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二つの恋文
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自室に引き上げた少将は、姫君の言葉を反芻していた。
――寄る辺もないかたに、どうやって寄られるおつもり?
まずは文など贈ってみるべきだろうか、と考えて文机に向かったものの、相手はあの姫君である。
下手な歌は贈れない。
「波の騒ぎに 風が吹くもの――か。確かになあ」
一体あの姫君は、どれほどそれを実感してきたのだろう。
母が亡くなり、人が離れていく。
物の怪の類が憑いていると噂になり、人が寄り付かなくなる。
「私に、あの姫君が救えるだって?」
兄たちに劣っているとはいえ、右大臣家の恵まれた人間が何を言っても、彼女は気分を害するだけなのではないだろうか。
少将は板張りの床に身を投げ出した。
「浮舟を こがるる身をば 思いやれ 貝の渚に 寄せる白波」
その文を持ってきた男の童は、見るからに権門に仕えているような身なりの良い少年だった。
古参女房の小式部は喜び勇んで文を姫君に持ってきた。
海を模したのか淡い青の紙に、堂々とした筆跡で書きつけられている。
「誰からのお文なの」
「聞いても避けぬ者から、とのことでしたわ」
「三位の中将殿ね。面倒なことになったわね」
案の定、先日の貝合で遭遇した、東の君の想い人である。
許嫁と言ってもいいのだが、そう決め込んでいるのは大納言家の方だけのようで、彼の方はお構いなしで遊び回っていた。
「姫さま、三位の中将さまと申せば、宮中の花形中の花形でいらっしゃる、やんごとなき貴公子――」
「東の君の相手よ」
「だからこそでございますわ! あの母子に、姫さまたちがどれだけ苦しめられたことか」
「そんな理由で三位の中将殿と仲良くするなんて、まっぴらだわ」
「けれどもさすがに今を時めく貴公子らしく、素敵な歌の詠みぶりですわね」
「それは、そうね」
『舟を漕ぐ』様子から、『焦がれる』身を気にかけて下さい、という言葉を導き、『貝』と『甲斐』、『渚』と『無き』などを掛けつつも、全てを海辺の情景の中にまとめる技巧は、流石に手慣れている。
けれども彼の歌詠みとしての本質は、散りばめた技巧よりも『こがるる身』という情熱的な一語に集約されている、と姫君は思った。
物堅い女の心を溶かそうとする、血しぶくばかりの熱。
「あのう……」
姫君に仕える女の童を束ねている少女が、利発な顔に困惑の色を乗せて、佇んでいた。
「右大臣家の方からも、お文が参りました」
「何という……まあ、姫さまにもついに光が当たり始めたのですわ! あっ、それもこれも観音さまのお導きかもしれませぬ」
「観音さま、ねえ」
届けられた薄様の紙を広げてみる。透かして見ると、蓮華と法輪の模様が見えた。
「観音さまからのお文のようね」
「えっ」
小式部は驚いたように声を発したが、女の童は心なしか青ざめた顔で俯いている。
何のことはない、やはり観音菩薩ではなく、この子が手引きした者だったのだ。
右大臣家ならば、あのような州浜も簡単に用意できよう。
色々なことが腑に落ちてすっきりすると同時に、新たな問題が持ち上がった。
勿論、どちらの男も選ぼうなどとは思わないが――。
「右大臣家の、一体どなたから」
「小式部さま、それがわかりませんの」
「わからないですって? あなたは何という不始末を……」
騒ぎ始める二人を尻目に、姫君は文に目を通した。
三位の中将の堂々たる書きぶりとは対照的な、しなやかで品のある手蹟だ。
意地悪な見方をすれば、男性にしてはちょっと弱々しい。
「みるめ刈る かたも渚に 白波の 寄せて返して 彷徨うばかり」
『みるめ』とは、見る目、つまり男女が逢うことと、海松布という海藻を掛けた言葉だ。
昔から恋文の常套句として知られる表現である。
『方』、つまり方法と『潟』、『無き』と『渚』を掛け、あなたに逢う方法もなく彷徨っているという、儚げな一首。
波を揺らめく恋の想いに例えた歌は、その筆の繊細さと相まって、実に心許ない印象を与えている。
右大臣家の子息といえば、三位の中将の上を行く恋多き公達と聞いている。彼らがこんな歌を詠むのだろうか?
――寄る辺もないかたに、どうやって寄られるおつもり?
まずは文など贈ってみるべきだろうか、と考えて文机に向かったものの、相手はあの姫君である。
下手な歌は贈れない。
「波の騒ぎに 風が吹くもの――か。確かになあ」
一体あの姫君は、どれほどそれを実感してきたのだろう。
母が亡くなり、人が離れていく。
物の怪の類が憑いていると噂になり、人が寄り付かなくなる。
「私に、あの姫君が救えるだって?」
兄たちに劣っているとはいえ、右大臣家の恵まれた人間が何を言っても、彼女は気分を害するだけなのではないだろうか。
少将は板張りの床に身を投げ出した。
「浮舟を こがるる身をば 思いやれ 貝の渚に 寄せる白波」
その文を持ってきた男の童は、見るからに権門に仕えているような身なりの良い少年だった。
古参女房の小式部は喜び勇んで文を姫君に持ってきた。
海を模したのか淡い青の紙に、堂々とした筆跡で書きつけられている。
「誰からのお文なの」
「聞いても避けぬ者から、とのことでしたわ」
「三位の中将殿ね。面倒なことになったわね」
案の定、先日の貝合で遭遇した、東の君の想い人である。
許嫁と言ってもいいのだが、そう決め込んでいるのは大納言家の方だけのようで、彼の方はお構いなしで遊び回っていた。
「姫さま、三位の中将さまと申せば、宮中の花形中の花形でいらっしゃる、やんごとなき貴公子――」
「東の君の相手よ」
「だからこそでございますわ! あの母子に、姫さまたちがどれだけ苦しめられたことか」
「そんな理由で三位の中将殿と仲良くするなんて、まっぴらだわ」
「けれどもさすがに今を時めく貴公子らしく、素敵な歌の詠みぶりですわね」
「それは、そうね」
『舟を漕ぐ』様子から、『焦がれる』身を気にかけて下さい、という言葉を導き、『貝』と『甲斐』、『渚』と『無き』などを掛けつつも、全てを海辺の情景の中にまとめる技巧は、流石に手慣れている。
けれども彼の歌詠みとしての本質は、散りばめた技巧よりも『こがるる身』という情熱的な一語に集約されている、と姫君は思った。
物堅い女の心を溶かそうとする、血しぶくばかりの熱。
「あのう……」
姫君に仕える女の童を束ねている少女が、利発な顔に困惑の色を乗せて、佇んでいた。
「右大臣家の方からも、お文が参りました」
「何という……まあ、姫さまにもついに光が当たり始めたのですわ! あっ、それもこれも観音さまのお導きかもしれませぬ」
「観音さま、ねえ」
届けられた薄様の紙を広げてみる。透かして見ると、蓮華と法輪の模様が見えた。
「観音さまからのお文のようね」
「えっ」
小式部は驚いたように声を発したが、女の童は心なしか青ざめた顔で俯いている。
何のことはない、やはり観音菩薩ではなく、この子が手引きした者だったのだ。
右大臣家ならば、あのような州浜も簡単に用意できよう。
色々なことが腑に落ちてすっきりすると同時に、新たな問題が持ち上がった。
勿論、どちらの男も選ぼうなどとは思わないが――。
「右大臣家の、一体どなたから」
「小式部さま、それがわかりませんの」
「わからないですって? あなたは何という不始末を……」
騒ぎ始める二人を尻目に、姫君は文に目を通した。
三位の中将の堂々たる書きぶりとは対照的な、しなやかで品のある手蹟だ。
意地悪な見方をすれば、男性にしてはちょっと弱々しい。
「みるめ刈る かたも渚に 白波の 寄せて返して 彷徨うばかり」
『みるめ』とは、見る目、つまり男女が逢うことと、海松布という海藻を掛けた言葉だ。
昔から恋文の常套句として知られる表現である。
『方』、つまり方法と『潟』、『無き』と『渚』を掛け、あなたに逢う方法もなく彷徨っているという、儚げな一首。
波を揺らめく恋の想いに例えた歌は、その筆の繊細さと相まって、実に心許ない印象を与えている。
右大臣家の子息といえば、三位の中将の上を行く恋多き公達と聞いている。彼らがこんな歌を詠むのだろうか?
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