14 / 80
第2章 大輝にようこそ
14 ノエル
しおりを挟む
サシ飲み後のメッセージに対し、返信がないまま迎えた五月の第一火曜日。デモランジュのVIP席では、奥のテーブルで大輝が男たちと盛り上がっている。悦子は手前のテーブルで皆の話に耳を傾けていた。
途中、悦子がトイレから出てくると、男子トイレから出てきた大輝と鉢合わせになった。くすぐったいデジャブだ。しかし大輝は、中に戻れと指示する代わりに、悦子の肩に手を添えて早口でこう言った。
「十分後に裏口で待ってる。一階のトイレの横の通路から階段上がって出て」
「えっ?」
大輝が出口へと通路を進むと、男子トイレの中から水音が聞こえた。なるほど、他に誰かいたから急いだのか。
悦子が席に戻ると、大輝の姿はすでになかった。とりあえず元の席に座ったものの、悦子の脳内は大輝一色だった。五分ほど経ち、話が途切れたところで、
「私、明日早いんで、そろそろ……」
と立ち上がる。「お疲れ」と皆から声が上がるが、悦子は上の空だった。かろうじて「ごちそうさまでした」と頭を下げる。階段を半分ほど下りた時点で後ろから声がかかった。
「悦ちゃん」
奥のテーブルにいたセイジだ。悦子が帰るのに気付いて追ってきたのだろう。
「駅まで一緒に行かない? この辺ほら、寂しい場所もあるし、時間も時間だし」
実は駅には行かないんです、と言うのもためらわれて、悦子は数秒思案した。
「あの……ごめんなさい、実はちょっと、これから寄るところがあって……」
セイジの顔に戸惑いが見て取れた。この時間にこの場所から、一体どこに寄るというのだ。ごく限られた選択肢がセイジの脳内に列挙されるのが目に見えるような気がした。
「そっか……じゃあ、気を付けて。また今度」
セイジはポーカーフェイスでそれだけ言うと、ひらっと手を振り、再び階段を上がっていった。セイジにどう思われたのかが気にならないでもなかったが、今はそれどころではない。
一階に下り、トイレの横の通路を進み、突き当たりのドアを開けると、確かに階段があった。言われた通りそれを上がって外に出ると、果たして、目の前に大輝がいた。
「ありがと。来てくれて」
「ありがとって……あんな一方的にしゃべっていなくなっちゃって……」
「待ちぼうけなんてざら。でも君にすっぽかされたらショックだろうなあ、いつになく」
何を考えているのかわからない濃厚な瞳に見つめられ、悦子は慌てて視線を逸らした。
「ね、あそこで飲まない?」
と大輝が肩越しに親指を向けたのは、道の向かい側、五十メートルほど先にあるビルだ。路上に昭和風の字体で「ノエル」と書かれたネオンサインが出ている。バーだろうか。
「あ、はい、じゃあ……」
大輝は何の前触れもなく、悦子の肩に手を回して歩き出す。悦子は激しく息を呑む。男性どころか女性とだって、こんなに密着したことは未だかつてない。大輝の右脇にぎゅっと抱き寄せられるようにしてお供しながら、悦子の心臓は破裂せんばかりに高鳴っていた。
大輝が「ノエル」のドアを開けると、チリンチリン、とかわいらしい音が鳴る。中はドラマにでも出てきそうないわゆるバーだ。
薄暗い店内の左手に木目調のカウンターが奥へ向かって伸び、その内側には壁に沿って酒瓶がずらり。ごま塩の髪をオールバックに撫で付けたマスターが、いらっしゃい、と無愛想に迎えた。渋みの効いたバリトンボイスの余韻が、BGMの軽やかなジャズピアノに溶け込む。大輝はマスターに、
「アマレットジンジャー、濃い目で」
とだけ告げた。座席はカウンターのみで椅子は六脚あり、他に客はいない。悦子が一番奥、壁際の席に着き、左隣に大輝が座ると、ガラスの器に盛られたミックスナッツが出てきた。じきに、ジンジャーエール色の液体に氷を浮かべたロンググラスが悦子の前に置かれた。
(あ、アマレットジンジャーって、私のだったんだ……)
勝手に決めて注文してしまうとは、先日の居酒屋の時とは別人かと思わせるような強引な仕打ちだが、悦子の好みだけは見事に射抜いていた。続いて小皿にライム数切れとマドラーが載ってくる。大輝の前には琥珀色の液体が浅く注がれた低いグラスが出された。隣の少し高いグラスは水のようだ。ストレートウイスキーとチェイサーということだろう。
大輝が黙って悦子の方へとグラスを差し出す。悦子は無言の乾杯に続いて口を付けた。
「あ……おいしい」
かなり気前よく酒の味がする。ジンジャーエールは甘さ控えめで、生姜の香りを強く放っていた。もしかしたら自家製かもしれない。悦子はそこにライムをたっぷりと搾った。
途中、悦子がトイレから出てくると、男子トイレから出てきた大輝と鉢合わせになった。くすぐったいデジャブだ。しかし大輝は、中に戻れと指示する代わりに、悦子の肩に手を添えて早口でこう言った。
「十分後に裏口で待ってる。一階のトイレの横の通路から階段上がって出て」
「えっ?」
大輝が出口へと通路を進むと、男子トイレの中から水音が聞こえた。なるほど、他に誰かいたから急いだのか。
悦子が席に戻ると、大輝の姿はすでになかった。とりあえず元の席に座ったものの、悦子の脳内は大輝一色だった。五分ほど経ち、話が途切れたところで、
「私、明日早いんで、そろそろ……」
と立ち上がる。「お疲れ」と皆から声が上がるが、悦子は上の空だった。かろうじて「ごちそうさまでした」と頭を下げる。階段を半分ほど下りた時点で後ろから声がかかった。
「悦ちゃん」
奥のテーブルにいたセイジだ。悦子が帰るのに気付いて追ってきたのだろう。
「駅まで一緒に行かない? この辺ほら、寂しい場所もあるし、時間も時間だし」
実は駅には行かないんです、と言うのもためらわれて、悦子は数秒思案した。
「あの……ごめんなさい、実はちょっと、これから寄るところがあって……」
セイジの顔に戸惑いが見て取れた。この時間にこの場所から、一体どこに寄るというのだ。ごく限られた選択肢がセイジの脳内に列挙されるのが目に見えるような気がした。
「そっか……じゃあ、気を付けて。また今度」
セイジはポーカーフェイスでそれだけ言うと、ひらっと手を振り、再び階段を上がっていった。セイジにどう思われたのかが気にならないでもなかったが、今はそれどころではない。
一階に下り、トイレの横の通路を進み、突き当たりのドアを開けると、確かに階段があった。言われた通りそれを上がって外に出ると、果たして、目の前に大輝がいた。
「ありがと。来てくれて」
「ありがとって……あんな一方的にしゃべっていなくなっちゃって……」
「待ちぼうけなんてざら。でも君にすっぽかされたらショックだろうなあ、いつになく」
何を考えているのかわからない濃厚な瞳に見つめられ、悦子は慌てて視線を逸らした。
「ね、あそこで飲まない?」
と大輝が肩越しに親指を向けたのは、道の向かい側、五十メートルほど先にあるビルだ。路上に昭和風の字体で「ノエル」と書かれたネオンサインが出ている。バーだろうか。
「あ、はい、じゃあ……」
大輝は何の前触れもなく、悦子の肩に手を回して歩き出す。悦子は激しく息を呑む。男性どころか女性とだって、こんなに密着したことは未だかつてない。大輝の右脇にぎゅっと抱き寄せられるようにしてお供しながら、悦子の心臓は破裂せんばかりに高鳴っていた。
大輝が「ノエル」のドアを開けると、チリンチリン、とかわいらしい音が鳴る。中はドラマにでも出てきそうないわゆるバーだ。
薄暗い店内の左手に木目調のカウンターが奥へ向かって伸び、その内側には壁に沿って酒瓶がずらり。ごま塩の髪をオールバックに撫で付けたマスターが、いらっしゃい、と無愛想に迎えた。渋みの効いたバリトンボイスの余韻が、BGMの軽やかなジャズピアノに溶け込む。大輝はマスターに、
「アマレットジンジャー、濃い目で」
とだけ告げた。座席はカウンターのみで椅子は六脚あり、他に客はいない。悦子が一番奥、壁際の席に着き、左隣に大輝が座ると、ガラスの器に盛られたミックスナッツが出てきた。じきに、ジンジャーエール色の液体に氷を浮かべたロンググラスが悦子の前に置かれた。
(あ、アマレットジンジャーって、私のだったんだ……)
勝手に決めて注文してしまうとは、先日の居酒屋の時とは別人かと思わせるような強引な仕打ちだが、悦子の好みだけは見事に射抜いていた。続いて小皿にライム数切れとマドラーが載ってくる。大輝の前には琥珀色の液体が浅く注がれた低いグラスが出された。隣の少し高いグラスは水のようだ。ストレートウイスキーとチェイサーということだろう。
大輝が黙って悦子の方へとグラスを差し出す。悦子は無言の乾杯に続いて口を付けた。
「あ……おいしい」
かなり気前よく酒の味がする。ジンジャーエールは甘さ控えめで、生姜の香りを強く放っていた。もしかしたら自家製かもしれない。悦子はそこにライムをたっぷりと搾った。
0
お気に入りに追加
110
あなたにおすすめの小説
性欲のない義父は、愛娘にだけ欲情する
如月あこ
恋愛
「新しい家族が増えるの」と母は言った。
八歳の有希は、母が再婚するものだと思い込んだ――けれど。
内縁の夫として一緒に暮らすことになった片瀬慎一郎は、母を二人目の「偽装結婚」の相手に選んだだけだった。
慎一郎を怒らせないように、母や兄弟は慎一郎にほとんど関わらない。有希だけが唯一、慎一郎の炊事や洗濯などの世話を妬き続けた。
そしてそれから十年以上が過ぎて、兄弟たちは就職を機に家を出て行ってしまった。
物語は、有希が二十歳の誕生日を迎えた日から始まる――。
有希は『いつ頃から、恋をしていたのだろう』と淡い恋心を胸に秘める。慎一郎は『有希は大人の女性になった。彼女はいずれ嫁いで、自分の傍からいなくなってしまうのだ』と知る。
二十五歳の歳の差、養父娘ラブストーリー。
【R18】隣のデスクの歳下後輩君にオカズに使われているらしいので、望み通りにシてあげました。
雪村 里帆
恋愛
お陰様でHOT女性向け33位、人気ランキング146位達成※隣のデスクに座る陰キャの歳下後輩君から、ある日私の卑猥なアイコラ画像を誤送信されてしまい!?彼にオカズに使われていると知り満更でもない私は彼を部屋に招き入れてお望み通りの行為をする事に…。強気な先輩ちゃん×弱気な後輩くん。でもエッチな下着を身に付けて恥ずかしくなった私は、彼に攻められてすっかり形成逆転されてしまう。
——全話ほぼ濡れ場で小難しいストーリーの設定などが無いのでストレス無く集中できます(はしがき・あとがきは含まない)
※完結直後のものです。
寡黙な彼は欲望を我慢している
山吹花月
恋愛
近頃態度がそっけない彼。
夜の触れ合いも淡白になった。
彼の態度の変化に浮気を疑うが、原因は真逆だったことを打ち明けられる。
「お前が可愛すぎて、抑えられないんだ」
すれ違い破局危機からの仲直りいちゃ甘らぶえっち。
◇ムーンライトノベルズ様へも掲載しております。
王女、騎士と結婚させられイかされまくる
ぺこ
恋愛
髪の色と出自から差別されてきた騎士さまにベタ惚れされて愛されまくる王女のお話。
性描写激しめですが、甘々の溺愛です。
※原文(♡乱舞淫語まみれバージョン)はpixivの方で見られます。
【R18】寡黙で大人しいと思っていた夫の本性は獣
おうぎまちこ(あきたこまち)
恋愛
侯爵令嬢セイラの家が借金でいよいよ没落しかけた時、支援してくれたのは学生時代に好きだった寡黙で理知的な青年エドガーだった。いまや国の経済界をゆるがすほどの大富豪になっていたエドガーの見返りは、セイラとの結婚。
だけど、周囲からは爵位目当てだと言われ、それを裏付けるかのように夜の営みも淡白なものだった。しかも、彼の秘書のサラからは、エドガーと身体の関係があると告げられる。
二度目の結婚記念日、ついに業を煮やしたセイラはエドガーに離縁したいと言い放ち――?
※ムーンライト様で、日間総合1位、週間総合1位、月間短編1位をいただいた作品になります。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる