63 / 80
第5章 もう一つの卒業
63 失恋
しおりを挟む
(それを言うためにわざわざ、こんなに改まって……)
悦子は、その暗黒な何かに触れてしまうことを恐れ、極力軽いニュアンスで尋ねた。
「恋をしないのは……その人と、いつか結ばれるため?」
「いや」
再び、長い長い間が空いた。悦子が、じゃあ……と言いかけた時、大輝が淡々と言った。
「結ばれる日は来ない」
対岸に林立するクレーンに点々と灯った小さな光が、暗い水面で一様に潤んでいた。
(どうして……?)
大輝のことだから、欲しい女ぐらい常に簡単に手に入れてきたものとばかり思っていた。いつだって自信に満ち溢れ、女を口説くことにかけては自他共に認めるエキスパート。その大輝がなぜこうもはっきりと、その人とは結ばれないと言い切れるのだろう。
「もう……会うこともない」
悦子はその諦め切った横顔を見上げ、おずおずと尋ねた。
「それは……もしかして彼女がもう、この世にいない、から?」
大輝はしばらく海面に向けて瞬きを繰り返していたが、じきに弱々しい苦笑をこぼした。
「考えてもみなかったな。死んでるかもしれないなんて」
「あ、やっ、ごめんね。縁起でもないこと言って」
生きた人間に大輝が振られるなど想像がつかず、とんでもないことを口にしてしまった。
「もし死んじゃってたら……諦めつくもんなのかな」
「やめて。ごめん、ほんとに」
彼女は一体、大輝の何が不満だったのだろう。大輝がそれほど恋心を寄せた相手を大切にしないはずがないのに。よほどの強敵でもいたのだろうか。
「その人、もしかして……結婚してる、とか?」
「……してたね。出会った時は」
やっぱり。不倫となれば、いくら大輝でも思うようにはいかないだろう。
「でも、離婚した。ま、俺が別れさせたようなもんだけど」
(え……?)
「そのことは別に申し訳ないなんて思ってない。あんなクソみたいな奴とは別れて正解だ」
「でも、彼女はその人のこと……」
と悦子が言いかけると、大輝はうつむいて苦々しげに首を振った。
「一度でも好きだったことがあるのかどうかすらわからない。でも、わざわざ結婚までしたのは……俺のためだったと思う」
(大輝に……恋心を諦めさせるため?)
「いっそのこと、お前なんか大っ嫌いだ、どうにでもなれ、って言われたかった。俺は自分で自分の気を逸らすしかなかった。何か代わりが必要で……でも、彼女のことを忘れさせてくれる人なんて見付からなくて……。それで、数で補うって形になってしまった」
悦子は、どんな言葉を返してよいのか見当もつかなかった。必要に迫られ、切実なセラピーとして始まった大輝の「遊び」。それはきっと、この海よりも深い彼の傷が癒える時まで続くだろう。いつか癒えることがあればの話だが。
「俺がそういう方向に救いを求めたことも、彼女は知ってた。そしてある日突然、連絡を絶った。たった二行のメッセージだけ残して。それを何度も読んだ後、俺は一人でここに来た」
大輝の声の最後が掠れた。それを隠すかのように長い汽笛がボーッと鳴り、そして止んだ。後に残った静寂に、大輝の慟哭を聞くような思いがした。大輝にとって、唯一にして永遠の恋。百戦錬磨の大輝が、本気になった相手に限ってそんな冷たい仕打ちを受けたなんて……。
目を背けていれば何とか生きていける。向き合ってしまったら胸を引き裂くような苦痛でしかない。そんな真実に、これ以上の説明が必要だろうか。互いの間に三歩の距離を挟み、逃げ出したくなるほどの痛みに、ただ二人で耐えた。何か希望が欲しくて、悦子はその沈鬱な横顔を見上げた。
「実らないってわかってるんだったら、新しい恋をしたっていいんじゃないの?」
大輝は、灰色と紫の混じった夜空を見上げた。
「それが……もし、その人の望みだとしたら? 彼女も、大輝には他の人を見付けて幸せになってほしいって思ってるとしたら?」
「思ってるよ。誰よりも、嘘偽りなく、心底そう願ってくれてる」
しかし、彼女のその願いが、大輝の苦悩を幾許も軽くしていないことは明らかだった。
「いつか叶えてあげたいとは、ずっと思ってんだけどな……」
悦子は思った。大輝は永遠に探し続け、そして見付けずにいたいのかもしれない。彼女の代わりになる人を。彼女がいなくなった後の隙間を無情に埋めてしまう人を。そんな事情を何も知らず、これまでひどい言葉をぶつけてきてしまった。謝りたかったが、ごめんと言ったら悦子は泣いてしまいそうだった。自分には今ここで泣く資格はない。
「ありがとう。辛いことを……話してくれて。私なんかに」
言いながら声が震えた。結局込み上げてしまった涙を、悦子は慌てて拭った。
悦子は、その暗黒な何かに触れてしまうことを恐れ、極力軽いニュアンスで尋ねた。
「恋をしないのは……その人と、いつか結ばれるため?」
「いや」
再び、長い長い間が空いた。悦子が、じゃあ……と言いかけた時、大輝が淡々と言った。
「結ばれる日は来ない」
対岸に林立するクレーンに点々と灯った小さな光が、暗い水面で一様に潤んでいた。
(どうして……?)
大輝のことだから、欲しい女ぐらい常に簡単に手に入れてきたものとばかり思っていた。いつだって自信に満ち溢れ、女を口説くことにかけては自他共に認めるエキスパート。その大輝がなぜこうもはっきりと、その人とは結ばれないと言い切れるのだろう。
「もう……会うこともない」
悦子はその諦め切った横顔を見上げ、おずおずと尋ねた。
「それは……もしかして彼女がもう、この世にいない、から?」
大輝はしばらく海面に向けて瞬きを繰り返していたが、じきに弱々しい苦笑をこぼした。
「考えてもみなかったな。死んでるかもしれないなんて」
「あ、やっ、ごめんね。縁起でもないこと言って」
生きた人間に大輝が振られるなど想像がつかず、とんでもないことを口にしてしまった。
「もし死んじゃってたら……諦めつくもんなのかな」
「やめて。ごめん、ほんとに」
彼女は一体、大輝の何が不満だったのだろう。大輝がそれほど恋心を寄せた相手を大切にしないはずがないのに。よほどの強敵でもいたのだろうか。
「その人、もしかして……結婚してる、とか?」
「……してたね。出会った時は」
やっぱり。不倫となれば、いくら大輝でも思うようにはいかないだろう。
「でも、離婚した。ま、俺が別れさせたようなもんだけど」
(え……?)
「そのことは別に申し訳ないなんて思ってない。あんなクソみたいな奴とは別れて正解だ」
「でも、彼女はその人のこと……」
と悦子が言いかけると、大輝はうつむいて苦々しげに首を振った。
「一度でも好きだったことがあるのかどうかすらわからない。でも、わざわざ結婚までしたのは……俺のためだったと思う」
(大輝に……恋心を諦めさせるため?)
「いっそのこと、お前なんか大っ嫌いだ、どうにでもなれ、って言われたかった。俺は自分で自分の気を逸らすしかなかった。何か代わりが必要で……でも、彼女のことを忘れさせてくれる人なんて見付からなくて……。それで、数で補うって形になってしまった」
悦子は、どんな言葉を返してよいのか見当もつかなかった。必要に迫られ、切実なセラピーとして始まった大輝の「遊び」。それはきっと、この海よりも深い彼の傷が癒える時まで続くだろう。いつか癒えることがあればの話だが。
「俺がそういう方向に救いを求めたことも、彼女は知ってた。そしてある日突然、連絡を絶った。たった二行のメッセージだけ残して。それを何度も読んだ後、俺は一人でここに来た」
大輝の声の最後が掠れた。それを隠すかのように長い汽笛がボーッと鳴り、そして止んだ。後に残った静寂に、大輝の慟哭を聞くような思いがした。大輝にとって、唯一にして永遠の恋。百戦錬磨の大輝が、本気になった相手に限ってそんな冷たい仕打ちを受けたなんて……。
目を背けていれば何とか生きていける。向き合ってしまったら胸を引き裂くような苦痛でしかない。そんな真実に、これ以上の説明が必要だろうか。互いの間に三歩の距離を挟み、逃げ出したくなるほどの痛みに、ただ二人で耐えた。何か希望が欲しくて、悦子はその沈鬱な横顔を見上げた。
「実らないってわかってるんだったら、新しい恋をしたっていいんじゃないの?」
大輝は、灰色と紫の混じった夜空を見上げた。
「それが……もし、その人の望みだとしたら? 彼女も、大輝には他の人を見付けて幸せになってほしいって思ってるとしたら?」
「思ってるよ。誰よりも、嘘偽りなく、心底そう願ってくれてる」
しかし、彼女のその願いが、大輝の苦悩を幾許も軽くしていないことは明らかだった。
「いつか叶えてあげたいとは、ずっと思ってんだけどな……」
悦子は思った。大輝は永遠に探し続け、そして見付けずにいたいのかもしれない。彼女の代わりになる人を。彼女がいなくなった後の隙間を無情に埋めてしまう人を。そんな事情を何も知らず、これまでひどい言葉をぶつけてきてしまった。謝りたかったが、ごめんと言ったら悦子は泣いてしまいそうだった。自分には今ここで泣く資格はない。
「ありがとう。辛いことを……話してくれて。私なんかに」
言いながら声が震えた。結局込み上げてしまった涙を、悦子は慌てて拭った。
0
お気に入りに追加
111
あなたにおすすめの小説
冷淡だった義兄に溺愛されて結婚するまでのお話
水瀬 立乃
恋愛
陽和(ひより)が16歳の時、シングルマザーの母親が玉の輿結婚をした。
相手の男性には陽和よりも6歳年上の兄・慶一(けいいち)と、3歳年下の妹・礼奈(れいな)がいた。
義理の兄妹との関係は良好だったが、事故で母親が他界すると2人に冷たく当たられるようになってしまう。
陽和は秘かに恋心を抱いていた慶一と関係を持つことになるが、彼は陽和に愛情がない様子で、彼女は叶わない初恋だと諦めていた。
しかしある日を境に素っ気なかった慶一の態度に変化が現れ始める。
悪役令嬢はオッサンフェチ。
来栖もよもよ&来栖もよりーぬ
恋愛
侯爵令嬢であるクラリッサは、よく読んでいた小説で悪役令嬢であった前世を突然思い出す。
何故自分がクラリッサになったかどうかは今はどうでも良い。
ただ婚約者であるキース王子は、いわゆる細身の優男系美男子であり、万人受けするかも知れないが正直自分の好みではない。
ヒロイン的立場である伯爵令嬢アンナリリーが王子と結ばれるため、私がいじめて婚約破棄されるのは全く問題もないのだが、意地悪するのも気分が悪いし、家から追い出されるのは困るのだ。
だって私が好きなのは執事のヒューバートなのだから。
それならさっさと婚約破棄して貰おう、どうせ二人が結ばれるなら、揉め事もなく王子がバカを晒すこともなく、早い方が良いものね。私はヒューバートを落とすことに全力を尽くせるし。
……というところから始まるラブコメです。
悪役令嬢といいつつも小説の設定だけで、計算高いですが悪さもしませんしざまあもありません。単にオッサン好きな令嬢が、防御力高めなマッチョ系執事を落とすためにあれこれ頑張るというシンプルなお話です。
私は5歳で4人の許嫁になりました【完結】
Lynx🐈⬛
恋愛
ナターシャは公爵家の令嬢として産まれ、5歳の誕生日に、顔も名前も知らない、爵位も不明な男の許嫁にさせられた。
それからというものの、公爵令嬢として恥ずかしくないように育てられる。
14歳になった頃、お行儀見習いと称し、王宮に上がる事になったナターシャは、そこで4人の皇子と出会う。
皇太子リュカリオン【リュカ】、第二皇子トーマス、第三皇子タイタス、第四皇子コリン。
この4人の誰かと結婚をする事になったナターシャは誰と結婚するのか………。
※Hシーンは終盤しかありません。
※この話は4部作で予定しています。
【私が欲しいのはこの皇子】
【誰が叔父様の側室になんてなるもんか!】
【放浪の花嫁】
本編は99話迄です。
番外編1話アリ。
※全ての話を公開後、【私を奪いに来るんじゃない!】を一気公開する予定です。
月の後宮~孤高の皇帝の寵姫~
真木
恋愛
新皇帝セルヴィウスが即位の日に閨に引きずり込んだのは、まだ十三歳の皇妹セシルだった。大好きだった兄皇帝の突然の行為に混乱し、心を閉ざすセシル。それから十年後、セシルの心が見えないまま、セルヴィウスはある決断をすることになるのだが……。
本日、私の大好きな幼馴染が大切な姉と結婚式を挙げます
結城芙由奈
恋愛
本日、私は大切な人達を2人同時に失います
<子供の頃から大好きだった幼馴染が恋する女性は私の5歳年上の姉でした。>
両親を亡くし、私を養ってくれた大切な姉に幸せになって貰いたい・・・そう願っていたのに姉は結婚を約束していた彼を事故で失ってしまった。悲しみに打ちひしがれる姉に寄り添う私の大好きな幼馴染。彼は決して私に振り向いてくれる事は無い。だから私は彼と姉が結ばれる事を願い、ついに2人は恋人同士になり、本日姉と幼馴染は結婚する。そしてそれは私が大切な2人を同時に失う日でもあった―。
※ 本編完結済。他視点での話、継続中。
※ 「カクヨム」「小説家になろう」にも掲載しています
※ 河口直人偏から少し大人向けの内容になります
伯爵は年下の妻に振り回される 記憶喪失の奥様は今日も元気に旦那様の心を抉る
新高
恋愛
※第15回恋愛小説大賞で奨励賞をいただきました!ありがとうございます!
※※2023/10/16書籍化しますーー!!!!!応援してくださったみなさま、ありがとうございます!!
契約結婚三年目の若き伯爵夫人であるフェリシアはある日記憶喪失となってしまう。失った記憶はちょうどこの三年分。記憶は失ったものの、性格は逆に明るく快活ーーぶっちゃけ大雑把になり、軽率に契約結婚相手の伯爵の心を抉りつつ、流石に申し訳ないとお詫びの品を探し出せばそれがとんだ騒ぎとなり、結果的に契約が取れて仲睦まじい夫婦となるまでの、そんな二人のドタバタ劇。
※本編完結しました。コネタを随時更新していきます。
※R要素の話には「※」マークを付けています。
※勢いとテンション高めのコメディーなのでふわっとした感じで読んでいただけたら嬉しいです。
※他サイト様でも公開しています
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる