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女房
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姫君の話が終わっても、少将は黙ったままだった。
姫君が望んだ見鬼の才は、望みもしない少将の手にあり、姫君の手にある才は物の怪すら魅了する――しかしそんな二人を、女の童たちのように不幸だと決めつけることは、少将にはできないのだった。
几帳の向こうで、彼女は嘆息した。
「少将さまは私がその歌を詠んだとお思いだったのですか」
私の詠みぶりとは違うように思えますが、と彼女は言った。
大納言家を出た少将は、あの歌を反芻する。
「存えて 引き裂く風を 吹かすなら 青き下葉の 露と消えゆけ」
秋萩の姫。
次兄の亡くなった恋人。
「本当は露と消えたい、だったとしたら……兄上が歌を作り変えて、父上を呪った? 姫の身分を理由に仲を引き裂いた父上を」
それなら話の筋は通る。
通りはする、が。
「上の兄上なら激情に駆られて、というのも有り得なくはないが……あの兄上が、父上を呪詛までするだろうか。秋萩の姫絡みでは、しないとは言い切れない、か」
どうにも腑に落ちない。
そもそも、引き裂く風が本当に吹いたのかすら定かでないのだ。
もう少し探りを入れる必要がありそうだ。
自室に戻った少将は、いつもの古参女房とは違う若い女房が待ち構えていたので面食らった。
「左大臣家の姫さまから、お返しのお文が参りましたわ。一体、どこへお出かけでしたの?」
「どこでもいいだろう」
幼少期を知られている女房には頭が上がらない少将も、若い者には強気になる。
すぐにやり込められてしゅんとなるのがお決まりなのだが。
「まあ……左大臣家の姫さまだけでは物足りぬと見えますね。少しは兄上方に似てこられたのかしら。ま、右大臣さまもあのように多情でいらしたから――」
「父上が多情?」
確かに世の公達の例に漏れず通うところは他にもあったが、子を生したのは少将たち三兄弟の母だけである、筈だ。
戸惑う少将に、女房は妙に艶っぽい笑みを向けた。
「ここだけの話、召人の数では誰も敵いませんことよ。ご存じなくても無理はありませんわね、下々の者との関係など、些細なことですもの」
召人とは、お手付きの女房のことだ。
「北の方が姫宮さまでいらっしゃるから、身分ある姫君ではなく、女房の味見を好まれたのでしょう」
「お前は、火遊びを楽しめる類の男ではない」
振り返ると、次兄がゆらりと立っていた。
「兄上」
「あまり弟に妙なことを吹き込むなよ。この男は私たちと違って純粋なのだ」
次兄は若い女房を嗜めた。
女房は深々と頭を下げ、かしこまった素振りをみせる。
「申し訳ございません」
「とはいえ、お前のところで恋文を見る機会は増えたがな」
次兄がにやりとする。
女房はもっと話を聴きたそうにしたが、少将は彼女を追い払った。
「あの女房とて、父上と無関係ではあるまい。左大臣の姫とのやり取りも筒抜けだ」
「本当に狸親父ですね……あれ?」
「どうした」
「しかし父上は、大納言家の姫君とのことはご存じなかった様子でしたね」
呪詛事件の日、父右大臣は、少将が大納言の邸に扇を落としてきたことに、少なからず驚いているように見えた。
「大納言家とのやり取りをしている女房の口が堅いからだろう。口が堅いどころか、私たちにすら姿を見せぬではないか」
「え?」
次兄が何を言っているのかわからなかった。
少将は慌てて懐から文を取り出す。
忘れじの、の歌である。
「兄上から秋萩の姫のお話を聴いていた時、女房がこの文を持ってきましたよね?」
三の君さま! と、少将を呼ぶ声が蘇る。
もう、そんな呼び方をする者は、彼女の他にいない。
「持ってきた?」
次兄は、ひどく怪訝な顔をした。
「文箱の上に置かれていたのを、お前が見つけたのだぞ。覚えていないのか?」
姫君が望んだ見鬼の才は、望みもしない少将の手にあり、姫君の手にある才は物の怪すら魅了する――しかしそんな二人を、女の童たちのように不幸だと決めつけることは、少将にはできないのだった。
几帳の向こうで、彼女は嘆息した。
「少将さまは私がその歌を詠んだとお思いだったのですか」
私の詠みぶりとは違うように思えますが、と彼女は言った。
大納言家を出た少将は、あの歌を反芻する。
「存えて 引き裂く風を 吹かすなら 青き下葉の 露と消えゆけ」
秋萩の姫。
次兄の亡くなった恋人。
「本当は露と消えたい、だったとしたら……兄上が歌を作り変えて、父上を呪った? 姫の身分を理由に仲を引き裂いた父上を」
それなら話の筋は通る。
通りはする、が。
「上の兄上なら激情に駆られて、というのも有り得なくはないが……あの兄上が、父上を呪詛までするだろうか。秋萩の姫絡みでは、しないとは言い切れない、か」
どうにも腑に落ちない。
そもそも、引き裂く風が本当に吹いたのかすら定かでないのだ。
もう少し探りを入れる必要がありそうだ。
自室に戻った少将は、いつもの古参女房とは違う若い女房が待ち構えていたので面食らった。
「左大臣家の姫さまから、お返しのお文が参りましたわ。一体、どこへお出かけでしたの?」
「どこでもいいだろう」
幼少期を知られている女房には頭が上がらない少将も、若い者には強気になる。
すぐにやり込められてしゅんとなるのがお決まりなのだが。
「まあ……左大臣家の姫さまだけでは物足りぬと見えますね。少しは兄上方に似てこられたのかしら。ま、右大臣さまもあのように多情でいらしたから――」
「父上が多情?」
確かに世の公達の例に漏れず通うところは他にもあったが、子を生したのは少将たち三兄弟の母だけである、筈だ。
戸惑う少将に、女房は妙に艶っぽい笑みを向けた。
「ここだけの話、召人の数では誰も敵いませんことよ。ご存じなくても無理はありませんわね、下々の者との関係など、些細なことですもの」
召人とは、お手付きの女房のことだ。
「北の方が姫宮さまでいらっしゃるから、身分ある姫君ではなく、女房の味見を好まれたのでしょう」
「お前は、火遊びを楽しめる類の男ではない」
振り返ると、次兄がゆらりと立っていた。
「兄上」
「あまり弟に妙なことを吹き込むなよ。この男は私たちと違って純粋なのだ」
次兄は若い女房を嗜めた。
女房は深々と頭を下げ、かしこまった素振りをみせる。
「申し訳ございません」
「とはいえ、お前のところで恋文を見る機会は増えたがな」
次兄がにやりとする。
女房はもっと話を聴きたそうにしたが、少将は彼女を追い払った。
「あの女房とて、父上と無関係ではあるまい。左大臣の姫とのやり取りも筒抜けだ」
「本当に狸親父ですね……あれ?」
「どうした」
「しかし父上は、大納言家の姫君とのことはご存じなかった様子でしたね」
呪詛事件の日、父右大臣は、少将が大納言の邸に扇を落としてきたことに、少なからず驚いているように見えた。
「大納言家とのやり取りをしている女房の口が堅いからだろう。口が堅いどころか、私たちにすら姿を見せぬではないか」
「え?」
次兄が何を言っているのかわからなかった。
少将は慌てて懐から文を取り出す。
忘れじの、の歌である。
「兄上から秋萩の姫のお話を聴いていた時、女房がこの文を持ってきましたよね?」
三の君さま! と、少将を呼ぶ声が蘇る。
もう、そんな呼び方をする者は、彼女の他にいない。
「持ってきた?」
次兄は、ひどく怪訝な顔をした。
「文箱の上に置かれていたのを、お前が見つけたのだぞ。覚えていないのか?」
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