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第5章 もう一つの卒業
74 決壊
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呆然と立ち尽くしていると、大輝が大野氏と共に入ってきた。
「あら、いらっしゃい」
と大野氏。悦子はかろうじて、こんにちは、と笑顔を返した。大輝は先ほど出て行った隣の患者と同じパジャマ姿になっていた。怪訝そうに悦子に歩み寄ると、顔を覗き込む。
「どした?」
悦子は目を合わせられなかった。
「何でもない」
と首を横に振った瞬間、両目から同時に涙がぼろぼろっとこぼれ落ちた。唇を噛んで耐えれば耐えるほど、渾々と涙が湧く。
「おいで」
と大輝は悦子の手を引き、ベッドに座らせる。大野氏は見て見ぬふりだが、大輝はえっちらおっちらとベッドの反対側に回り、躊躇なくカーテンを閉めた。腕で体重を支えながら、慎重に悦子の隣に腰掛ける。
「いなかったからびっくりした?」
違う、と首を振ろうとしたが、改めて問われてみると、ガランとした真っ白のシーツは、なるほど良からぬ事態を想起させる気がした。先ほど目にした光景に今さら動揺する。
「さっきね、お客さん来て、俺も歩けるようになったし、ここであんまりしゃべってても迷惑かなと思って、この廊下ちょっと行ったとこの面会室に行ってた。ほら」
と、先ほどのメモをつまんでみせる。それは知ってる、と心の中で呟き、悦子は頷いた。
「大野さんもちょうど息子さん一家が来てたから面会室にいてね。息子さんたち帰った後に、こっちに合流したの。そんで、三人でしゃべってた」
(そうやって誰とでも簡単に仲良くなって、結婚してもあちらの親戚に気に入られて、奥さんの友達にも大人気で、私のことなんかなかったことになっちゃうんでしょ……)
悦子は己が惨めでぐずぐずと泣いた。大輝がこの病室にいる間だけは束の間の夢が見られると思い込んでいた。お互い束縛しないと誓い合ったこの男をほんの一時束縛できる気がした。他の女といるところを見ずに済み、周りからは普通のカップルに見える、そんな聖域ができたと錯覚していた。現実をねじ曲げて慰めを得ようとした自分の愚かさが悔しくて、涙が止まらなかった。大輝の腕が肩に回った瞬間、悦子はいやいやをして逃れた。
(優しくしないで……)
つい先日、東条ユキの話を聞いて大輝の幸せを願ったはずだった。でも今は、ずっとみんなのものでいてと祈らずにいられない。そんな自己矛盾がお腹の底から湧き上がり、ひっくひっくと音を立てた。理性とはかくも脆いものだろうか。大輝に恥をかかせたくはないが、悦子は子供のように泣きじゃくる声を抑えられず、文字通りわあわあと泣いた。
(どうして私をこんな風にしたの? いっそ最初から相手せずにいてくれれば……)
顔を覆った手を、大輝の手がそっと剥がしにかかる。その手を振りほどこうと力を込めた瞬間、耳元で熱のこもった声。
「悦子」
静けさが訪れた。悦子の呼吸だけが不規則にしゃくり続けていた。しかし、涙はまた新しく流れた。片方の手を、大輝の両手がしっかりと挟んでさらっていく。
(やめて……やめて。私のことなんか何とも思ってないくせに)
悦子はとうとう抵抗する気力を失い、大輝の膝の上に突っ伏した。喉が絞り上げられるようで苦しかった。頭が痺れ、悲しさや悔しさを肉体的な苦痛が凌駕し始めていた。大輝の手が髪を撫でる。このまま何も考えず、この優しさに溺れてしまえたら……。
「ちょっとさ、屋上行かない?」
行きたいのか行きたくないのかわからず、悦子は呼吸を保つことに専念した。
「あの話をさせてほしい」
その言葉にはっと息を呑む。
「三日前にしそびれた話」
東条ユキを納得させた一方で、ある女を逆上させた、あの話。他の女たちはどんな風に聞いたのだろう。そして、私はどんな風に受け止めるのだろう。大輝からの、さよならを。
「あら、いらっしゃい」
と大野氏。悦子はかろうじて、こんにちは、と笑顔を返した。大輝は先ほど出て行った隣の患者と同じパジャマ姿になっていた。怪訝そうに悦子に歩み寄ると、顔を覗き込む。
「どした?」
悦子は目を合わせられなかった。
「何でもない」
と首を横に振った瞬間、両目から同時に涙がぼろぼろっとこぼれ落ちた。唇を噛んで耐えれば耐えるほど、渾々と涙が湧く。
「おいで」
と大輝は悦子の手を引き、ベッドに座らせる。大野氏は見て見ぬふりだが、大輝はえっちらおっちらとベッドの反対側に回り、躊躇なくカーテンを閉めた。腕で体重を支えながら、慎重に悦子の隣に腰掛ける。
「いなかったからびっくりした?」
違う、と首を振ろうとしたが、改めて問われてみると、ガランとした真っ白のシーツは、なるほど良からぬ事態を想起させる気がした。先ほど目にした光景に今さら動揺する。
「さっきね、お客さん来て、俺も歩けるようになったし、ここであんまりしゃべってても迷惑かなと思って、この廊下ちょっと行ったとこの面会室に行ってた。ほら」
と、先ほどのメモをつまんでみせる。それは知ってる、と心の中で呟き、悦子は頷いた。
「大野さんもちょうど息子さん一家が来てたから面会室にいてね。息子さんたち帰った後に、こっちに合流したの。そんで、三人でしゃべってた」
(そうやって誰とでも簡単に仲良くなって、結婚してもあちらの親戚に気に入られて、奥さんの友達にも大人気で、私のことなんかなかったことになっちゃうんでしょ……)
悦子は己が惨めでぐずぐずと泣いた。大輝がこの病室にいる間だけは束の間の夢が見られると思い込んでいた。お互い束縛しないと誓い合ったこの男をほんの一時束縛できる気がした。他の女といるところを見ずに済み、周りからは普通のカップルに見える、そんな聖域ができたと錯覚していた。現実をねじ曲げて慰めを得ようとした自分の愚かさが悔しくて、涙が止まらなかった。大輝の腕が肩に回った瞬間、悦子はいやいやをして逃れた。
(優しくしないで……)
つい先日、東条ユキの話を聞いて大輝の幸せを願ったはずだった。でも今は、ずっとみんなのものでいてと祈らずにいられない。そんな自己矛盾がお腹の底から湧き上がり、ひっくひっくと音を立てた。理性とはかくも脆いものだろうか。大輝に恥をかかせたくはないが、悦子は子供のように泣きじゃくる声を抑えられず、文字通りわあわあと泣いた。
(どうして私をこんな風にしたの? いっそ最初から相手せずにいてくれれば……)
顔を覆った手を、大輝の手がそっと剥がしにかかる。その手を振りほどこうと力を込めた瞬間、耳元で熱のこもった声。
「悦子」
静けさが訪れた。悦子の呼吸だけが不規則にしゃくり続けていた。しかし、涙はまた新しく流れた。片方の手を、大輝の両手がしっかりと挟んでさらっていく。
(やめて……やめて。私のことなんか何とも思ってないくせに)
悦子はとうとう抵抗する気力を失い、大輝の膝の上に突っ伏した。喉が絞り上げられるようで苦しかった。頭が痺れ、悲しさや悔しさを肉体的な苦痛が凌駕し始めていた。大輝の手が髪を撫でる。このまま何も考えず、この優しさに溺れてしまえたら……。
「ちょっとさ、屋上行かない?」
行きたいのか行きたくないのかわからず、悦子は呼吸を保つことに専念した。
「あの話をさせてほしい」
その言葉にはっと息を呑む。
「三日前にしそびれた話」
東条ユキを納得させた一方で、ある女を逆上させた、あの話。他の女たちはどんな風に聞いたのだろう。そして、私はどんな風に受け止めるのだろう。大輝からの、さよならを。
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