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第1章 天下の遊び人
5 常連定例会
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課長の背後の壁の時計を見上げる。六時二十分。何の変哲もない一日が、一見平穏に暮れようとしていた。しかし悦子の心中は穏やかとは程遠い。何しろ今日は、大輝が来るはずだとアンナが言っていた例の火曜日。そう言われたからといって、その日にまたデモランジュに行こう、とすぐに結論が出せたわけではなかった。いや、おそらく自分の中で結論は出ていたのだが、それを認めるのに随分時間がかかったというべきか。
もし会えたら、一言お礼を言って、それから……。いや、きっとその一言を言えれば御の字だ。どうせ女連れで来ているか、女を探しに来ているかで彼は忙しいのだから。
(でも、またおいでよ、って……)
大輝のその一言は、再会への道を開く唯一の希望だった。普通に考えれば社交辞令だ。もし悦子がナンパ対象なら、自宅に泊めておいて何もしないことはないだろう。つまり、単なる決まり文句を真に受けたのかと鼻で笑われるのがオチ。それこそ悦子の十八番ともいえる結末だ。
では万が一、遊び相手の候補として見られていたら? 喜ばしいか? もちろん、悦子のこれまでの人生を思えばすこぶる良い知らせだ。では、自分は果たして何人いるのかもわからない彼の愛人の一人になりたいのか? それについて答えが出せずにいる自分に悦子は幻滅した。自分の倫理観がそこまで箍の緩んだものだったとは……。
決していかがわしい関係を目指すわけではない、あくまで健全に、例えば友達とまではいかなくとも知り合い程度になれるかも、という言い訳にようやく辿り着いたのがこの週末のことだった。
~~~
薄暗い店内に足を踏み入れる。が、またしても大輝らしき姿は見付からない。
(二階、かな……?)
今日のVIP席はどうやら満席のようで、立ち話中の者もいた。その時、DJブース脇の階段をアンナが下りてきた。悦子に手を振り、小走りにこちらへやってくる。
「悦ちゃん!」
「アンナさん、こんばんは」
「よく来た! 上にみんないるから一緒に飲もうよ」
「みんなって……?」
「うちの常連衆」
アンナが指差した二階席は、確かに賑わっている。
(常連……)
咄嗟に大輝を思い浮かべる。あの中にいるのだろうか。
「あっ、でも、私なんか行ってお邪魔じゃ……」
「いいから、いいから」
「じゃあ……ちょっとだけ」
アンナと共にDJブースの後ろの通路を抜け、「VIP」の札が立つ奥の階段を上がる。
「そうだ、忘れる前に言っとくけどさ、次回からエントランスなしでいいよ」
「エン、トラン、ス?」
「入口で払ってもらってる千円。名前言ってくれればわかるようにしとくから」
「あ、ええっ? でも……」
「あと、クローク代わりに二階の店員部屋使ってくれていいよ。鍵掛かるロッカー余ってるの」
「あ、そ、そう? どうも……ありがと」
悦子が今後も繰り返し来店するという前提で話が進んでしまっているが、多分もう来ませんよ、とも言いにくい。階段を上がりきると、アップテンポの音楽がだいぶ遠のいた。
「あ、意外と静かなんだ」
「うん、ちょうど真上だからね。悦ちゃん来たよー」
二セットあるVIP席の面々にアンナが声をかける。途端に注目を浴び、悦子は恐縮した。しかし、何だこいつは、と睨まれるのではないかという予想に反し、皆とりあえずといった体で会釈を返してくれる。ダンスフロアを見下ろせる手すりのそばに立っていた男が、悦子に歩み寄った。
「悦子さん、こんちは。タクローです」
「あ、こんばんは。もしかして、ここの店長さんですか?」
「そうそう。いつもありがとうございます」
と頭を下げる。肩に届いたウェービーな茶髪が、実年齢よりも若く見せているかもしれない。悦子は、アンナから聞かされた先日の騒動を思い出し、恐縮して言った。
「その節は、いろいろとご迷惑をおかけしまして……」
「いやいや、こちらこそ怖い思いさせてすみません。あれからセキュリティの方も強化してますんで。あ、よかったらこの辺、適当にどうぞ」
と手前のテーブルに案内される。そこにいるのは男四人。二階全体を見渡しても、悦子とアンナの他に女性はと言えば、奥のテーブルに一人いるだけだ。大輝の姿は見当たらない。
「ここ、どうぞ」
と、眼鏡をかけたサラリーマン風の男が自分の隣を示す。
「あ、すみません。ありがとうございます」
「飲み物は?」
と別の小柄な男が尋ねた。額に巻いた黒いバンダナからツンツンと金髪が立っている。
「シャンパンならたっぷりあるし、他のがよければこっから選んでくれれば」
と言ってメニューを悦子の前に置く。
「あ、じゃ、シャンパンをいただいても……」
悦子は基本的に何でも飲める。とりあえず多数派に合わせておくのが一番無難だ。悦子のグラスにシャンパンが注がれると、先ほどの眼鏡の男が畏まってグラスを掲げ、ふと思い出したように、
「えっちゃん、さん……だっけ?」
「あ、柿村悦子と申します」
「では、悦子さんに」
と音頭が取られ、テーブルの面々が「かんぱーい」と声を合わせた。
もし会えたら、一言お礼を言って、それから……。いや、きっとその一言を言えれば御の字だ。どうせ女連れで来ているか、女を探しに来ているかで彼は忙しいのだから。
(でも、またおいでよ、って……)
大輝のその一言は、再会への道を開く唯一の希望だった。普通に考えれば社交辞令だ。もし悦子がナンパ対象なら、自宅に泊めておいて何もしないことはないだろう。つまり、単なる決まり文句を真に受けたのかと鼻で笑われるのがオチ。それこそ悦子の十八番ともいえる結末だ。
では万が一、遊び相手の候補として見られていたら? 喜ばしいか? もちろん、悦子のこれまでの人生を思えばすこぶる良い知らせだ。では、自分は果たして何人いるのかもわからない彼の愛人の一人になりたいのか? それについて答えが出せずにいる自分に悦子は幻滅した。自分の倫理観がそこまで箍の緩んだものだったとは……。
決していかがわしい関係を目指すわけではない、あくまで健全に、例えば友達とまではいかなくとも知り合い程度になれるかも、という言い訳にようやく辿り着いたのがこの週末のことだった。
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薄暗い店内に足を踏み入れる。が、またしても大輝らしき姿は見付からない。
(二階、かな……?)
今日のVIP席はどうやら満席のようで、立ち話中の者もいた。その時、DJブース脇の階段をアンナが下りてきた。悦子に手を振り、小走りにこちらへやってくる。
「悦ちゃん!」
「アンナさん、こんばんは」
「よく来た! 上にみんないるから一緒に飲もうよ」
「みんなって……?」
「うちの常連衆」
アンナが指差した二階席は、確かに賑わっている。
(常連……)
咄嗟に大輝を思い浮かべる。あの中にいるのだろうか。
「あっ、でも、私なんか行ってお邪魔じゃ……」
「いいから、いいから」
「じゃあ……ちょっとだけ」
アンナと共にDJブースの後ろの通路を抜け、「VIP」の札が立つ奥の階段を上がる。
「そうだ、忘れる前に言っとくけどさ、次回からエントランスなしでいいよ」
「エン、トラン、ス?」
「入口で払ってもらってる千円。名前言ってくれればわかるようにしとくから」
「あ、ええっ? でも……」
「あと、クローク代わりに二階の店員部屋使ってくれていいよ。鍵掛かるロッカー余ってるの」
「あ、そ、そう? どうも……ありがと」
悦子が今後も繰り返し来店するという前提で話が進んでしまっているが、多分もう来ませんよ、とも言いにくい。階段を上がりきると、アップテンポの音楽がだいぶ遠のいた。
「あ、意外と静かなんだ」
「うん、ちょうど真上だからね。悦ちゃん来たよー」
二セットあるVIP席の面々にアンナが声をかける。途端に注目を浴び、悦子は恐縮した。しかし、何だこいつは、と睨まれるのではないかという予想に反し、皆とりあえずといった体で会釈を返してくれる。ダンスフロアを見下ろせる手すりのそばに立っていた男が、悦子に歩み寄った。
「悦子さん、こんちは。タクローです」
「あ、こんばんは。もしかして、ここの店長さんですか?」
「そうそう。いつもありがとうございます」
と頭を下げる。肩に届いたウェービーな茶髪が、実年齢よりも若く見せているかもしれない。悦子は、アンナから聞かされた先日の騒動を思い出し、恐縮して言った。
「その節は、いろいろとご迷惑をおかけしまして……」
「いやいや、こちらこそ怖い思いさせてすみません。あれからセキュリティの方も強化してますんで。あ、よかったらこの辺、適当にどうぞ」
と手前のテーブルに案内される。そこにいるのは男四人。二階全体を見渡しても、悦子とアンナの他に女性はと言えば、奥のテーブルに一人いるだけだ。大輝の姿は見当たらない。
「ここ、どうぞ」
と、眼鏡をかけたサラリーマン風の男が自分の隣を示す。
「あ、すみません。ありがとうございます」
「飲み物は?」
と別の小柄な男が尋ねた。額に巻いた黒いバンダナからツンツンと金髪が立っている。
「シャンパンならたっぷりあるし、他のがよければこっから選んでくれれば」
と言ってメニューを悦子の前に置く。
「あ、じゃ、シャンパンをいただいても……」
悦子は基本的に何でも飲める。とりあえず多数派に合わせておくのが一番無難だ。悦子のグラスにシャンパンが注がれると、先ほどの眼鏡の男が畏まってグラスを掲げ、ふと思い出したように、
「えっちゃん、さん……だっけ?」
「あ、柿村悦子と申します」
「では、悦子さんに」
と音頭が取られ、テーブルの面々が「かんぱーい」と声を合わせた。
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