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0話・プロローグ:小さな世界が終った日

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全ての悪夢はあの夜に始まった。
少し古びた私たちの家から見える町が真っ赤に燃えていた、あの晩。
震える母に力強く抱きしめられながら、私は訳も分からず母に尋ねた。

「ねぇ。どうしたの、ママ。町、まっかっかだよ。お祭りなのかな」

もう少しで四歳になる私は、恐怖で真っ青になった母にも気付かず無邪気に笑った。

「いいえ…違う、違うの。エヴァ。…ごめんね、ちょっと窮屈かもしれないけどこのまま…このままでいて」
「?うんっ、わかったよ。ママのおねがいだもん!」
「…ありがとう」

私たちはそのまま、燃え盛る町を遠目に静かな時を過ごした。
遠くのざわめきはポツリポツリを振り始めた雨に流されて消えていく。悲鳴、慟哭、咆哮……一目を避けるために外れに立てたこの家には何一つとして届くことは無く消えていく。
ぎゅっと抱きしめる母の力が強くなる。

「ごめん…ごめんね、エヴァ。ママ、何があっても貴方を守るから…。大丈夫だから…」

ポタリ。と垂れた雫が、母の胸の中にあった私の頭を濡らした。

「ママ、悲しいの?それとも、どこか痛いの?」

初めてみた母の涙に、そのときの私は焦って問いかけた。
外へ向いていた視線を直ぐに母へ移すと、何かを噛みしめるような苦しそうな顔で彼女は頭を振った。

「なんでも、ないの…。私、本当にダメな母親だった、から……」
「どうして⁈ママはママだよ!世界一のママだよ。私の大好きな、大大大大好きな、ママだよ!」

それでも彼女は朱鷺色の頭を振るのを止めなかった。アメジストの瞳からは未だ止めどない涙が流れ続けている。

「私も…私も、愛しているわ。エヴァ…私だけの、愛しい子―」

チュっと額に振った彼女のキスに私は笑顔で身をすくめた。
いつもの母だ、と柔らかい時間に胸を満たしながら。

「うん、私もママだーい好きっ!」

ギュっと力一杯抱きしめ返した私たちの胸は確かな愛と信頼で満ちていた。
だからそう、物語はこれで終わるはずだった。

―がっこおおおおおおおおおおおおおおんっっっ

何かが蹴り倒され、吹き飛んだ音がした。それと同時に感じた響きから、壊れたのは私の家の扉だったのだろう。

「―っ!」

ひゅっと息をのんだ母を不思議に思いながら、ドタドタと近づいてくる足音に耳を澄ます。しかし、それは母の真剣な声に遮られることとなった。

「エヴァ」
「?」
「最後に一つだけ、私から貴方へ魔法をかける」
「うん?」
「魔法を解く方法は一つだけ。貴方が心から守りたいと、愛おしいと思える存在を見つけること」

苦しみと後悔の中に確かに見えた決意の眼差しに、私は違和感を覚えて問いかけた。

「……まま?」
「今まで、本当にありがとう。愛しているわ」

そう囁いて母は私の右瞼へとキスを落とした。ふわりと目の奥が暖かくなる。すっと空気が変わるのを身に感じながら、母から紡がれる意味不明の呪文が私を捕らえていった。知っているようで知らない、聞き慣れているようで聞き慣れないその声は私の右目を介して心をも絡めた。

「〈エルフ族が一人 エルメア=クロードの名において命じる エヴァーリア=クロードを守り給え〉」
「ん…、ママ?何か言ったの」

初めて聞いた言語を疑問に思って母へと視線を移すと、そこにいつもの母はいなかった。

「え…?」

まず、髪の色が違った。柔らかなピンクベージュではなく、神秘の銀髪をしていた。それから耳の形が違った。丸み帯びた人族の耳ではない―童話に出てくる、エルフのような尖がった耳。

「ま、ま…?」
「忘れないで、エヴァ。私はいつもあなたを思っている。貴方を愛している。これから辛いこと、大変なこと、沢山あると思う。でも、負けないで。最後の最後まで足掻いて逆らって―貴方の道を歩き続けて…」
「………っぁ」

どうして、どうしてそんな苦しそうな顔で、どうしてそんなお別れの言葉みたいな…っ!思い切り叫び出したいのに、どれも上手く言葉にならずもどかしさだけが涙となって消えていく。
ぐちゃぐちゃに混ざった青汁みたいな苦い感情が、現状すら理解していない私の心を満たした。

「―ここにいるぞっ!!」
「桃色の髪の子供だっ!ソイツを捕まえろ!!」

いつの間にか近くなっていた足音と共に聞こえた男たちの声に、母は優しく私を立ち上がられた。

「ほら。行って、エヴァ。どこまでも、どこまでも走り続けて。どんな絶望が貴方を襲っても、最後まで足掻き続けなさい。きっと、優しい光が貴方を満たしてくれるから」

見慣れない姿をした母は、その慈愛に満ちた瞳に決意の色を濃く浮かべて私の背を押した。

「生きなさい。その身、果てるまで。エルフの血に誇って」

『さようなら』震えた母の呟きを最期に、私は駆け出した。
これが母との最期の会話になるとも知らずに、母の言葉を真に受けた私は真っ暗闇の未来へと足を踏み出した。
夜の森は危険だ。行くなら町しかない。
そう理解した瞬間、私は夜の草原を駆けだす。
―下れ、下れ、下れ。
肌を叩く雨が居たくても、裸足の足が血だらけになっても。
―足掻け、足掻け、生きろ。
母の言葉を忘れるな。
―エルフの血に誇って
町の炎が、喧騒が近くなる。阿鼻叫喚な地獄と化したそこへ、私は迷うことなく足を踏み入れる。
いつも綺麗に舗装されている煉瓦の道が、赤黒いドロリとした液体で濡れているのを感じながら、町の中心へ向かって一歩ずつ近づいてく。
いつも使っている裏道を慣れたように進んで、嫌なくらい静まり返った陰から大広間へと入る。
真っ先に感じたのは、熱だった。
燃える炎と、森を駆け抜けた時にできた傷跡が熱を訴える。

「う”ああああああああああああ―――――っ!!!」

急に響いた声にパッと視線を移せば、お腹に大剣が刺さったままの男性が痛みに叫んでいた。
衝撃的な場面に、頭が理解するのを拒む。ただ視線も身体も動かずもがきながら死んでいく男性を、私は最後まで見つめていた。
理解できないのに、胸からは強い吐き気が迫ってくる。

「きゃああああああああああああ―――ッ!?!?」

反射的に動いてしまった視線の先には、剣を持った大男に迫られた女性が悲愴の涙を流していた。見なければよかったと後悔しながら、また一つ殺されていく命を眺める。
それはまるで、悪夢を見ている気分だった。まるで現実味のない、地獄のような光景。

「…ぁ………あぁ‥‥…ぅ、ぁ‥‥‥‥」

細い声に恐怖で固まった顔を動かす。何も考えることなど出来ずに、私は悪夢を重ねた。
そこには下半身を血だらけにした少女が、光の無い瞳で涙を流していた。
何があったのかなど考える暇もなく、死ぬよりも苦しそうな七、八歳の少女に胸が締め付けられた。
ガタガタと震える体をかき抱いて、視線を巡らせた。
見渡す限り、死体の山、山、山。
鼻を突く悪臭と、町を満たす熱気がこれが悪夢などではないと直接訴えてくる。
もう頭のどこかで知っていた。理解も納得も出来ずとも、分かっていた。

「あぁ…っ!あぅぁっ!!」

引きつった声が喉から零れ落ちる。
なんだ、なんなんだ、あれは。

「あっ、ぁ…ッ…ぁぁ…!!」

ウソだ。嘘だと言ってくれ。誰か。
つい二刻前に分かれたばかりの愛おしい人。
未だ見慣れなどしないけれど、それでも確かに彼女は―私の……。

「ぐっ、うっ…ああああああああああああああ―――ー!!!」

何をした。
私たちが、何をした。
世界の理不尽に私は力の限り叫んだ。
頭が痛みで狂いそうになる。黒服を来た男たちを睨む視界が真っ赤に染まる。耳を劈く悲鳴が心にまで傷を残した。

髪の色が変わったのが視界の端で見える。
銀だ。
あの時の母と同じ、銀色の髪。
血と炎で染まった地獄に映える、神秘の色。

一人。また、一人と死んでいく。
私と同い年の少女が、少年が、老人が、赤ん坊が、女性が、男性が――最愛の母が。
皆が、世界の理不尽に、飲まれていく。

「あ”あ”あ”あ”ああああああああああああああああああああああああ――――――っ!!!!」

分かってしまった。理解してしまった。
多くの男たちに両腕を抑えられた銀髪の女性は、長い耳を持ったあの人は、私の母なんだと。
例えかつての面影がないほどに顔が歪められていようとも、お揃いの服に見る影が無くなっていようとも――腹に紋章の入った剣が刺さっていようとも。彼女は間違いなく、小さな私の世界の全ての人だった。

『消えてしまえ、消えてしまえ、こんな世界ッッ!!いらない、いらない、いらない、いらないいらないいらないいらないいらないいらないいらないぃぃぃぃぃぃいいい――――っ!!』

理不尽に壊される世界なら、優しさを剣で滅ぼすような世界なら、あの人のいない世界なら―消えてしまえ。
本能のままに、荒れ狂う心のままに、私は魔力を放出した。

「『LV.100:世界の終焉』」

私が―いいや、私じゃない誰かが、遠くでそう言った。
視界を染めていた炎は一瞬にして光に代わり―風が吹き荒れる。
まるでパズルのピースが欠けたような不完全な世界は、誰に痛みを覚えさせる間もなく崩れた。
ガコン。
そんな音を最期に、私の小さな世界は終わりを迎えた。




―――その日。一つの大きな町が地図から消えたのを、私はだ知らなかった。






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