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そぞろ歩き
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秋も終わりに近付く長月の夜は、そぞろ歩きにもってこいの夜である。
夜明けの空に佇む名残惜しげな月の誘いに乗って、男は邸を出た。供は童ひとりきりだ。
蔵人少将、と人が呼ぶこの男は、右大臣家の三男として生まれ、大貴族の子息の歩むべき道を外れることなく歩んできた。
父右大臣は他の権門と表立って争うことこそなかったが、人望と巧みな政治手腕で、いつのまにか自分の思い通りに政局を動かしてしまう人だった。
母君は皇族の姫宮で、おっとりとした、まさに深窓の姫君だ。
少将の二人の兄は、大貴族の貴公子らしく浮名を流していたが、それも道理と世の人々に思わせる容姿と人柄を持っていた。
少将はといえば、まだまだ兄たちに比べ幼さが残るものの見目は良い。
人柄はやさしく穏やか、というよりお人好しといったふうで、どうも頼りない。
そして何故かツキがなく、ことあるごとに厄介事が舞い込んでくる性分なのである――
朝霧が一面に立ち込めて、姿を隠してくれるのをいいことに、少将は風流な家を求めて歩いていった。
すると、風情のある木立に囲まれた家から、琴のことの音色が微かに聞こえてきて、少将は浮かれた。
琴のことは箏のことよりも奏でるのが難しい。
昨今ではよほど身分の高い皇族の姫宮でなければ習わないだろう。
しかし、高貴な姫君との出会いへの期待を抱き、その家の周りを歩いてみたものの、都で流行る恋物語のように都合よく塀が崩れている、などということはなかった。
門の脇を見てみても、築地は崩れ一つ見当たらないのだった。
どんな姫君が弾いているんだろうと気になって仕方がないが、忍び込める隙間もないので、供の童に歌を歌わせた。
「爪音に ひきとめられて 朝の道 行き先忘れ 霧に佇む」
そうして、誰かが家から出ては来ないかとしばらく待っていたが、そんな気配は全くなく、少将は落胆しながらその家をあとにした。
しばらく歩いていると、あどけなく可愛らしい女の童が四、五人ほど走り回り、男の童や、幾分年上らしく見える男たちが慌ただしげに出入りしている邸があった。
近付いてみれば、男の童たちは皆、洒落た小箱のようなものを持ち、趣向を凝らした文を袖の上に大事そうに載せていた。
何をしているんだろう、と気になった少将は、出入りする者たちの目を盗んで門から忍び込んだ。
彼にしては運の良いことに、誰にも見とがめられずにこんもりとした薄の中に駆け込むと、かわいい女の童が走ってくるのが見えた。
八、九歳ほどの女の子で、薄紫色のあこめに紅梅の表着を重ねている。
まったくもって季節外れだが、それはそれで可愛らしい。
手にしているのは瑠璃の壺で、小さな貝が入っていると見える。
と、ここで彼のささやかな運は使い果たされたらしく、女の童が視線を感じたのか薄の茂みに目をやった。
女の童は目を見開き、口にした。
「ここに人がいるわ」
もう少し頼りになる年頃の女房なら懐柔しようとするところだが、あまりにあどけない少女である。
少将は困って言った。
「しっ。私はこちらにお話があって、人目を忍んで参った者なんだ。ちょっとこっちに来てくれないかな?」
「明日の準備で忙しいのよ。そんな暇はないわ」
女の童は口早に言うと、さっさと行ってしまいそうになったので、慌てて引きとめにかかる。
「何があってそんなに忙しいの? 私を信じてくれるならば、とてもいいことがあるかもしれないのになあ」
と、思わせぶりに呟いてみると女の童は躊躇いなく立ち止まって、少将の目を見上げた。
「ほんとう?」
「もちろん」
少将は自信ありげに請け合った。
夜明けの空に佇む名残惜しげな月の誘いに乗って、男は邸を出た。供は童ひとりきりだ。
蔵人少将、と人が呼ぶこの男は、右大臣家の三男として生まれ、大貴族の子息の歩むべき道を外れることなく歩んできた。
父右大臣は他の権門と表立って争うことこそなかったが、人望と巧みな政治手腕で、いつのまにか自分の思い通りに政局を動かしてしまう人だった。
母君は皇族の姫宮で、おっとりとした、まさに深窓の姫君だ。
少将の二人の兄は、大貴族の貴公子らしく浮名を流していたが、それも道理と世の人々に思わせる容姿と人柄を持っていた。
少将はといえば、まだまだ兄たちに比べ幼さが残るものの見目は良い。
人柄はやさしく穏やか、というよりお人好しといったふうで、どうも頼りない。
そして何故かツキがなく、ことあるごとに厄介事が舞い込んでくる性分なのである――
朝霧が一面に立ち込めて、姿を隠してくれるのをいいことに、少将は風流な家を求めて歩いていった。
すると、風情のある木立に囲まれた家から、琴のことの音色が微かに聞こえてきて、少将は浮かれた。
琴のことは箏のことよりも奏でるのが難しい。
昨今ではよほど身分の高い皇族の姫宮でなければ習わないだろう。
しかし、高貴な姫君との出会いへの期待を抱き、その家の周りを歩いてみたものの、都で流行る恋物語のように都合よく塀が崩れている、などということはなかった。
門の脇を見てみても、築地は崩れ一つ見当たらないのだった。
どんな姫君が弾いているんだろうと気になって仕方がないが、忍び込める隙間もないので、供の童に歌を歌わせた。
「爪音に ひきとめられて 朝の道 行き先忘れ 霧に佇む」
そうして、誰かが家から出ては来ないかとしばらく待っていたが、そんな気配は全くなく、少将は落胆しながらその家をあとにした。
しばらく歩いていると、あどけなく可愛らしい女の童が四、五人ほど走り回り、男の童や、幾分年上らしく見える男たちが慌ただしげに出入りしている邸があった。
近付いてみれば、男の童たちは皆、洒落た小箱のようなものを持ち、趣向を凝らした文を袖の上に大事そうに載せていた。
何をしているんだろう、と気になった少将は、出入りする者たちの目を盗んで門から忍び込んだ。
彼にしては運の良いことに、誰にも見とがめられずにこんもりとした薄の中に駆け込むと、かわいい女の童が走ってくるのが見えた。
八、九歳ほどの女の子で、薄紫色のあこめに紅梅の表着を重ねている。
まったくもって季節外れだが、それはそれで可愛らしい。
手にしているのは瑠璃の壺で、小さな貝が入っていると見える。
と、ここで彼のささやかな運は使い果たされたらしく、女の童が視線を感じたのか薄の茂みに目をやった。
女の童は目を見開き、口にした。
「ここに人がいるわ」
もう少し頼りになる年頃の女房なら懐柔しようとするところだが、あまりにあどけない少女である。
少将は困って言った。
「しっ。私はこちらにお話があって、人目を忍んで参った者なんだ。ちょっとこっちに来てくれないかな?」
「明日の準備で忙しいのよ。そんな暇はないわ」
女の童は口早に言うと、さっさと行ってしまいそうになったので、慌てて引きとめにかかる。
「何があってそんなに忙しいの? 私を信じてくれるならば、とてもいいことがあるかもしれないのになあ」
と、思わせぶりに呟いてみると女の童は躊躇いなく立ち止まって、少将の目を見上げた。
「ほんとう?」
「もちろん」
少将は自信ありげに請け合った。
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