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第5章 もう一つの卒業

64 血縁

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「俺の手柄にしたいとこなんだけどさ。ほんとは……お兄さんに言われたんだよね」

「えっ?」

「ヒロ君がね、えーちゃんにはちゃんと話してねって」

「兄がそんなことを? っていうか、いつの間にそんな話……」

「ある日突然電話が来てさ。お話しようって」

「話って……何の?」

「……って聞いたらさ、なんか黙っちゃったから、行ってきた、君の実家まで」

「ウソ! ちょっと、何やってんの!」

 悦子の慌てぶりをくすっと笑う声が風の音にかき消された。

「ごめんね。君に言ったら絶対止められるから、黙って行っちゃった」

「行っちゃった、じゃないでしょ!」

 散らかったリビングで兄と大輝が向き合う光景が浮かび、悦子は思わずひたいに手をやった。

「最初はね、なんか考え込んでる風だったから、こないだのライブの話とかを俺が一方的にしてたんだけど、電話でリクエスト聞いて俺が持ってったチョコアイス食べ始めたら、頭が回り出したのかなんか知らないけどさ。急に饒舌になっちゃって」

「あ、アイスね。結構よくある、そのパターン」

「次から次へと図星なことをグサグサ言ってくださるわけよ。アイス食い散らかしながら」

「ちょっと、何話したの?」

「いろいろね。俺が何か隠してるってバレてたみたいでさ。君にだけは話すようにって、ビシッと言われちゃった。時間はかかってもいいけど、言うか言わないかで悩むなって」

(ヒロ君がそんなこと……)

 温厚な兄にとって、それは精一杯の説教であり、嘆願だったろう。妹を思う兄の気持ち。そして、それをしっかりと受け止めた大輝が、どれだけの痛みを乗り越え、どれだけの覚悟を持って大切な人の話をしてくれたかを思い、悦子は再び目頭を熱くした。

「今考えたらわかる。ヒロ君がなんでそんなことを言ったのか」

「……なんで?」

「君に話せるかなって考え始めたらさ。見えてきた気がする。いろんなことが。ちょっとずつ」

「いろんなこと?」

「そう。ずっとモヤモヤしたまま放置してきたこと。前に君と話したようなことも」

 どの辺りの話かは、悦子にも大体見当がついた。

「一対一になった結果、もっと好きになっちゃうこともあると思う。でも、そうなったら彼女への気持ちがなかったことになりそうで。だから俺はずっと普通の恋愛を避けてきたんだなと思って。それも言ったんだ、ヒロ君先生に。好きにならないようにしてんだって」

「そしたら?」

 大輝は悦子の方をちらっと見やって、顔の半分でニヤリと笑った。

「痛ーいところを突かれたよ」

 思わず苦笑する。兄に痛いところを突かれる心境は、悦子と母が一番よく知っている。

「あの人は非常に残酷な、神様の手下だな」

 そうかもしれない。結果的に良き助言を与えてもくれるが、真実は時として残酷だ。

「あれ? そういえば、その時、母は?」

「ああ、手芸クラブで留守だっていうからね。その隙に」

「あ、もしかして……シュークリーム?」

「そう。アイスだけってのもなんだしと思って。食べた?」

「あれ大輝だったの? あんなおいしいシュークリーム初めてで、もう三人で取り合い。洗濯物とか出しっぱなしのとこに誰上げたの、って怒られたみたいだけど、あのシュークリームでお母さんも見事に機嫌直っちゃった」

「そりゃよかった。あ、そうだ、ついでにアルバム見せてもらったよ。君とヒロ君の、二十数年分の。そこに時々ご両親が写ってる」

「やだあ、勝手に見ないでよそんなの、恥ずかしい」

「どの写真でも、君は最っ高にかわいかった。もちろん、今の方がいいけど」

と流し目を送ってくる。遠慮のない大輝の好色ビームを久々に浴び、悦子ははにかんだ。

「ヒロ君、どうしても伝えたかったんだろうな。俺がいかにくだらないヤキモチをいてるか」

「……え?」

「俺は永久にこれを超えることはできないんだなあと思い知ったよ」

「ちょっと……何言ってるの?」

「ヒロ君はわざわざ俺を呼び出してそんな話をせずにはいられないほど、君のことを愛してるんだなあと思ってさ。俺が君の週末を奪おうとかセコいこと考えてる間に、彼は君の幸せを純粋に、真剣に考えてる。ライバルだなんて、とんだ思い上がりだった」

「大輝……」

「血縁ってのはさ、やっぱなんか……あんのかな? 特別な力が」

「まあ、それは多分……」

 大輝にはそれを想像することしかできないのだと思うと、胸が締め付けられた。悦子に言わせれば、大輝が片思いを引きずっていることよりも、家族不在の問題の方がよっぽど深刻だ。

「ずるいとしか言いようがないね」

「そんな……敵みたいな言い方しないでよ。私だって、友達同士で仲良くしてる人たち、みんな敵みたいに思ってたけど、大輝に出会ってからは……私もいつかあっち側に行けるのかもしれないって……実際、これでも少しは社交的になったし。ね、大輝、いつか言ってくれたでしょ。友達なんか今からだって作ればいいって」

 わずかに持ち上がった大輝の目を覗き込んで、悦子は言った。

「作ればいいじゃない、家族だって」

 大輝は何か言いかけたように見えたが、それを飲み込み、悦子の髪を撫でて笑った。

「そんな日が来る頃には……俺は一体幾つになってんだろな」

 差し伸べられた大輝の手を取る。外灯と松の木が作る影を踏みながら堤防に沿って歩くと、潮の香りが二人の胸を等しく満たした。スモッグのせいか暗くなりきれていない夜空に、あと一歩で丸になれそうな月が浮かんでいた。
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