実験を受けているΩと若い医師

紫雲もか

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1章

1話 始まり

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 当たり前と思っていた日常が簡単に崩れること。
 自分の身体が自分の思う通りに動かなくなること。
 それが、恐怖しか感じなくなること。
 知りたくないことを一気に知ってしまった。
 あの蒸し蒸しと暑かった日のことを今もずっと忘れることができないままでいる。真っ暗になったあの瞬間を。
 だから、誰かが言った、時間が解決してくれることなんてないのだと知った。
 時間はあの時のまま。今も動いているなんて思えない。

「おはようございます。辻浦さん」

 ガラッという音と共にカーテンが開かれ、いつものハキハキとした声色が辺りに響き渡った。

「あ……」

 その瞬間、涼斗は意地でベッドの上から起き上がり、声のする方に視線を向けていつもと変わらない空返事をする。
 視界は、先ほどまで見上げていた天井の蛍光灯のせいか、目がチカチカとしていた。

「体調どうですか?」

 今日で実験が開始されてから3日目。今の所、特に身体に異変はなかった。

「特には」
「そうですか。今回の薬よかったですね。じゃあ、体温を測ってくださいね」

 彼女はパソコンに涼斗の体調のことを打ち込みつつ、体温計を差し出した。 

「あ、あぁ」

 手を伸ばし、それを受け取ると黙ったまま体温計を脇に挟み込む。
 数秒でピピっという音が鳴り響き体温は測り終わり、体温計を看護師に渡そうと手を動かした瞬間だった。

「……っ」

 突然、涼斗の視界がクラっと揺らぎ、体温計が床に転がった。

「だ、大丈夫ですか? 辛いのなら、起き上がらなくていいんですよ」

 そう言って涼斗が倒れないように支える。
 それでも、涼斗はどうしても起き上がることをやめたくなかった。横になってばかりいたら、まるで本物の病人のようだと思えるから。

「大丈夫、だ。気に、しなくて、いい」

 支えてくれている腕を払い、自分だけで身体を支える。そして、深呼吸で息を整え、落としてしまった体温計を拾う。

「これ」

 体温計を改めて、看護師に差し出すとそのまま、横になる。もう起き上がっていることはできなかった。

「はぁ……。気にしますよ。大切な患者さんなんですから」

 ため息混じりにそう呟き、体温をメモしていく。体温は37.9度。ここ数日の間、毎日微熱が続いていた。
 理由は分かっているので別に驚くこともない。けれど、普通の熱よりも
 それに加えて、看護師の女性は何にも思っていないのに、心配をしているふりをしているように涼斗には見えて余計に気分が悪くなった。

「なら、なんで?」

 首に付けられている機械を掴み、声を荒げて言う。
 その機械は心拍や位置情報などを測るために付けられており、体調管理などがなされているもの。涼斗と同じようにここにいる人たちには皆同様に付けられている。

「……」

 看護師は黙ったまま涼斗を見つめ、パソコンを改めて眺め始めた。
 ここに来ることを了承したのは涼斗自身。だから、看護師や医師が悪いわけでも、この施設が悪いわけでもない。それでも、こんなに辛いなんて聞いていなかった。

「い、いいから、今日のこと教えてくれ。どうせ、逃げられないんだから」

 投げやりになりつつ、涼斗は言い放った。申し訳ないとか思ったけれど、どうしても謝る気にはなれなかった。

「あ、はい。今日は、この後、昨日と同じように診察室にいってもらって、その後に処置を行なってもらう予定です」

 パソコンに向けられた目線を慌てて涼斗に向き直して、看護師はなるべく落ち着きを持った様子でそう言った。

「わかった」

「はい。では、また呼びにきますのでご自由に過ごしてくださいね。では」

 看護師は気まずそうなにそう言うとカーテンに手をかけすぐさま、涼斗の前から去っていった。
 その様子を黙って見ながら、次第に意識が遠のいていくのを感じた。

(嫌だな……)

 特に最近は身体が自分のものではないと言われているような気がするのだった。

「辻浦さん」

 ご飯のいい匂いと共に、カーテン越しに名前を呼ばれる。

「ん……」

 無理やり重たい身体を起こしつつ、目に前に朝食が置かれるのを黙って見つめた。食欲はほとんど湧かず、匂いだけで気持ちが悪くなってくる。

「体調、大丈夫ですか? 寝ていてもらっても大丈夫ですよ」

 涼斗の顔色を見てかスタッフの人はそう言い残し、次の人のところへと行ってしまった。
 それでも、食べようと握力の無い手で箸を持つ。食べないとまた体重が落ちてしまうのではないかと思ったから。
 細く骨ばっている腕や指、腰回りだって細くなってしまった身体。これ以上は見たくなかった。
 まだ、食べれそうな温野菜を箸で掴み、口へと持ってくる。匂いはそこまで酷くなく、口当たりは悪くなかった。けれど、他のものは匂いを嗅ぐだけで気持ちが余計に悪くなり、食べれずに食事の時間を終える。これが毎日のこと。なのに、毎日、悲しくなってくる。

「辻浦さん。ご飯は食べられましたか?」

 ご飯の後、車椅子を持って、診察へと呼びにきた看護師に聞かれる。

「いや」

「そうですか。今度は食べれるといいですね」

 なるべく明るい表情と笑顔で言われる。  
 また、惨めになっているような気がした。

「あ、はい」

 そう答え、そのまま看護師が持ってきた車椅子に乗る。
 ベッドから車椅子。なんて事のない距離。なのに、身体は動かしずらく、息が絶え絶えになる。けれど、これが現実だった。

「では、いきましょう」

 乗り終えると看護師に後ろから押されて、涼斗は診察室へと向かう。 
 涼斗が後にした病室。そこには、薬品の匂いがそこら中に漂っていた。アルコールの匂いからよくわからない匂いまで。涼斗はそのどの匂いからも逃げられる気がしなかった。
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