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第5章 もう一つの卒業
65 おネム
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エンジンをかけた大輝は、重さを帯びた空気を持ち上げるかのように、軽い調子で言った。
「送ってくよ。君の家まで」
悦子は、その申し出を快諾しかねた。かといって、どう切り返せばよいのかもわからず、ため息だけが漏れた。運転席から、大輝の視線を感じる。
「帰りたくない?」
「うん……」
「正直、今日はあんまり楽しませてあげられる気がしないんだけどな」
「え? いいよ、そんなの……そういう意味で言ったんじゃないし」
と、悦子は顔を赤らめる。ただ一緒にいたいだけ、と言いかけたが、それは遊びの関係にふさわしくないセリフだと思い、飲み込んだ。
大輝と一緒にいたい。その気持ちは元はと言えば、こんな自分を女として扱い、惜しみなく優しさを注ぎ、快楽を与えてくれるからこそのものだった。しかし、スポットライトを浴びて光り輝くばかりに見えたこの男が、柄にもなく揺らぐ姿を幾度となく目撃してしまった今は違った。
何かに心を乱された「機嫌の悪い」大輝。突如何かに吐き気を催して悦子の前から逃げ出した大輝。ヒロ君に不可解なヤキモチを妬く大輝。そして今日、封印していたはずの過去を自ら悦子の前に引っ張り出した大輝。
今はただ、このまま彼を一人にすることが不安だった。もう何もしてくれなくていい、とすら思った。あなたが無事であることをそばにいて確認させてほしいだけだ、と。
「まあ、迷惑なら、おとなしく帰……」
その続きは、大輝の唇に塞がれた。大切に、慈しむように押し当てられたそれは、ピチュッと微かに音を立てて離れていく。
走り出した車のシートに身を沈めながら、大輝のメカニズムがようやくわかったような気がしていた。手を出した相手に対する「好き」の度合いはさまざまだがゼロではあり得ない、と以前言われたことが、言い逃れでも何でもなく真実なのだと今なら納得できる。数こそ多かれど、誰でもいいわけではないのだと確信できる。
手に入らないがゆえに、大輝の中でいわば神格化されてしまったのであろう「忘れられない人」の存在。彼女を思う気持ちと比べてしまえば、他の誰に対する「好き」も取るに足らなく感じられてしまうというのは、悦子にも何となく想像がつく。中途半端な気持ちで一人と付き合うなんてできない、という大輝の言葉も、狂おしいまでの「好き」を思い知ってしまった者の本音と考えればごもっともだ。
大輝邸でシャワーを浴び、バスローブに身を包んでリビングに戻ってきた悦子が目にしたのは、ベッドに横たわる大輝の後ろ姿だった。歩み寄っても振り返りはせず、その脇腹が静かに上下していた。
(あ……もしかして、寝ちゃってる?)
悦子がそっと覗き込もうとすると、大輝ははっと身を起こした。
「寝てたでしょ、今」
「寝てないって」
そう答えると、大輝は悦子の手を引き、ベッドに座らせた。その眠たげな半分だけの笑顔が不意に真顔に戻り、悦子の目の前に迫る。半開きの唇が悦子の唇を捕らえ、その外側と内側とを旨そうに味わい始めた。この上ない愛情表現と錯覚させてくれる、お馴染みの大輝マジック。だが、ふとその動きが止まったかと思うと、悦子の前歯に場違いな重量が感じられた。
「ちょっと……また寝てるってば」
大輝はパッと目を開くと、よだれを拭ってぶるっと頭を振った。
(かわいい……おネムな大輝)
もしかしたら、と悦子は思う。今日あんな深刻な話をせんがために、昨日から今日の昼間にかけては眠れずにいたのかもしれない。
「ねえ、ちゃんと寝た方がいいよ。私、帰るからさ」
悦子の隣では眠ってくれないことは重々わかっている。しかし、大輝は子供のようにいやいやをして、悦子の二の腕にしがみついた。
「なんで? 帰んないで。ここにいて。君が……嫌じゃなければ」
「嫌じゃないけど、私がいる限り寝てくれないんじゃない」
「俺は明日寝るからいいの。ね、好きなことしてていいからさ」
「好きなことったって、もうこの時間だから寝ますけど」
「……アイス食べる?」
「ちょっと、いつでもアイス食べさせときゃ機嫌取れると思わないでよね。ヒロ君じゃあるまいし」
しょぼん、という音でも発しそうな残念顔で、大輝は悦子を喜ばせるための次なる手を考えている風だが、いつもの鋭敏な思考力はすでに失われているらしく、力ない瞬きだけが繰り返された。このまま相手をさせ続けることはきっと拷問でしかないだろう。
「ね、私もう寝るから。大輝も気が変わったらいつでも寝に来て」
「ん……」
「おやすみ」
と言って悦子が布団に入ると、大輝はどこか気の抜けた、まるで長年の夫婦のような一瞬のキスを落とした。
今日の大輝は悦子が寝付くのを待ちはせず、すぐに書斎に引っ込んだ。あの分だとデスクに突っ伏して眠ってしまうだろう。風邪ひきませんように、と、悦子は夢うつつに祈った。そして、いつか大輝が安心して一緒に眠れるような女性を見つけてくれますように、と。
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「送ってくよ。君の家まで」
悦子は、その申し出を快諾しかねた。かといって、どう切り返せばよいのかもわからず、ため息だけが漏れた。運転席から、大輝の視線を感じる。
「帰りたくない?」
「うん……」
「正直、今日はあんまり楽しませてあげられる気がしないんだけどな」
「え? いいよ、そんなの……そういう意味で言ったんじゃないし」
と、悦子は顔を赤らめる。ただ一緒にいたいだけ、と言いかけたが、それは遊びの関係にふさわしくないセリフだと思い、飲み込んだ。
大輝と一緒にいたい。その気持ちは元はと言えば、こんな自分を女として扱い、惜しみなく優しさを注ぎ、快楽を与えてくれるからこそのものだった。しかし、スポットライトを浴びて光り輝くばかりに見えたこの男が、柄にもなく揺らぐ姿を幾度となく目撃してしまった今は違った。
何かに心を乱された「機嫌の悪い」大輝。突如何かに吐き気を催して悦子の前から逃げ出した大輝。ヒロ君に不可解なヤキモチを妬く大輝。そして今日、封印していたはずの過去を自ら悦子の前に引っ張り出した大輝。
今はただ、このまま彼を一人にすることが不安だった。もう何もしてくれなくていい、とすら思った。あなたが無事であることをそばにいて確認させてほしいだけだ、と。
「まあ、迷惑なら、おとなしく帰……」
その続きは、大輝の唇に塞がれた。大切に、慈しむように押し当てられたそれは、ピチュッと微かに音を立てて離れていく。
走り出した車のシートに身を沈めながら、大輝のメカニズムがようやくわかったような気がしていた。手を出した相手に対する「好き」の度合いはさまざまだがゼロではあり得ない、と以前言われたことが、言い逃れでも何でもなく真実なのだと今なら納得できる。数こそ多かれど、誰でもいいわけではないのだと確信できる。
手に入らないがゆえに、大輝の中でいわば神格化されてしまったのであろう「忘れられない人」の存在。彼女を思う気持ちと比べてしまえば、他の誰に対する「好き」も取るに足らなく感じられてしまうというのは、悦子にも何となく想像がつく。中途半端な気持ちで一人と付き合うなんてできない、という大輝の言葉も、狂おしいまでの「好き」を思い知ってしまった者の本音と考えればごもっともだ。
大輝邸でシャワーを浴び、バスローブに身を包んでリビングに戻ってきた悦子が目にしたのは、ベッドに横たわる大輝の後ろ姿だった。歩み寄っても振り返りはせず、その脇腹が静かに上下していた。
(あ……もしかして、寝ちゃってる?)
悦子がそっと覗き込もうとすると、大輝ははっと身を起こした。
「寝てたでしょ、今」
「寝てないって」
そう答えると、大輝は悦子の手を引き、ベッドに座らせた。その眠たげな半分だけの笑顔が不意に真顔に戻り、悦子の目の前に迫る。半開きの唇が悦子の唇を捕らえ、その外側と内側とを旨そうに味わい始めた。この上ない愛情表現と錯覚させてくれる、お馴染みの大輝マジック。だが、ふとその動きが止まったかと思うと、悦子の前歯に場違いな重量が感じられた。
「ちょっと……また寝てるってば」
大輝はパッと目を開くと、よだれを拭ってぶるっと頭を振った。
(かわいい……おネムな大輝)
もしかしたら、と悦子は思う。今日あんな深刻な話をせんがために、昨日から今日の昼間にかけては眠れずにいたのかもしれない。
「ねえ、ちゃんと寝た方がいいよ。私、帰るからさ」
悦子の隣では眠ってくれないことは重々わかっている。しかし、大輝は子供のようにいやいやをして、悦子の二の腕にしがみついた。
「なんで? 帰んないで。ここにいて。君が……嫌じゃなければ」
「嫌じゃないけど、私がいる限り寝てくれないんじゃない」
「俺は明日寝るからいいの。ね、好きなことしてていいからさ」
「好きなことったって、もうこの時間だから寝ますけど」
「……アイス食べる?」
「ちょっと、いつでもアイス食べさせときゃ機嫌取れると思わないでよね。ヒロ君じゃあるまいし」
しょぼん、という音でも発しそうな残念顔で、大輝は悦子を喜ばせるための次なる手を考えている風だが、いつもの鋭敏な思考力はすでに失われているらしく、力ない瞬きだけが繰り返された。このまま相手をさせ続けることはきっと拷問でしかないだろう。
「ね、私もう寝るから。大輝も気が変わったらいつでも寝に来て」
「ん……」
「おやすみ」
と言って悦子が布団に入ると、大輝はどこか気の抜けた、まるで長年の夫婦のような一瞬のキスを落とした。
今日の大輝は悦子が寝付くのを待ちはせず、すぐに書斎に引っ込んだ。あの分だとデスクに突っ伏して眠ってしまうだろう。風邪ひきませんように、と、悦子は夢うつつに祈った。そして、いつか大輝が安心して一緒に眠れるような女性を見つけてくれますように、と。
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