貝合わせ異聞

柚木

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兄の告白 二

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「兄上、お辛いならばそれ以上は――」

「いや、お前には話しておきたいのだ。彼の姫君を救う助けになるやもしれぬ」

 少将も、真摯にそう言われれば、聞かぬわけにはいかない。

「秋萩の姫は、音曲に優れた女人だった。ことに、きんに秀でていた。その音色といったら……真に、天女が舞い降りて奏でているかのような心地がするのだよ」

 兄は目を瞑り、その音色を思い出したのだろうか、口許を少し緩めた。

 「琴のこと」は女人のたしなむ楽器の中でも別格である。

 琴の名手であることは、高貴な身分だけでなく気品をも備えた姫君である証だった。

「だがその音色は、人ならぬものを呼び寄せてしまった。奴らは響く心など持たないはずなのに。物の怪は、彼女の心に憑りついた。彼女と話している時、ふと別人のような顔になるのだ――声色は彼女そのものだったが、何かが違っていた。何と言ったらいいのか……どうしようもなく、冷たいものを感じるのだ。とはいえ最初はその程度だった。それから段々と、彼女の奏でる音が変わっていった。あれだけ温かく神々しかった音色が――」

 そこで兄は言葉を切った。

「いや、私は歌舞音曲に通じていると自負している。その上で言うのだが――彼女の音は研ぎ澄まされて、より美しくなった。悔しいことに彼女自身もだ。温かみは失われたが、琴の弾き手としては本当に……凄絶とすら感じる高みに登り詰めてしまった」

 少将は呆然と兄を見つめた。

 兄はそんな恋人の側に、どんな思いでいたのだろう。

「姫の琴の名声はさらに高まった。私とて、あの音色を否定することはできない。素晴らしいと絶賛する者が多くいたのもわからぬではない」

 あまりにも美しい音色だったのだろう。

 否定できれば、物の怪をただ断罪できれば、兄も少しは楽だっただろうに。

 それすら許されなかったというのか。



「しかし彼女は、もう人ではなかった」



「もう――おやめ、ください、兄上」

 少将は耳を塞ぎたい衝動に駆られた。

「いや、聞くのだ」

「兄上」

 おゆるし下さい、と言いたかった。

「お前は、聞かねばならぬ」

 睨みつけるように言い放つ兄を見、俯き、少将は首を横に振った。

「何故そこまで。私のためならば、もう十分です」

 俯いたままでも、兄が息を呑んだのがわかり、少将は顔を上げる。

「……すまない。お前のためなどというのは、傲慢であったな。私のために、聞いてはくれまいか」

 息を呑むのは少将の番だった。

「兄上は、まさか……どなたにもこのことを話さずに、お一人で抱えて来られたのですか」

「ああ」

「上の兄上にも?」

「あの方は、物の怪に魅入られた後の姫しか知らないのだ。彼女の奏でる旋律を聴いた兄上は、皆の賛辞にも惑わされず、私にこう尋ねた」

 あれは、何だ。

 人の身で、かような音を奏でられるわけがない――。

「兄上は今も彼女を憎んでいる。私をここまで虜にする、魔物のような女だと思っているらしい」

「そんな……」

「そう思っていてもらった方が良いのだ」

 私は、余計なことを兄上の耳には入れぬことにした、と兄は静かに言う。

 それなのに、聞きたくないと拒む弟には真実を容赦なく突きつける。

「物の怪は姫だけでは飽き足らず、私を誘惑した」

「兄上を?」

「私の目には妖艶な美女に映っていたよ。女は言うのだ、お前も舞人の端くれならば、神の域に足を踏み入れてみたくはないか、と」

 それは舞人として魅力的な誘いであっただろうが、この兄は踏みとどまった。

「神の域では意味がないだろう?」

 兄は哀しげに息を吐き出す。

「意味がない、とは」

「舞は神に捧げるもの。音曲もしかり、だ」

 では、彼の姫君の歌は。

 歌は、人と人の間を取り持つもの。

「私は物の怪の誘いに乗らなかった。それ故に彼女は取り殺されてしまったのだ」

「……」

「姫が同じような誘惑に負けたのかは今となってはわからぬ。そうだとして、それを責めることはできまい」

 少なくとも、私にはできない、と兄は続けた。

「彼の姫君と物の怪がどのような状態にあるのかはわからんが、彼女の場合は憑りつかれたあげく、最後にはほとんど同化してしまった」

「物の怪と同化……ですか?」

「ああ」

「何度呼びかけても、彼女は帰って来なかった。自分の名を忘れてしまったのだろうよ――」


「三の君さま!」
と、女房の声が二人の沈鬱な会話を遮った。

「これはこれは二の君さまも、ご機嫌麗しゅう……三の君さま、あなた様に、お文でございますわ!」

 主人の兄への挨拶もそこそこに、女房は涙を流さんばかりの剣幕で少将の手に文を握らせる。

「おや、薄様うすようではないか。今度はなぞなぞではなく、きちんとした恋文らしいな」
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