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御簾の内
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少将の従者たちは待賢門の外に車を寄せ、交代で眠い目をこすりながら見張りをしていた。
走って駆け寄って来た少将を見て、驚きの声を上げる。
「少将さま、今宵は宿直では」
「車を出せ。急ぎ参りたい場所ができた」
面食らう従者たちを急かし、牛車で大納言家へと向かう。
しかしどれだけ急いでも所詮は牛の歩み。
牛車が動き始めてすぐ、少将は馬でも借りればよかったと後悔したが、彼の手綱さばきでは三位の中将に追いつきようもないだろう。
漸く大納言邸に辿り着くと東の四足門の脇に八葉の車が停まっていた。
三位の中将の車であろう。
わざわざ東の君の寝所に近い東の門から入ったということは、東の君に会うと偽ったのかもしれない。
少将も門の脇に車を寄せたが、そこではたと考え込む。
貝合の折は人の出入りに紛れて運よく入り込めたが、今宵は出入りする者もなく、門番が何事かとこちらを見つめている。
「少将さま、着きましたが……取次ぎを頼みましょうか」
そのようなことをすれば大事になってしまう。
が、そうも言っていられまい。
「……私が直に話そう。お前たちはここで待っていてくれ」
少将は車を降り、門番に歩み寄った。
「三位の中将殿に急用があって参ったのだが。ここを通してくれるか」
門番は少将に探るような目を向ける。
「高貴なお方と見えまするが、一体どこのどなた様です?」
「言えば通すのか」
「……」
門番は黙り込んだ。
「三位の中将殿はそちらの姫君に狼藉を働くやもしれぬ。そう思って追って参ったのだ」
少将が急き込んで言った時、少女の声が上がった。
「その方をお通し下さいませ!」
姫君の女の童だ。
門番はなおも訝しげに少将を睨む。
「私の言葉は、姫さまのお言葉ですからね!」
女の童が肩をそびやかして言うと、門番は渋々少将を通した。
少将は恐る恐る尋ねる。
「三位の中将殿は、姫君の所に?」
「ええ。東の君の所へ来たと言って入っていらしたようなのですけど、姫君の寝所に向かって来られて……小式部さまがやんわりとお断りしているとは思うのですが、踏み込まれたら、女にはなすすべがないでしょう?」
女の童は泣きそうな顔で言い募る。
やはり東の君に会う振りをしたのか。
姫君の部屋は西の対にある。
東の門から西の対へ行くには、堂々と東の対を突っ切るか、橋を渡って池を越えていくかしかない。
東の対に侵入すれば、東の君に騒がれてしまう。
いや、ここは三位の中将の不実を糾弾してもらうべく、東の君を引き連れて踏み込んだ方が良いのか?
しかしそれでは東の君の嫉妬が増し、姫君の立場が悪くなる……。
考え込む少将の袖を、女の童は強引に引っ張った。
「ぐずぐずしてる暇はありません、行きましょう、観音さま」
「ぐずぐずって、君」
子供とはいえ、失礼な、と思ったが、いちいち言い争っている暇はない。
二人は池を越え、落ち着いて眺めれば情趣溢れている筈の庭を足早に横切った。
西の妻戸から屋内に入り、そこからは女の童の後に付き従う。
兄たちによれば、姫君の寝所は邸内の奥深くと相場が決まっているらしいが。
「こちらです」
女の童が御簾の向こうを指し示した。
あちら側を透かし見ようとしても何も見えず、物音も聞こえない。
まさか、帳台の中まで押し入ってしまった後だろうか。
そうなってしまったのであれば、閨を暴くのは姫君の名誉を傷つけるだけだ。
土壇場で少将は怖気づく。
「何を躊躇っておられるのです! さ、お早く!」
しびれを切らした女の童が御簾を勝手に捲り上げた瞬間、少将の目に飛び込んできたのは――。
「中将殿?」
床を這うようにしてこちらに向かってくる三位の中将の姿だった。
「ど、どうなされたのです――」
三位の中将は少将を目にするや、少し安堵したような表情を浮かべて立ち上がろうとした。
しかし足が震えて立ち上がれないようだ。
「一体何が……姫君はご無事なのでしょうね?」
御簾の中に一歩足を踏み出そうとすると、三位の中将は背後から少将の足首を掴んできた。
「何をなさいます、こけてしまうではありませんか!」
つんのめった少将に、三位の中将は息も絶え絶えに言う。
「行ってはならぬ」
「は」
「ここは鬼の住処ぞ。人の身で、気安く近づくものではない」
そう言われると、怯む気持ちはあった。
しかし兄の言葉を思い出し、踏み止まる。兄は言ってくれた。
「お前ならば、あるいは……あの姫君を救えるやもしれぬぞ」
と。
「ご忠告は有り難く存じますが……御免!」
少将は三位の中将の鳩尾に拳を繰り出した。
普段の中将であれば簡単にかわせるのだろうし、万一当たってもそれほどの被害は被らないだろうが、今の中将は容易に崩れ落ちた。
「中将殿の従者たちに伝え、すぐに連れ帰ってもらいなさい。ここで目を覚まされると厄介だ」
女の童に命じると、
「はいっ!」
とにこやかに応えて駆け出す。
この少女、何というか肝が据わっている。
少将は意を決して御簾の内に歩を進めた。
走って駆け寄って来た少将を見て、驚きの声を上げる。
「少将さま、今宵は宿直では」
「車を出せ。急ぎ参りたい場所ができた」
面食らう従者たちを急かし、牛車で大納言家へと向かう。
しかしどれだけ急いでも所詮は牛の歩み。
牛車が動き始めてすぐ、少将は馬でも借りればよかったと後悔したが、彼の手綱さばきでは三位の中将に追いつきようもないだろう。
漸く大納言邸に辿り着くと東の四足門の脇に八葉の車が停まっていた。
三位の中将の車であろう。
わざわざ東の君の寝所に近い東の門から入ったということは、東の君に会うと偽ったのかもしれない。
少将も門の脇に車を寄せたが、そこではたと考え込む。
貝合の折は人の出入りに紛れて運よく入り込めたが、今宵は出入りする者もなく、門番が何事かとこちらを見つめている。
「少将さま、着きましたが……取次ぎを頼みましょうか」
そのようなことをすれば大事になってしまう。
が、そうも言っていられまい。
「……私が直に話そう。お前たちはここで待っていてくれ」
少将は車を降り、門番に歩み寄った。
「三位の中将殿に急用があって参ったのだが。ここを通してくれるか」
門番は少将に探るような目を向ける。
「高貴なお方と見えまするが、一体どこのどなた様です?」
「言えば通すのか」
「……」
門番は黙り込んだ。
「三位の中将殿はそちらの姫君に狼藉を働くやもしれぬ。そう思って追って参ったのだ」
少将が急き込んで言った時、少女の声が上がった。
「その方をお通し下さいませ!」
姫君の女の童だ。
門番はなおも訝しげに少将を睨む。
「私の言葉は、姫さまのお言葉ですからね!」
女の童が肩をそびやかして言うと、門番は渋々少将を通した。
少将は恐る恐る尋ねる。
「三位の中将殿は、姫君の所に?」
「ええ。東の君の所へ来たと言って入っていらしたようなのですけど、姫君の寝所に向かって来られて……小式部さまがやんわりとお断りしているとは思うのですが、踏み込まれたら、女にはなすすべがないでしょう?」
女の童は泣きそうな顔で言い募る。
やはり東の君に会う振りをしたのか。
姫君の部屋は西の対にある。
東の門から西の対へ行くには、堂々と東の対を突っ切るか、橋を渡って池を越えていくかしかない。
東の対に侵入すれば、東の君に騒がれてしまう。
いや、ここは三位の中将の不実を糾弾してもらうべく、東の君を引き連れて踏み込んだ方が良いのか?
しかしそれでは東の君の嫉妬が増し、姫君の立場が悪くなる……。
考え込む少将の袖を、女の童は強引に引っ張った。
「ぐずぐずしてる暇はありません、行きましょう、観音さま」
「ぐずぐずって、君」
子供とはいえ、失礼な、と思ったが、いちいち言い争っている暇はない。
二人は池を越え、落ち着いて眺めれば情趣溢れている筈の庭を足早に横切った。
西の妻戸から屋内に入り、そこからは女の童の後に付き従う。
兄たちによれば、姫君の寝所は邸内の奥深くと相場が決まっているらしいが。
「こちらです」
女の童が御簾の向こうを指し示した。
あちら側を透かし見ようとしても何も見えず、物音も聞こえない。
まさか、帳台の中まで押し入ってしまった後だろうか。
そうなってしまったのであれば、閨を暴くのは姫君の名誉を傷つけるだけだ。
土壇場で少将は怖気づく。
「何を躊躇っておられるのです! さ、お早く!」
しびれを切らした女の童が御簾を勝手に捲り上げた瞬間、少将の目に飛び込んできたのは――。
「中将殿?」
床を這うようにしてこちらに向かってくる三位の中将の姿だった。
「ど、どうなされたのです――」
三位の中将は少将を目にするや、少し安堵したような表情を浮かべて立ち上がろうとした。
しかし足が震えて立ち上がれないようだ。
「一体何が……姫君はご無事なのでしょうね?」
御簾の中に一歩足を踏み出そうとすると、三位の中将は背後から少将の足首を掴んできた。
「何をなさいます、こけてしまうではありませんか!」
つんのめった少将に、三位の中将は息も絶え絶えに言う。
「行ってはならぬ」
「は」
「ここは鬼の住処ぞ。人の身で、気安く近づくものではない」
そう言われると、怯む気持ちはあった。
しかし兄の言葉を思い出し、踏み止まる。兄は言ってくれた。
「お前ならば、あるいは……あの姫君を救えるやもしれぬぞ」
と。
「ご忠告は有り難く存じますが……御免!」
少将は三位の中将の鳩尾に拳を繰り出した。
普段の中将であれば簡単にかわせるのだろうし、万一当たってもそれほどの被害は被らないだろうが、今の中将は容易に崩れ落ちた。
「中将殿の従者たちに伝え、すぐに連れ帰ってもらいなさい。ここで目を覚まされると厄介だ」
女の童に命じると、
「はいっ!」
とにこやかに応えて駆け出す。
この少女、何というか肝が据わっている。
少将は意を決して御簾の内に歩を進めた。
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