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姉弟
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小式部が少将を見る目は凍てついていたが、気を取り直して姫君の方を向く。
二人を隔てる物は几帳だけ、つまり布一枚きりだ。
姿が見えなくとも、衣擦れの音、息遣い――その一つひとつが男の想像を掻き立てるものである。
少将はと言えば姫君の顔を既に盗み見ているのだが、それでも、姫君の方も少将の気配を感じ取っているのだと思うと、平静ではいられない。
「……観音さま」
初めて耳にした時、冷淡だと感じた声。
やはり鈴の音のような可愛らしい声というよりは、年より大人びた声だ。
「は」
「常葉殿が見えるのですね」
姫君は淡々と述べた。
少し離れた所にいる小式部を見やり、声を低くして答える。
「とこはどの、とおっしゃるのですか、あの方は」
「ええ」
そう言ったきり、姫君は口を閉ざしてしまった。
常葉殿自身が珍しいものを見るように少将を見ていたことからも、物の怪が見える者は多くはないのだろうが、姫君の言葉には同志を見つけた感慨のようなものは感じられなかった。
「あの……私は観音菩薩ではなく……」
沈黙を破って姫君に声を掛けると、
「右大臣家の方なのでしょう?」
と、ぴしゃりと撥ね付けるような返事が返って来た。
とっくにばれていたらしい。
「……はい。兄たちと違って、何の取柄もない末子だ」
「取柄、とは」
「歌才も詩才も、音曲も舞も……何一つ兄たちに勝てず、知略で出世することも叶いませぬ」
ややあって、姫君は深く息をついた。
「何もおわかりになっていないのですね」
「は」
「見鬼の才がどれほど稀なものか、そして私がどれほどその力を持たぬことを嘆いたか」
少将は耳を疑った。
姫君が見鬼の力を持たぬ、だと?
「私は見鬼ではありませんから」
「それでは、なぜ――」
少将の疑問を汲み取り、姫君は告げる。
「私に常葉殿が見えているのは、そうね、私が常葉殿に魅入られているからよ。私の才ではなく」
姫君の歌を喰らう物の怪。
思いの外、洗練された貴公子然とした姿。
魅入られているという姫君の言葉。
――そして、見鬼の才が欲しかったという言葉。
それらを重ね合わせると、決して聡いとは言えない少将でも一つの結論に辿り着いてしまう。
「まさかあなたは、常葉殿を?」
姫君は何も答えない。
身じろぎすらしない。
「否定して下さらないのですね」
確かに、美しい物の怪だった。
日頃から見目の良い男を見慣れている少将が目を瞠るくらいには。
「ならばなぜ、返歌を下さった?」
打ち解ける気もない、私のような者に。
それでも、摘み上げた次の瞬間には打ち捨ててしまうのなら、初めから見向きもされない方が良かった……と思うことはできなかった。
一時でも自分の歌に応えて下さった人を、恨むことなど。
「……」
「あの返歌……少し、砕けた感じで嬉しかった。だから、調子に乗りすぎてしまったようです」
姫君がぴくりと肩を震わせた、ような気がした。
「お会いできて良かった――さようなら、姫君」
少将は一息に言うが早いか立ち上がり、後ろを振り返らずに姫君の寝所を出た――のだが。
「待って! そこにいらっしゃるのは、どなたですか?」
御簾の内から簀子縁に滑り出たところで幼い声に呼び止められ、振り向いてしまう。
「三位の中将さまではありません、よね」
「君は姫君の」
「はい、弟です」
貝合の準備に奔走していた、あの子だ。
「姉上と、契ったのですか」
「ち、ちぎっ」
近頃の子供は皆耳年増なのか、と頭を抱えたくなる。
「三位の中将殿も、私も……姫君には袖にされたようだ」
「化け物に邪魔立てされたのですね。あいつ……いつまで姉上を縛り付けておく気だ」
弟君の目に怒りの色が閃いた。
「君は姫君の気持ちを知っているのか」
そう問いかけると、弟君は硬い表情で頷く。
「勿論です。けれども、姉上は恐ろしいあいつに騙されているだけなんです」
弟君は言った。
女の童も弟君も、三位の中将も、それぞれに物の怪を想像し、悪し様に言った。
しかし少将には、「彼」の姿が見え、声も聞こえていた。
「……」
「諦めてしまわれるのですか」
常葉殿がもっと化け物然としていてくれたら、少しは勝負になっただろうか。
いや、それでも姫君は常葉殿を選んだのではないか。
あの詠み人知らずの歌に込められた、永遠を。
「私に勝ち目はないよ。姫君に無理強いはできない」
「おやさしいのですね」
弟君の声音は決して非難がましい調子ではなかったが、少将は苦笑いを以って受け止めた。
「やさしい、か」
やさしさなど、何の役に立つというのだ。
「失礼するよ」
弟君は去っていく男の背中を、暫く呆けたように見つめていた。
そして不意に
「あっ」
と声を上げる。
扇が落ちていた。
「早くお返ししないと……でも、あの方は一体どなたなんだ?」
二人を隔てる物は几帳だけ、つまり布一枚きりだ。
姿が見えなくとも、衣擦れの音、息遣い――その一つひとつが男の想像を掻き立てるものである。
少将はと言えば姫君の顔を既に盗み見ているのだが、それでも、姫君の方も少将の気配を感じ取っているのだと思うと、平静ではいられない。
「……観音さま」
初めて耳にした時、冷淡だと感じた声。
やはり鈴の音のような可愛らしい声というよりは、年より大人びた声だ。
「は」
「常葉殿が見えるのですね」
姫君は淡々と述べた。
少し離れた所にいる小式部を見やり、声を低くして答える。
「とこはどの、とおっしゃるのですか、あの方は」
「ええ」
そう言ったきり、姫君は口を閉ざしてしまった。
常葉殿自身が珍しいものを見るように少将を見ていたことからも、物の怪が見える者は多くはないのだろうが、姫君の言葉には同志を見つけた感慨のようなものは感じられなかった。
「あの……私は観音菩薩ではなく……」
沈黙を破って姫君に声を掛けると、
「右大臣家の方なのでしょう?」
と、ぴしゃりと撥ね付けるような返事が返って来た。
とっくにばれていたらしい。
「……はい。兄たちと違って、何の取柄もない末子だ」
「取柄、とは」
「歌才も詩才も、音曲も舞も……何一つ兄たちに勝てず、知略で出世することも叶いませぬ」
ややあって、姫君は深く息をついた。
「何もおわかりになっていないのですね」
「は」
「見鬼の才がどれほど稀なものか、そして私がどれほどその力を持たぬことを嘆いたか」
少将は耳を疑った。
姫君が見鬼の力を持たぬ、だと?
「私は見鬼ではありませんから」
「それでは、なぜ――」
少将の疑問を汲み取り、姫君は告げる。
「私に常葉殿が見えているのは、そうね、私が常葉殿に魅入られているからよ。私の才ではなく」
姫君の歌を喰らう物の怪。
思いの外、洗練された貴公子然とした姿。
魅入られているという姫君の言葉。
――そして、見鬼の才が欲しかったという言葉。
それらを重ね合わせると、決して聡いとは言えない少将でも一つの結論に辿り着いてしまう。
「まさかあなたは、常葉殿を?」
姫君は何も答えない。
身じろぎすらしない。
「否定して下さらないのですね」
確かに、美しい物の怪だった。
日頃から見目の良い男を見慣れている少将が目を瞠るくらいには。
「ならばなぜ、返歌を下さった?」
打ち解ける気もない、私のような者に。
それでも、摘み上げた次の瞬間には打ち捨ててしまうのなら、初めから見向きもされない方が良かった……と思うことはできなかった。
一時でも自分の歌に応えて下さった人を、恨むことなど。
「……」
「あの返歌……少し、砕けた感じで嬉しかった。だから、調子に乗りすぎてしまったようです」
姫君がぴくりと肩を震わせた、ような気がした。
「お会いできて良かった――さようなら、姫君」
少将は一息に言うが早いか立ち上がり、後ろを振り返らずに姫君の寝所を出た――のだが。
「待って! そこにいらっしゃるのは、どなたですか?」
御簾の内から簀子縁に滑り出たところで幼い声に呼び止められ、振り向いてしまう。
「三位の中将さまではありません、よね」
「君は姫君の」
「はい、弟です」
貝合の準備に奔走していた、あの子だ。
「姉上と、契ったのですか」
「ち、ちぎっ」
近頃の子供は皆耳年増なのか、と頭を抱えたくなる。
「三位の中将殿も、私も……姫君には袖にされたようだ」
「化け物に邪魔立てされたのですね。あいつ……いつまで姉上を縛り付けておく気だ」
弟君の目に怒りの色が閃いた。
「君は姫君の気持ちを知っているのか」
そう問いかけると、弟君は硬い表情で頷く。
「勿論です。けれども、姉上は恐ろしいあいつに騙されているだけなんです」
弟君は言った。
女の童も弟君も、三位の中将も、それぞれに物の怪を想像し、悪し様に言った。
しかし少将には、「彼」の姿が見え、声も聞こえていた。
「……」
「諦めてしまわれるのですか」
常葉殿がもっと化け物然としていてくれたら、少しは勝負になっただろうか。
いや、それでも姫君は常葉殿を選んだのではないか。
あの詠み人知らずの歌に込められた、永遠を。
「私に勝ち目はないよ。姫君に無理強いはできない」
「おやさしいのですね」
弟君の声音は決して非難がましい調子ではなかったが、少将は苦笑いを以って受け止めた。
「やさしい、か」
やさしさなど、何の役に立つというのだ。
「失礼するよ」
弟君は去っていく男の背中を、暫く呆けたように見つめていた。
そして不意に
「あっ」
と声を上げる。
扇が落ちていた。
「早くお返ししないと……でも、あの方は一体どなたなんだ?」
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