貝合わせ異聞

柚木

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心は如何に

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 兄がわざとらしく驚いてみせるが、少将は返す言葉もなかった。

 忘れ貝に書きつけたあの歌に、返歌があるとは。

 兄と女房に見守られ、かなり気まずい中、少将は折り畳まれた文を開いた。

「忘れじの 心は如何いかに 打ち寄せる 波をたよりに 舟は出だせず――あてにならない御心では、寄る辺ない私には頼りなく思えます」

 おや、と思った。

 いつもの技巧で飾った詠みぶりとは違っているような。

「頼りには出来ないと言いつつ、便はくださったわけだ……諦めるのはまだ早い」

 兄は微笑みを浮かべて少将の肩に手を置いた。





「珍しいこともあるものだな」

 眉一つ動かさず、しかし、面白くもなさそうに常葉殿が言った。

「妬いては下さらないのね。悔しいこと」

 姫君は女房が持って来た物語絵巻から目も上げずに答える。

 文机ににじり寄り、常葉殿は貝殻に書かれた三十一文字みそひともじを低い声で吟じた。

 そしてため息と共に呟いた。

「この歌は、佳い」

「佳い、ですか?」

「素直で、そうだな、とても……」

「とても?」

「……人らしい、と思う。私にはこのような歌は詠めない」

 姫君は思わず顔を上げる。

「なぜそのようなことを。常葉殿は――」

「私は人ではない」

「けれども、確かに人であったお方です」

 姫君は語気を強めた。

 事あるごとに常葉殿は、自分は化け物だ、と言う。

 そうやって、掴もうとする私の腕からすり抜けてしまう。

「あなたはずるい」

 私の歌を貪って存え、私の歌を好いていることは私を好いていることと同じと嘯き、それでいて、ずっと――。

「私があなたに歌を与えなければ、あなたは消える。でも、私がそうしないとあなたは知っている」

「だとしたら、私は随分な自信家だ」

 常葉殿は呆れたように肩を竦めた。

「そなたは誤解しているようだが、私は知っている。そなたがいつか心変わりをすると」

「私は心変わりなど……」

「思う言の葉 色は変わらず」

 あれは私がかつて人であった時の、誓いだ、と彼は続けた。

「心変わりをしないというのは、実に稀なことなのだ。それ故にこうして私はまだこの世に留まっている。おのが誓いの残滓に縋り、他人ひとの心を糧としてな」

「ならば私もあなたへの想いをよすがに、いつまでも存えるだけよ」

 当然だろう。

 常葉殿に起こったのであれば、私にも望みはあるはずだ。

「愚かな」

「そうよね。私が存えたところで、あなたの心は変わらないのですもの」

 唇を歪めるようにして笑みを浮かべる。

 常葉殿は静かにかぶりを振った。

「そなたに、かような道を歩ませたくないだけだ」

「あら、おやさしいのですね」

 それでも側にいると、とうに心に決めていた。

 この恋は最初から負け戦だとわかっていたからだ。

 私は彼の想い人には勝てないし、勝ってはいけないのだから。

「この道は、虚しいぞ」

 そう、そして私の道は、彼の辿って来た道よりも遥かに虚しいのだ。
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