーク様」
「? うん」
「決して一人で責任を抱え込まないと、約束して下さい」
先程彼がスレンツェに伝えた言葉を引用して、私はそう願い出た。
「仮に貴方がスレンツェに命じてカルロを討ち取らせる結果になったとしても、それは決して貴方だけの責任じゃありません。私はそれを望んだ当事者の一人で、共に責任を負うべき者です。だって私は、貴方もスレンツェもカルロの為に失いたくはないから」
それは偽りのない本心だった。軽く目を瞠るフラムアークに向かって、私は一心に訴える。
「カルロがレジスタンスを組織している以上、フェルナンドの謀略がなくても、いずれ彼とはぶつからねばならない運命だったのだと思います。明日、もしも話し合いが決裂して武力行使で決着をつける形になったとしても、それは互いの譲れない信念をぶつけ合った結果です。私は非力で、後方からその光景を見ている事しか出来ないでしょうが、でも、つぶさに目に焼きつけておきます。貴方達と一緒にその結果を背負います。だから決して一人で全てを抱え込もうとしないで下さい」
「ユーファ……」
「心配なんです、貴方もスレンツェも。二人とも当たり前のような顔をして、辛いことを全部自分の責任にして抱え込んでしまいそうだから―――そういうところが似ているんですよ、貴方達は。だから私はそこをすごく心配しているんです」
私の言葉が届くというのなら、二人ともどうか心に留め置いてほしい。貴方達だけが必要以上に責任を感じて、苦しむ必要はないのだ。
「補給して下さい」
私は自分から両手を広げて、フラムアークの前に進み出た。
「えっ?」
「私で貴方の英気が養えるなら、どうぞたくさん補給していって下さい」
唐突な申し出に戸惑う彼の気配を感じて、今更ながら気恥ずかしさが込み上げてきたけれど、私はそれを堪えて言い募った。
「変な意味じゃありません。その、だから、ハグッ……ハグです! 絶対に、無事で帰ってきてほしいから……!」
考えないようにしていた本音が、口を突いて出た。
私はハッとして唇を引き結んだけれど、一度出た言葉は二度と口の中に戻りはしない。
ずっと、心の奥にくすぶっていた不安だった。
明日の様相は不確定で不明瞭で、どう転がるのか予断を許さない。それはすなわち、彼らの命運が潰えてしまう可能性をも孕んでいる。
フラムアークが指揮官として優れた資質を持っているのは知っているし、剣士としてのスレンツェの腕は言わずもがなだ。たくさん集まってくれた援軍だって、心強い。
でも現状、イズーリ周辺の有力者達からの援軍はまだ到着しておらず、カルロ達とぶつかる前に合流出来るかどうかは不透明だ。彼らが間に合わなければ、こちらはカルロ達の半分にも満たない兵力で臨まざるを得ない。
何より、カルロだって必死なのだ。一度全てを失い、そこから執念で大規模なレジスタンスを作り上げて、悲願の為に突き進んでいる。そんな命懸けで挑んでくる相手を前に無事でいられる保証なんて、どこにもない。
フラムアークが初陣を迎えた時も怖かった。けれどその時とはまた違う怖さがある。
でも、あの時と違うのは、私はこうして彼らの傍にいて、同じ舞台に立っていられるということだ。有事の際は、自分で手を尽くすことが出来る。それが救いだった。
だから、あの時のように泣いたりはしない。代わりに精一杯、私は私の役目を果たすんだ。
「……こういう決戦前夜というか、何かを成し遂げる直前って、軽い緊張状態というか興奮状態っていうのかな―――何となく血が荒ぶるのを感じるんだ。人が本来持っている闘争本能とか生存本能に起因するのかもしれないな。だから、ユーファに触れるのは自重しようと思っていたんだけど……」
フラムアークはどこか独り言のようにそう呟くと、両手を広げたままの姿勢で止まっている私を見つめた。それから少し間を置いて頬を緩めた彼は、重苦しくなってしまった空気を一転させるように明るい口調でこう言った。
「でも、そんな考え一瞬で吹き飛んだ。やっぱりユーファのもたらす言葉の効果は大きいな。そうだね……こういう時だからこそ、英気を養わないとね」
目の前で穏やかに細められるインペリアルトパーズの瞳。ゆっくりと歩み寄ってきた彼の腕が私の背中に回されて、広い胸にふわりと包み込まれる。血が荒ぶっていることなど微塵も感じさせない、優しい抱擁だった。
ああ、自制心の強いフラムアークらしい。でも私は今、彼に無用な気遣いをしてほしくなかった。
不安も猛りももっとぶつけてくれていい。私はむしろ、それを分かち合わせてほしいのだから。
イズーリ領に繋がるゼルニア大橋はこの丘陵地帯を抜けた先にあり、テラハ領の北東に隣接するアズール領に拠点を構えるカルロ達は明日にもこの付近を通過しようとするはずだった。
この別荘は狩りをたしなむ貴族達の為に先代のテラハ領主によって建てられたもので、狩猟祭が行われる際は大勢が宿泊することもあり、それなりに広い造りになっていた。とはいえ、三千人近い人数を収容する規模はもちろんないので、ここに泊まるのはフラムアークと私達宮廷からの随行者だけだった。諸将はそれぞれの隊ごとにまとまって野営の陣を張っている。
イズーリ周辺の有力者達からの援軍はまだ姿を見せておらず、カルロ達と遭遇する前に合流出来るかどうかが微妙な情勢だった。
夜を迎え、諸将と明日の軍議を終えたフラムアークの部屋に薬湯を持っていった私は、スレンツェの様子について相談した。
「うん……ユーファと一緒でオレもそこは少し気がかりなんだ。スレンツェは滅多なことで動じないけれど、今回の件に関してはさすがに堪えるものがあると思う。昔馴染みで自分を救おうとし続けてくれていた人物の期待を、こういう形で裏切ることになるんだ……スレンツェの与り知らぬところで向こうが勝手に突き進めてきたこととはいえ、そう簡単に割り切れるはずもない。ただ一人残った王族としてあの戦争の責任を両肩に負い続けるスレンツェにとっては、それこそ身を切られるような思いだろう」
フラムアークの表情は沈痛そのものだ。
「穏便に行くことを願うばかりだが、例えどんな形になったとしてもスレンツェは課せられた役目をやり遂げるだろう。そこは疑いようもない。オレとしてはむしろ、その後の方が気がかりかな。結果いかんによっては、そっちの方が心配だ」
誰にもまだ分からない、明日の行方―――最悪を回避するために最善を尽くすしかない、不確かな現実。
「今のスレンツェの気持ちを一番理解出来るのは、多分エレオラじゃないかな。彼女はスレンツェへの義理を通す為に長年所属していた組織を裏切る形になり、尊敬していただろうカルロや大勢の顔見知りを敵に回すことになった。明日には、親しくしていた者達と戦場で対峙することになるかもしれない。自ら覚悟して選択した道とはいえ、彼女もまた並々ならぬ状況にいる」
確かに……エレオラは未だカルロに敬称を用いているし、大きく立場を違えたとはいえ、彼はそれに値する人物なのだろう。
フラムアークの言う通り、スレンツェとエレオラは似たような状況にあると言える。当事者が抱える辛さというのは、外野がどんなに心を砕いてみても、当事者同士でしか分かち合えないものなのかもしれない。
「そうですね……確かにエレオラなら、今のスレンツェの気持ちに本当の意味で寄り添えるのかもしれない」
相槌を打ちながら、何とも言えない苦しさがじわりと胸に広がっていくのを覚えた。
ためらいのない献身。スレンツェに真っ直ぐに向かうエレオラの想いの深さ、見返りを求めない心の強さが伝わってくる。
エレオラは強いな……私が彼女の立場だったなら、同じような行動を取ることが出来ただろうか。今のように同僚という立場ではなく、お互いを深く知り得る関係でもなく、会うこともままならない地にいる、決して手の届かない相手と自ら想いを封じた男性の為に、自分がこれまで築いてきた何もかもを捨てて駆け付けることが―――。
「エレオラ自身は大丈夫なんでしょうか……? 気丈に見せていますが、自分の下した決断に押し潰されそうになったりはしていないんでしょうか」
今更ながらそこに思い至って彼女を案じると、フラムアークはそれを柔らかく否定した。
「そこは多分、大丈夫じゃないかな。エレオラは自分の心に向き合う時間もそれなりにあったわけだし、熟慮した上での決断だと思う。辛いには違いないだろうけど、後悔はしていないと思うよ。ベリオラの渦中でも見てきたけど、彼女は聡くて芯が強い。自分の定めた信念に基づいて行動出来る人だと思う。
今回に限ってはスレンツェの方が心配だ。スレンツェの方は全くの寝耳に水で、充分な心構えをする間もないまま、ここへ臨む形になってしまったから……。実はさっき、エレオラにそれとなくスレンツェの様子を見てきてもらうよう頼んだんだ。彼女なら煩わさずにスレンツェを気遣えるかと思って」
フラムアークはよく見ている。スレンツェのこともエレオラのことも、きっと駆け付けてくれた諸将や大勢の兵に至るまで―――。彼自身、にわかにこの謀略に巻き込まれた当事者で、そう余裕などないはずなのに……。
「フラムアーク様は大丈夫ですか……? 寝耳に水だったのは貴方だって同じはずです」
そう気遣うと、フラムアークはちょっと笑った。
「オレはカルロと面識がないからね。非情な言い方をすれば事務的な対処が出来るんだ。スレンツェやエレオラとは立場が違う」
そんな考え方が出来る人じゃないのは分かっている。貴方はカルロを「スレンツェの古い知り合い」と捉えてしまうでしょう?
「……オレは大丈夫だよ。ほら、ユーファからもらったお守り代わりもあるしね」
彼が胸元から取り出してみせたのは、以前私があげた手作りの香袋だった。飾り紐の先に付いた小さな袋にリラックス効果のある手製のドライポプリが詰めてあり、中身は彼に頼まれる都度、私が入れ替えている。
もう五年も前にあげたものだ。フラムアークは任務に赴く度にこれを身に着けてくれているから袋はかなりへたっていて、何度か新しいものに取り替えましょうと提案したのだけれど、彼はこれがいいんだと言って譲らないから、すっかりくたびれた見てくれになってしまっている。
それを目にしたら、何だか胸がいっぱいになってしまった。
「……ユーファは心配していることを素直に伝えるだけでいいと思うよ。それだけで君の気持ちは充分にスレンツェに伝わると思う」
「そうでしょうか……?」
「うん。ユーファの言葉がもたらす効果は大きいから」
「だと、いいんですが」
その効果が発揮されるよう願いながら、私は改まってフラムアークに申し出た。
「では……お願いがあります、フラムアーク様」
「? うん」
「決して一人で責任を抱え込まないと、約束して下さい」
先程彼がスレンツェに伝えた言葉を引用して、私はそう願い出た。
「仮に貴方がスレンツェに命じてカルロを討ち取らせる結果になったとしても、それは決して貴方だけの責任じゃありません。私はそれを望んだ当事者の一人で、共に責任を負うべき者です。だって私は、貴方もスレンツェもカルロの為に失いたくはないから」
それは偽りのない本心だった。軽く目を瞠るフラムアークに向かって、私は一心に訴える。
「カルロがレジスタンスを組織している以上、フェルナンドの謀略がなくても、いずれ彼とはぶつからねばならない運命だったのだと思います。明日、もしも話し合いが決裂して武力行使で決着をつける形になったとしても、それは互いの譲れない信念をぶつけ合った結果です。私は非力で、後方からその光景を見ている事しか出来ないでしょうが、でも、つぶさに目に焼きつけておきます。貴方達と一緒にその結果を背負います。だから決して一人で全てを抱え込もうとしないで下さい」
「ユーファ……」
「心配なんです、貴方もスレンツェも。二人とも当たり前のような顔をして、辛いことを全部自分の責任にして抱え込んでしまいそうだから―――そういうところが似ているんですよ、貴方達は。だから私はそこをすごく心配しているんです」
私の言葉が届くというのなら、二人ともどうか心に留め置いてほしい。貴方達だけが必要以上に責任を感じて、苦しむ必要はないのだ。
「補給して下さい」
私は自分から両手を広げて、フラムアークの前に進み出た。
「えっ?」
「私で貴方の英気が養えるなら、どうぞたくさん補給していって下さい」
唐突な申し出に戸惑う彼の気配を感じて、今更ながら気恥ずかしさが込み上げてきたけれど、私はそれを堪えて言い募った。
「変な意味じゃありません。その、だから、ハグッ……ハグです! 絶対に、無事で帰ってきてほしいから……!」
考えないようにしていた本音が、口を突いて出た。
私はハッとして唇を引き結んだけれど、一度出た言葉は二度と口の中に戻りはしない。
ずっと、心の奥にくすぶっていた不安だった。
明日の様相は不確定で不明瞭で、どう転がるのか予断を許さない。それはすなわち、彼らの命運が潰えてしまう可能性をも孕んでいる。
フラムアークが指揮官として優れた資質を持っているのは知っているし、剣士としてのスレンツェの腕は言わずもがなだ。たくさん集まってくれた援軍だって、心強い。
でも現状、イズーリ周辺の有力者達からの援軍はまだ到着しておらず、カルロ達とぶつかる前に合流出来るかどうかは不透明だ。彼らが間に合わなければ、こちらはカルロ達の半分にも満たない兵力で臨まざるを得ない。
何より、カルロだって必死なのだ。一度全てを失い、そこから執念で大規模なレジスタンスを作り上げて、悲願の為に突き進んでいる。そんな命懸けで挑んでくる相手を前に無事でいられる保証なんて、どこにもない。
フラムアークが初陣を迎えた時も怖かった。けれどその時とはまた違う怖さがある。
でも、あの時と違うのは、私はこうして彼らの傍にいて、同じ舞台に立っていられるということだ。有事の際は、自分で手を尽くすことが出来る。それが救いだった。
だから、あの時のように泣いたりはしない。代わりに精一杯、私は私の役目を果たすんだ。
「……こういう決戦前夜というか、何かを成し遂げる直前って、軽い緊張状態というか興奮状態っていうのかな―――何となく血が荒ぶるのを感じるんだ。人が本来持っている闘争本能とか生存本能に起因するのかもしれないな。だから、ユーファに触れるのは自重しようと思っていたんだけど……」
フラムアークはどこか独り言のようにそう呟くと、両手を広げたままの姿勢で止まっている私を見つめた。それから少し間を置いて頬を緩めた彼は、重苦しくなってしまった空気を一転させるように明るい口調でこう言った。
「でも、そんな考え一瞬で吹き飛んだ。やっぱりユーファのもたらす言葉の効果は大きいな。そうだね……こういう時だからこそ、英気を養わないとね」
目の前で穏やかに細められるインペリアルトパーズの瞳。ゆっくりと歩み寄ってきた彼の腕が私の背中に回されて、広い胸にふわりと包み込まれる。血が荒ぶっていることなど微塵も感じさせない、優しい抱擁だった。
ああ、自制心の強いフラムアークらしい。でも私は今、彼に無用な気遣いをしてほしくなかった。
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