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第5章 もう一つの卒業

72 刷り込み

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 大輝は浴衣ゆかた状の検査着のようなものを着せられており、看護師がそれを開くと、その後ろ姿越しに大輝の腹部に貼られたテープの端が目に入った。大輝は仰向けのまま首を持ち上げて傷を見ようとしたが、痛みにうめいて敢えなく断念する。

「傷の痛みはどうですか?」

「まあ……痛いっすね」

「点滴に痛み止めが入ってますけど、これから痛みがひどくなるようでしたらおっしゃってくださいね。吐き気はないですか?」

「まあ気持ち悪いですけど、吐くほどじゃないです」

「麻酔が残ってますので今日はお休みいただいて、何かあったらボタンでお呼びください」

「なんか、すんごい喉渇いてんですけど」

と大輝が訴えると、

「飲食はまだできませんから、ちょっと湿らせときましょうか」

と言って彼女は一度いなくなり、ガーゼに水を含ませたものを大輝の口に与えた。

「お水も飲み込まないで全部出してくださいね」

 大輝は言われるまま、看護師が構えた小さなボウル状のものにべちょっと吐き出す。

「トイレはどうすれば……」

「導尿カテーテルを入れてますので、歩けるようになるまではそのままで大丈夫ですよ」

 大輝は布団の中で股周りに手をやり、不快そうに顔をしかめた。

「ちなみに今って、何時ですか?」

「十一時四十分ですね」

「あ、まだそんなもんなんだ。え? 日付変わってないよね?」

と今度は悦子に聞く。

「うん、まだ今日」

 看護師は悦子に向かって、

「お帰りの際は受付にお声かけてください。一応、面会時間は通常八時までですので」

と告げ、足早に立ち去った。用が済んだら早く出て行ってほしいということだろう。

「ここって、何人部屋?」

と、幾分目付きがしっかりし始めた大輝が聞く。

「四人部屋で、ベッド一つは空いてたみたい」

「あ、そう。みんなとっくに寝てる時間だよな。お騒がせしちゃったね」

「私、怒られないうちに、そろそろ行くね」

 しかし、ろくに身動きも取れない状態の大輝にとろんとした目で追いすがるように見つめられると、その首にかじり付かずにはいられなかった。

「大輝……」

 擦り寄せられた頬は温かかった。いつものコロンの香りはそこにはなく、馴染みのない薬品と唾液の混じったような匂いがした。今夜、大輝を永久にこの世から失うことになっていたかもしれないなんて……。連絡を受けてからずっと耐えていた分が一気に込み上げる。悦子は大輝の耳元ですすり泣いた。まだ感覚がはっきりしていなさそうな手が、悦子の頭を根気よく撫でた。いつになくおぼつかないその所作にまた涙が溢れる。

「彼女のことは恨まないでやってね」

 そう言われて悦子は考えた。大輝をこんな目に遭わせた女を自分は恨んでいるのだろうか。まずは大輝のことが心配でそれどころではなかった。しかし、はい、許します、という気分にはさすがになれなかった。一歩間違えたら、大輝はどうなっていたことか。

「責任は俺にあるんだからさ」

「そうだよ。これにりたら、これから……ちゃんとしなよ」

 大輝は力ない笑みを浮かべた。

「今日俺、君に会う予定だったのに……ごめんね。待たせちゃったよね」

「そんなこと、いいよ。大輝のせいじゃないんだし」

(それに……捨てられる日が延びたお陰で、今こうして一緒にいられるんだから……)

「一回帰って出直そうと思ったのが運の尽きだったか。でも巻き込まずに済んでよかった」

と悦子の頬を撫でる。悦子は、単に振られそびれた身分で大輝と仲良くしていることが何だか申し訳ない気がしたが、その手にそっと自分の手を重ねた。

「ちなみに、ここ、どこ?」

「渉北記念病院」

「……って、どこ?」

「いいよ、心配しなくて。駅までタクシー乗るから」

「家まで乗りな。それ後で俺出すから、憶えといて」

「何バカなこと言ってんの。そんなことより自分の心配しなさいよ」

「明日……仕事終わった後、来てくれたりする?」

 悦子自身は、無論そうしたい。

「私はもちろんいいけど……みんな心配してるでしょ? お邪魔しちゃ……」

「いいよ。君がいてくれれば十分」

 気のせいか、大輝はさも愛しそうに悦子を見つめた。悦子は当惑した。

(まさか、刺されたショックで忘れちゃったんじゃないでしょうね、本命の人のこと)

 鳥のひなが卵からかえって最初に見たものを親だと思い込むように、目覚めた時たまたまここに悦子がいたばかりに何か暗示にでもかかってしまったのだろうか。

 大輝はだるそうに目を閉じた。もしかしたら弱った姿を彼女には見せたくないのかもしれない。悦子には今日すでに見られてしまったから、身辺のことを頼むのにちょうどいい、ということなら頷けた。

「何か要るものある? 明日持って来ようか?」

「コンドーム」

「……バカッ!」

「あ、管付いてっからダメじゃん」

「そういう問題じゃないでしょ。帰るよ、もう」

「うん、ありがとね」

 悦子は去り際にもう一度、大輝のかさついた手をさすった。ほんの一時間ほど前に会った自称親族の女性の存在を思い出したのは、タクシーが走り出してからのことだった。

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