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第1章 天下の遊び人

3  会いたい

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(さて、と。晩はどうするかな……)

 木曜の終業間際。悦子は今日の業務をほぼ終え、帰り仕度に取りかかっていた。毎週金曜の晩からは実家に帰り、週末を家族で過ごす。それと共に、木曜の晩は一人での外食が恒例になっていた。といっても、予算にさほど余裕があるわけではない。大抵は長居できる店に入り、飲み物一杯と料理二、三品程度でねばって、本でも読むか物思いにふける時間になる。

 今日はどこにしよう。会社近くのタパスか、自宅最寄り駅前の居酒屋ハッピーアワーか。そういえば先日クーポンをもらったのはどこだったろう、と財布を確認する。乗り換え駅近くの格安イタリアンだ。料理三品以上で三百円引き。大した割引じゃないな、と思いながら、三、〇、〇、と並んだ数字を見て、ふと思いをせた。

(三百円でピクニック……)

 自由奔放を絵に描いたような平日の朝の過ごし方。思い出すとつい口元がほころぶ。彼は今頃どうしているだろう。とんだハプニングがもたらした峰岸邸での一夜から、一週間あまりが過ぎていた。

 あの朝、自宅経由で出社した悦子は、始業時刻が迫るビルの入り口で妙にご機嫌な高杉に出くわした。彼女は多くを語らなかったが、いかにもロマンチックな夜を過ごしたという空気が漂い、悦子の方が赤面した。「あの後、大丈夫だった?」との問いには、もう一杯だけ飲んで帰りました、と答えた。少なくとも全くの嘘ではない。まさかその一杯に薬を入れられて襲われかけ、峰岸大輝の家に連れ帰られて介抱され、結局朝帰りしたなどと打ち明けようものなら、その後高杉とまともに顔を合わせられなくなってしまう。

(またおいでよ、か……)

 小銭を取り返す気などさらさらないが、必ず返すとまで言われたことで、あの店に大輝を訪ねなければいけない気にさせられていた。見ず知らずの他人を急遽自宅に泊めて面倒を見、彼には何のメリットがあったのだろう。それに、あの朝の大輝との会話を思い出すほど、誰からもうとまれがちな自分のことを、まばゆいステージに立つ彼がなぜあそこまで肯定してくれたのか、気になって仕方なかった。

 あの日からというもの、会社からの帰り道に、何度もデモランジュに立ち寄りたい衝動に駆られた。しかし常連といってもさすがに毎日いるわけではあるまい。行ってみて会えなければ、入店料もさることながら、居心地がいいとは言い難いあの空間で過ごす時間が無駄になる。



 悦子は結局、外食先を決めきれないまま駅に着いてしまった。乗り込んだ電車に揺られて日の暮れた街を眺めていると、時折胸の底から吹き上げてくるあの細い風を感じた。これが寂しさだとは思わない。よく耳にするところの、何となく誰かと一緒にいたいという感情は、悦子にとってはむしろ理解し難い。余計な気をつかうぐらいなら一人の方が圧倒的に快適だ。

 ただ、気を遣わずもっと気楽に人と過ごせるような人間になってみたい気持ちはいつもどこかにあった。何か言う度に、する度に、あるいはその場にいるだけで笑い物になる。そんな体験の繰り返しが、硬いからになって悦子を覆っていた。

 その殻を認識した上で好意的に接してくれたのが高杉だとすれば、はなからそんなものは存在しないかのように振る舞ったのが峰岸大輝だ。これまで悦子が周囲から得てきた反応といえば、困惑に嘲笑、否定、そして無視。それ以外を返されること自体があまりに新鮮で、大輝とのわずかな時間は、悦子の心にくっきりと焼き付いていた。

 乗り換え駅のホームにしばし立ち尽くした。改札を出て十分足らずの距離を歩けば、あのクラブに着く。

(また会ってみたい……)

 日頃気になっていることをもっと話してみたい。あの時のこれやこの時のあれについて、彼なら何と言うだろうか。悦子の中の乾ききった何かが、他者からの受容という名の潤いを求めていた。ほんの少しそれを味わってしまったばかりに。

 悦子はついに腹をくくった。行ってみて会えなければ諦めがつく。ドリンク一杯で千円と考えるとふところには響くが、このままモヤモヤした思いを引きずることを考えれば安いものだ。開店は確か十時だから、いずれにしても時間を潰す必要がある。いつも通り一杯やって、帰りにちょこっと寄るぐらいのつもりで行けば、大した痛手ではないだろう。

 先ほどまでさんざん迷っていたのが嘘のように、食事をする店などどこでもよいという気分になっていた。改札を出て、手近な居酒屋に腰を落ち着けた。

(あのクラブ……私みたいなの一人でも普通に入れてくれるかな。入口で変な顔されたらどうしよう……)

 一人飯や一人酒には今さら躊躇ちゅうちょしない悦子だが、「一人クラブ」となるとさすがに勇気が要る。しかも、今の今まで考えていなかったが、もし大輝を見付けても、一体どうやって声をかければよいのだろう。ナンパのメッカにいながら一人で暇を持て余していることなどきっとないに違いない。

 単身飲みにしては珍しく二杯目、三杯目を頼み、デモランジュ入店後の行動をあれこれシミュレーションしていると時間はすぐに経った。九時五十五分になり、悦子は店を出た。
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