貝合わせ異聞

柚木

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なみだのいろ

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 柔らかな光で目を覚ますと、部屋は何事もなかったかのような静寂に満ちていた。

 昨夜までは加持かじ祈祷の僧侶の声と、憑坐よりましに取り憑いた物の怪の叫びが響き渡り、ものものしいことこの上なかったのだ。

 しかし今となっては、その騒々しささえ懐かしい。

 姫君の母は、夕方に男の子を出産したが、後産あとざんが下りないまま儚くなった。

 夜が更けていき、薬湯すら口にできず生気を失っていく母を、誰一人助けることができなかったのだ。

 何も知らぬ顔でのどかに眠る弟は、すぐに乳母に引き渡された。

 幼い姫君と姉も女房たちに連れられ、母の眠る部屋から移されてしまった。


 姫君は女房たちにも黙って、ある書物を持ち出した。

 母が読み上げて聴かせてくれた、古今の草子である。

 母は元々、姫君ではなく彼女より年長の姉に暗記をさせようと試みたのだが、三つか四つの姫君の方が覚えがよかったのだろう。

 やがて姫君にばかり丁寧に教えるようになっていったのだった。

 その思い出の和歌集を手放してはいけないと、幼いながらに思ったのだ。


 姫君の勘は正しかった。

 母が姫君――二人目の女の子を産んだ頃から、父は他の女性たちに通うことが多くなっていた。

 この度の待望の男の子の誕生には歓喜したものの、父は新しい北の方を迎えるため、母の身の回りの物を整理し、女房たちもほとんど解雇してしまった。

 姫君の手元に残った形見は、古今の草子を除けば、数枚の衣ぐらいのものであった。



「またそれを見ているのね」

 古今の草子を眺めていた姫君に、姉が声を掛けた。

 姫君がいつも見ているだけなのをかわいそうに思い、文字を教えてあげようと膝に座らせる。

「さて、どこからいきましょうか」

 口ではそう言いながら、ませた姉は迷わず恋歌の巻の一つを手に取った。

「あら?」

「どうしたの、おねえさま」

「何か硬いものが挟まっているわ」

 姉が無造作に草子を持ち上げると、かさりと音を立てて夾算きょうさんが落ちる。

 この時代の夾算、つまり栞は竹でできているのだ。

「まあ、どこに挟まっていたか、わからなくなってしまったわ」

 慌てる姉に、姫君は冷静な口調で言った。

「だいじょうぶよ。きっとはさんでいたところに、あとがついているわ」

「……あなたは本当に、私より利口ね」

 なぜ私が后がねなのかしら、という姉の声なき声は、幼い姫君には聞こえなかった。

「おねえさま、なにかかいてあるわ」

 姫君は夾算を拾い上げ、姉に手渡す。

「お母さまの字ね……」

 それを読んだ姉の顔が曇った。

「今日はやめにしましょう」

「えっ? どうして」

「どうしてもよ」

 姉はにわかに頭に手をやる。

 そうすると女房たちが慌てて飛んでくるのだ。

 姫君がそうしたところで誰も気に留めはしないのに。

「姫さま? おかげんでも悪いのですか?」

「つむりが少し痛むの……」

 女房たちにかしずかれて姉は去っていく。


 独り、部屋に取り残された姫君は、夾算が挟まっていた場所を探した。

「ここだわ……」

 草子に書かれた歌は一文字も読めなかった。

 夾算を見て比べてみると、古今の草子に書かれているのと同じように、五つのかたまりに分けて文字が書かれていることに気づく。

「これも、うたなのね」

 姫君は夾算を見つめた。

「おかあさまがつくられたうたなのかしら」

 いつかこの歌の意味を知りたい。

 その時はそう思った。

 姉の顔が掻き曇ったこともすぐに忘れてしまった。





 姫君はそこで言葉を切り、几帳越しに夾算を差し出した。

「これが……?」

 少将は注意深く夾算を受け取る。

 お産に際し、子を遺していくかもしれぬ不安を詠んででもいたのだろうか、と歌に目を通した少将は予想を裏切られた。



「いまはひとり ちぎりかわした きみおもひ ながすなみだの いろはくれない」
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