60 / 118
第3章 血の叫び
58 お袋の味
しおりを挟む
一希にとって懐かしいお袋の味は、スムの家庭料理だ。毎日の食卓に上がる母の手料理は、父の好みを中心に据えたものだった。
スム族は動物の内臓を好んで食し、特に頭部には目がない。中でも子牛の脳には、どんな調味料をどんな風に組み合わせても到底再現しようのない濃厚な味わいがある。一希も好きな食材の一つだが、一番の好物は牛の骨と、その中の髄やゼラチン質だ。
ワカ族の間では野蛮な食習慣というイメージが根強く、見た目にも不気味だし、匂いも独特なだけに、まさか学生寮の共同の台所で料理するわけにはいかない。新藤宅でも同じ理由でずっと遠慮してきた。とはいえ、何も喉から手が出るほどこの味に飢えているわけではないから、特に我慢を強いられているつもりもなかった。
しかしそんな時、偶然またとないチャンスが巡ってきた。新藤が二泊三日で出張に出ることになったのだ。
これまでにも出張には何度か出ていたが、大抵は安全化の現場で、せいぜい一泊どまりだった。それが今回は学会に相当する集まりで、現役処理士の他に研究者や各種関係者が一堂に会し、講演会や勉強会、資料交換会が行われるという。
慣れないスーツ姿で朝から出ていく新藤を見送り、一希は早速自転車で買い物に出かけた。目指すは町はずれのスム食材屋。
無論、商店街の中で堂々と営業しているはずもなく、看板も出ていない。民家の車庫を改造したスペースで、中年の夫婦がひっそりと切り盛りしている店だ。火を点けられるようなことは今時さすがにないだろうが、それでも人々の不快感を敢えて煽る必要はないし、客としても目立たない店構えの方が利用しやすいに決まっている。
父のために料理をしていた頃にはよく来た店だが、一人暮らしになってからは自然と足が遠のき、最後に来たのは一年以上前だ。しかし店主夫妻は一希のことをよくおぼえており、おいしいところばかりをたっぷりとおまけしてくれた。
近くに住む人のいない新藤邸では、匂いを気にする必要もない。一希は心置きなく窓を開け放って腕を振るい、舌鼓を打った。
翌日の晩、本物のつもりでのオルダの自主練を終えて入浴を済ませ、そろそろ床に就こうかと思っていると、玄関のブザーが鳴り響いた。深夜零時を回っているのに、一体誰が何の用だろう。続いて車のエンジン音が近付いてくる。
玄関脇の窓に駆け寄り、カーテンの隙間からそっと外の様子を窺うと、新藤の軽トラが車庫の前に停まったところだった。慌てて外に出ると、ガラガラと車庫のシャッターを開ける新藤と目が合う。
「先生、お帰りは明日のはずじゃ……」
「ああ、その予定だったんだが、肝心の講演者が急用だとかで、最終日のプログラムが流れちまった。宿代はどうせ向こう持ちだが、明日までいてもすることないからな」
「そうでしたか。お帰りなさい」
「夜中に脅かしてすまん。出る前に電話しそびれてな。途中どっかからかけようかとも思ったんだが、やけにスイスイ来ちまって」
わざわざ電話を探して停めるのが面倒になったというわけか。しかし、いきなり鍵を回すよりはと一応ブザーを鳴らしてくれた辺りが新藤らしい。一希への配慮というよりは、警察でも呼ばれたら困るという意味での自己防衛かもしれないが。
お茶ぐらい飲むだろうと思い、とりあえずやかんに湯を沸かしていると、着替えを終えた新藤が台所に顔を出した。その視線が、バナナしかないテーブルの上をさまよう。
「先生、ひょっとしてお食事まだですか?」
「ああ。中途半端に拘束されたもんで食いそびれた。何かあるか?」
「あの、ないこともないんですけど……」
いわゆる普通のおかずはない。かといって、出前が取れる時間でもない。どうしたものかと思案する一希に、新藤が助け舟を出す。
「お前の大好物だから取っておきたいというなら、黙って米だけ食ってやってもいいが」
一希はその場に凍り付いた。うつむいた顔がみるみる赤くなるのが自分でわかる。
「もしかして……結構匂ってたりします?」
「玄関入った瞬間からな」
一希は、穴があったら入りたいどころか、消えてなくなりたかった。
夏場のタヌキの轢死体だの、腐った靴の中敷きだの、あらゆる形容で蔑まれてきたスムの煮込み料理。一希の一番の好物は、大多数のワカ族にとっては良く言えば珍味、悪く言えばゲテモノでしかない。
スム族は動物の内臓を好んで食し、特に頭部には目がない。中でも子牛の脳には、どんな調味料をどんな風に組み合わせても到底再現しようのない濃厚な味わいがある。一希も好きな食材の一つだが、一番の好物は牛の骨と、その中の髄やゼラチン質だ。
ワカ族の間では野蛮な食習慣というイメージが根強く、見た目にも不気味だし、匂いも独特なだけに、まさか学生寮の共同の台所で料理するわけにはいかない。新藤宅でも同じ理由でずっと遠慮してきた。とはいえ、何も喉から手が出るほどこの味に飢えているわけではないから、特に我慢を強いられているつもりもなかった。
しかしそんな時、偶然またとないチャンスが巡ってきた。新藤が二泊三日で出張に出ることになったのだ。
これまでにも出張には何度か出ていたが、大抵は安全化の現場で、せいぜい一泊どまりだった。それが今回は学会に相当する集まりで、現役処理士の他に研究者や各種関係者が一堂に会し、講演会や勉強会、資料交換会が行われるという。
慣れないスーツ姿で朝から出ていく新藤を見送り、一希は早速自転車で買い物に出かけた。目指すは町はずれのスム食材屋。
無論、商店街の中で堂々と営業しているはずもなく、看板も出ていない。民家の車庫を改造したスペースで、中年の夫婦がひっそりと切り盛りしている店だ。火を点けられるようなことは今時さすがにないだろうが、それでも人々の不快感を敢えて煽る必要はないし、客としても目立たない店構えの方が利用しやすいに決まっている。
父のために料理をしていた頃にはよく来た店だが、一人暮らしになってからは自然と足が遠のき、最後に来たのは一年以上前だ。しかし店主夫妻は一希のことをよくおぼえており、おいしいところばかりをたっぷりとおまけしてくれた。
近くに住む人のいない新藤邸では、匂いを気にする必要もない。一希は心置きなく窓を開け放って腕を振るい、舌鼓を打った。
翌日の晩、本物のつもりでのオルダの自主練を終えて入浴を済ませ、そろそろ床に就こうかと思っていると、玄関のブザーが鳴り響いた。深夜零時を回っているのに、一体誰が何の用だろう。続いて車のエンジン音が近付いてくる。
玄関脇の窓に駆け寄り、カーテンの隙間からそっと外の様子を窺うと、新藤の軽トラが車庫の前に停まったところだった。慌てて外に出ると、ガラガラと車庫のシャッターを開ける新藤と目が合う。
「先生、お帰りは明日のはずじゃ……」
「ああ、その予定だったんだが、肝心の講演者が急用だとかで、最終日のプログラムが流れちまった。宿代はどうせ向こう持ちだが、明日までいてもすることないからな」
「そうでしたか。お帰りなさい」
「夜中に脅かしてすまん。出る前に電話しそびれてな。途中どっかからかけようかとも思ったんだが、やけにスイスイ来ちまって」
わざわざ電話を探して停めるのが面倒になったというわけか。しかし、いきなり鍵を回すよりはと一応ブザーを鳴らしてくれた辺りが新藤らしい。一希への配慮というよりは、警察でも呼ばれたら困るという意味での自己防衛かもしれないが。
お茶ぐらい飲むだろうと思い、とりあえずやかんに湯を沸かしていると、着替えを終えた新藤が台所に顔を出した。その視線が、バナナしかないテーブルの上をさまよう。
「先生、ひょっとしてお食事まだですか?」
「ああ。中途半端に拘束されたもんで食いそびれた。何かあるか?」
「あの、ないこともないんですけど……」
いわゆる普通のおかずはない。かといって、出前が取れる時間でもない。どうしたものかと思案する一希に、新藤が助け舟を出す。
「お前の大好物だから取っておきたいというなら、黙って米だけ食ってやってもいいが」
一希はその場に凍り付いた。うつむいた顔がみるみる赤くなるのが自分でわかる。
「もしかして……結構匂ってたりします?」
「玄関入った瞬間からな」
一希は、穴があったら入りたいどころか、消えてなくなりたかった。
夏場のタヌキの轢死体だの、腐った靴の中敷きだの、あらゆる形容で蔑まれてきたスムの煮込み料理。一希の一番の好物は、大多数のワカ族にとっては良く言えば珍味、悪く言えばゲテモノでしかない。
0
お気に入りに追加
17
あなたにおすすめの小説
夫の不貞現場を目撃してしまいました
秋月乃衣
恋愛
伯爵夫人ミレーユは、夫との間に子供が授からないまま、閨を共にしなくなって一年。
何故か夫から閨を拒否されてしまっているが、理由が分からない。
そんな時に夜会中の庭園で、夫と未亡人のマデリーンが、情事に耽っている場面を目撃してしまう。
なろう様でも掲載しております。
挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました
結城芙由奈
恋愛
【結婚した日に、「君にこれを預けておく」と離婚届を手渡されました】
今日、私は子供の頃からずっと大好きだった人と結婚した。しかし、式の後に絶望的な事を彼に言われた。
「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ。これを預けておくから、その気になったら提出してくれ」
そう言って手渡されたのは何と離婚届けだった。
そしてどこまでも冷たい態度の夫の行動に傷つけられていく私。
けれどその裏には私の知らない、ある深い事情が隠されていた。
その真意を知った時、私は―。
※暫く鬱展開が続きます
※他サイトでも投稿中
選ばれたのは美人の親友
杉本凪咲
恋愛
侯爵令息ルドガーの妻となったエルは、良き妻になろうと奮闘していた。しかし突然にルドガーはエルに離婚を宣言し、あろうことかエルの親友であるレベッカと関係を持った。悔しさと怒りで泣き叫ぶエルだが、最後には離婚を決意して縁を切る。程なくして、そんな彼女に新しい縁談が舞い込んできたが、縁を切ったはずのレベッカが現れる。
何を間違った?【完結済】
maruko
恋愛
私は長年の婚約者に婚約破棄を言い渡す。
彼女とは1年前から連絡が途絶えてしまっていた。
今真実を聞いて⋯⋯。
愚かな私の後悔の話
※作者の妄想の産物です
他サイトでも投稿しております
王妃の手習い
桃井すもも
恋愛
オフィーリアは王太子の婚約者候補である。しかしそれは、国内貴族の勢力バランスを鑑みて、解消が前提の予定調和のものであった。
真の婚約者は既に内定している。
近い将来、オフィーリアは候補から外される。
❇妄想の産物につき史実と100%異なります。
❇知らない事は書けないをモットーに完結まで頑張ります。
❇妄想スイマーと共に遠泳下さる方にお楽しみ頂けますと泳ぎ甲斐があります。
婚約者の浮気相手が子を授かったので
澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ファンヌはリヴァス王国王太子クラウスの婚約者である。
ある日、クラウスが想いを寄せている女性――アデラが子を授かったと言う。
アデラと一緒になりたいクラウスは、ファンヌに婚約解消を迫る。
ファンヌはそれを受け入れ、さっさと手続きを済ませてしまった。
自由になった彼女は学校へと戻り、大好きな薬草や茶葉の『研究』に没頭する予定だった。
しかし、師であるエルランドが学校を辞めて自国へ戻ると言い出す。
彼は自然豊かな国ベロテニア王国の出身であった。
ベロテニア王国は、薬草や茶葉の生育に力を入れているし、何よりも獣人の血を引く者も数多くいるという魅力的な国である。
まだまだエルランドと共に茶葉や薬草の『研究』を続けたいファンヌは、エルランドと共にベロテニア王国へと向かうのだが――。
※表紙イラストはタイトルから「お絵描きばりぐっどくん」に作成してもらいました。
※完結しました
この度、仮面夫婦の妊婦妻になりまして。
天織 みお
恋愛
「おめでとうございます。奥様はご懐妊されています」
目が覚めたらいきなり知らない老人に言われた私。どうやら私、妊娠していたらしい。
「だが!彼女と子供が出来るような心当たりは一度しかないんだぞ!!」
そして、子供を作ったイケメン王太子様との仲はあまり良くないようで――?
そこに私の元婚約者らしい隣国の王太子様とそのお妃様まで新婚旅行でやって来た!
っていうか、私ただの女子高生なんですけど、いつの間に結婚していたの?!ファーストキスすらまだなんだけど!!
っていうか、ここどこ?!
※完結まで毎日2話更新予定でしたが、3話に変更しました
※他サイトにも掲載中
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる