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言霊
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五年程の月日を経て、今や姫君は古今の草子を全て諳んじることができるようになった。
母の歌は明らかに恋の歌だった。
父への想いを隠すことなくうたうことによって、却って父の心変わりを責めるかのように思えたが、それはひねくれ者の姫君の穿ち過ぎなのだろうか。
母の真意は推し量るしかないが、経験の乏しい姫君には難題だ。
言葉の意味がわかるようになっても、心情を正確に理解するのは難しい歌であった。
姫君の心には父への不信感が募っていた。
母はなぜ、あんな男のために血の涙を流すのだろう。
古今の草子を開き、灯りを点す。
夾算が挟まっていたところには、いくつも恋の歌が書かれていたが、若き乙女である筈の姫君の心は少しも躍らなかった。
「秋が来て 木の葉の色が 変わるけど 思う言の葉 色は変わらず」
色は変わらず、だなんて。
「よくもそんな嘘が言えるわね」
姫君は独りごちた。
「嘘ではない」
「――誰?」
思いがけない返答に、姫君は勢いよく後ろを振り返った。
辺りを見回しても人の気配はない。
「あなた、物の怪なの?」
恐る恐る話し掛ける。
「物の怪って、弱っている人に取り憑いて、意味の分からないことを叫ぶばかりのものだと思っていたけど……」
声はせせら笑うように言った。
「それは人であったことを忘れ去ったものたちだ。所詮は弱った者にしか近づけぬ、低級な物の怪よ」
一緒にするな、と言わんばかりである。
姫君は物の怪共の矜持に興味などなかった。
「……母上に会いたいわ」
「何?」
声は不審そうに言った。
「あなた、力ある物の怪なんでしょう? 亡くなった人を呼び戻してほしいの」
「そなたに力を貸す義理はないのだが。物の怪は人間に従うものではない。陰陽師共が使役する式とは違うのだ」
「じゃあ、何か対価を払えばいいのね? 私の目にもう一度、たった一度でも、母上が映るなら何でもするわ!」
姫君は勢い込んで言った。
「何でも、な」
声は少し考え込んだふうだった。
「例えば命を差し出せと言われたら、差し出すというのか」
「そうよ。この世にもう母上はいないのだから、命なんて惜しくはないもの」
姫君は至極当然のように頷いた。
「ならば母を呼び戻し、永遠の命を与える代わりに、そなたがあの世へ行くか?」
「それじゃあ意味がないのよ! ひどいわ」
強がっていた姫君だが、ついに涙が零れてしまった。
「取引とはそういうものだぞ。そなたも母も得をするような甘い話はない」
「意地が悪いのね」
声は妙に楽し気に言った。
「本当に意地が悪かったら、さっさと騙して嬲っているところだ。腹を引き裂いて臓物を引き出す鬼もいるし、色欲に任せて女を襲って狂わせる猿の神もいる……それから――」
「も、もういいです!」
姫君は思わず後ずさる。
物の怪がどこにいるのか、皆目見当もつかないので逃げようもない。
彼女の怯えを察したように声は呟く。
「私にはそなたのような幼い娘に手を出す趣味はないがな」
沈黙の帳が下りた。ややあって、姫君はこう尋ねた。
「……どうしたら母上に会えますか。陰陽師のように修行を積めば、母上に会えるのですか」
「亡者を蘇らせるなど、禁術に違いない。成せる力のある者が限られるだろうし、命を賭してやろうとする者はさらに少ない……そもそも、怨霊となって現れていないなら、成仏したのだろう。そっとしておいてやるのがいい」
声はふう、とため息をついた。
「そんなことのために私を呼んだのか」
「そんなことですって?」
母に会いたいと願うことが、そんなことだと言うのか。
何と冷たい物の怪だろう。
「私には関係のないことだ」
「……それに私、あなたを呼んでいないわ」
「歌を読み上げて、文句を言ったではないか」
「えっ?」
声はそれ以上説明せず、面倒そうに告げた。
「教えてやろう。そなたは見鬼ではない。隠れた素質もない。私がこうして力を使ってやって、かろうじて声が届く程度の凡庸な人間だ」
絶望的な宣告であった。
思わず歌が口をついて出てしまう。
「会えぬなら この世の淵で 待ち望む 涙の枯れて くれないの秋」
「なるほど」
不意に、意地悪な物の怪が姿を晒した。
点した灯りの中にくっきりと浮かび上がった、息が止まる程の凄絶な美貌に、物堅い姫君の心にもさざなみが立った。
「歌詠みの素質はあるらしいな」
「そんなこと、何の役に立つと言うの」
姫君は吐き捨てる。
「そんなことだと」
物の怪はつと眉を上げた。
その不愉快そうな仕草すら絵になる人――いや、物の怪だ。
「私は歌を喰らって存えているのだ。ここ最近不味い歌で何とか食いつないでいたものでな……」
腹が痛うてかなわぬ、と彼はまるで生きた人のようなことを言って肩を竦めた。
母の歌は明らかに恋の歌だった。
父への想いを隠すことなくうたうことによって、却って父の心変わりを責めるかのように思えたが、それはひねくれ者の姫君の穿ち過ぎなのだろうか。
母の真意は推し量るしかないが、経験の乏しい姫君には難題だ。
言葉の意味がわかるようになっても、心情を正確に理解するのは難しい歌であった。
姫君の心には父への不信感が募っていた。
母はなぜ、あんな男のために血の涙を流すのだろう。
古今の草子を開き、灯りを点す。
夾算が挟まっていたところには、いくつも恋の歌が書かれていたが、若き乙女である筈の姫君の心は少しも躍らなかった。
「秋が来て 木の葉の色が 変わるけど 思う言の葉 色は変わらず」
色は変わらず、だなんて。
「よくもそんな嘘が言えるわね」
姫君は独りごちた。
「嘘ではない」
「――誰?」
思いがけない返答に、姫君は勢いよく後ろを振り返った。
辺りを見回しても人の気配はない。
「あなた、物の怪なの?」
恐る恐る話し掛ける。
「物の怪って、弱っている人に取り憑いて、意味の分からないことを叫ぶばかりのものだと思っていたけど……」
声はせせら笑うように言った。
「それは人であったことを忘れ去ったものたちだ。所詮は弱った者にしか近づけぬ、低級な物の怪よ」
一緒にするな、と言わんばかりである。
姫君は物の怪共の矜持に興味などなかった。
「……母上に会いたいわ」
「何?」
声は不審そうに言った。
「あなた、力ある物の怪なんでしょう? 亡くなった人を呼び戻してほしいの」
「そなたに力を貸す義理はないのだが。物の怪は人間に従うものではない。陰陽師共が使役する式とは違うのだ」
「じゃあ、何か対価を払えばいいのね? 私の目にもう一度、たった一度でも、母上が映るなら何でもするわ!」
姫君は勢い込んで言った。
「何でも、な」
声は少し考え込んだふうだった。
「例えば命を差し出せと言われたら、差し出すというのか」
「そうよ。この世にもう母上はいないのだから、命なんて惜しくはないもの」
姫君は至極当然のように頷いた。
「ならば母を呼び戻し、永遠の命を与える代わりに、そなたがあの世へ行くか?」
「それじゃあ意味がないのよ! ひどいわ」
強がっていた姫君だが、ついに涙が零れてしまった。
「取引とはそういうものだぞ。そなたも母も得をするような甘い話はない」
「意地が悪いのね」
声は妙に楽し気に言った。
「本当に意地が悪かったら、さっさと騙して嬲っているところだ。腹を引き裂いて臓物を引き出す鬼もいるし、色欲に任せて女を襲って狂わせる猿の神もいる……それから――」
「も、もういいです!」
姫君は思わず後ずさる。
物の怪がどこにいるのか、皆目見当もつかないので逃げようもない。
彼女の怯えを察したように声は呟く。
「私にはそなたのような幼い娘に手を出す趣味はないがな」
沈黙の帳が下りた。ややあって、姫君はこう尋ねた。
「……どうしたら母上に会えますか。陰陽師のように修行を積めば、母上に会えるのですか」
「亡者を蘇らせるなど、禁術に違いない。成せる力のある者が限られるだろうし、命を賭してやろうとする者はさらに少ない……そもそも、怨霊となって現れていないなら、成仏したのだろう。そっとしておいてやるのがいい」
声はふう、とため息をついた。
「そんなことのために私を呼んだのか」
「そんなことですって?」
母に会いたいと願うことが、そんなことだと言うのか。
何と冷たい物の怪だろう。
「私には関係のないことだ」
「……それに私、あなたを呼んでいないわ」
「歌を読み上げて、文句を言ったではないか」
「えっ?」
声はそれ以上説明せず、面倒そうに告げた。
「教えてやろう。そなたは見鬼ではない。隠れた素質もない。私がこうして力を使ってやって、かろうじて声が届く程度の凡庸な人間だ」
絶望的な宣告であった。
思わず歌が口をついて出てしまう。
「会えぬなら この世の淵で 待ち望む 涙の枯れて くれないの秋」
「なるほど」
不意に、意地悪な物の怪が姿を晒した。
点した灯りの中にくっきりと浮かび上がった、息が止まる程の凄絶な美貌に、物堅い姫君の心にもさざなみが立った。
「歌詠みの素質はあるらしいな」
「そんなこと、何の役に立つと言うの」
姫君は吐き捨てる。
「そんなことだと」
物の怪はつと眉を上げた。
その不愉快そうな仕草すら絵になる人――いや、物の怪だ。
「私は歌を喰らって存えているのだ。ここ最近不味い歌で何とか食いつないでいたものでな……」
腹が痛うてかなわぬ、と彼はまるで生きた人のようなことを言って肩を竦めた。
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