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第2章 修練の時
44 ルール
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「冴島」
「はい」
「括りを忘れろ」
「括り?」
「人間一人という単位以外、全ての括りをだ。まあ完全に忘れるのは無理でも、なるべく見ないようにしてみろ」
個人以外の単位。性別もその一つだ。
「はい。意識してみます」
「それから、何でもかんでもがむしゃらに突っ走ればいいと思うな。お前が頑張ったかどうかなんて、社会じゃどうでもいいことだ。意味を持つのは結果だけだからな」
(結果だけ……)
できれば直視したくない事実だった。
結果というものは、決して約束されない。一希は学校の成績は全体的にいい方だったが、どの科目でも何か苦手な分野に囚われると、テストの点数が急にガクンと下がることがあった。それでも学校という枠組の中では、できないなりに頑張ったという過程が評価されてきた。
学校だけではない。物心ついて以来、どんなことでも一生懸命やれば褒められたものだ。たとえうまくいかなくても、他の誰も見ていてくれなくても、母だけは一希の努力を認めてくれた。
気付けば、母のようになろうとしていた。朝早く起きて一希のお弁当を作り、父と一希に朝食を食べさせ、自分は身支度を整えて働きに出、一日みっちり働き、帰りに買った物で手早く夕食を作り、風呂を沸かし、夜のうちに洗濯物を干していた母のように。
一希がその一部を手伝うことができたのは、わずか数年だった。それを悔やむ気持ちが、今でもどこかに引っかかっている。自分がもっと多くをこなしてあげられたら、母はもう少し長く生きられたのかもしれない、と。
振り返ってみれば、挑戦や努力そのものを否定された記憶はない。頑張ることに待ったをかけられるのは、もしかしたら初めてかもしれない。限界を超えて無理をすることで、出せなかった結果を埋め合わせられるような気がしていた。しかし、母が帰ってくることはもうない。
一希の沈黙を萎縮とでも取ったのか、新藤は少し気楽な調子で付け足す。
「合理的にやれと前に言ったろ。必死になる前に、結果を確実に手に入れるためのうまい方法を考えろってことだ」
「はい、そのように心がけます」
ふっと漏れる息が聞こえ、
「心がけてからが長いもんだがな」
と口角をへこませた新藤は、人並みに微笑んだように見えた。
「そう、ですね……きっと」
できることは全部、一人で、全力で。それが習慣として染み付いた一希にとっては、冷静に賢く結果を追求するのはとても難しいことだ。偏見を捨てるのと同じぐらいに。
「コツを教えてやろう」
「はい」
「最低限のルールを三つおぼえておけ。これだけは一生忘れるな」
「一生」という言葉に背筋が緊張する。不用意に大げさな表現を使うような人ではない。
「……はい」
「一つ。どんな選択も絶対に感情に任せるな。代わりに頭を使え」
「はい」
「二つ。体調も疲労も、最初から計算に入れて動け。調子が悪くて使い物にならんなら、使わないでくれとあらかじめ宣言するのがプロの責任だ。疲れを溜めるのはお前の自由だが、その結果、作業中に急に使えなくなることは許さん。一度無理をすると決めたなら、必ず最後まで責任もって無理しおおせろ」
「はい」
「三つ。人の手を借りることを嫌うな。人間一人でできることなんてたかが知れてるもんだ」
「はい」
一希は、頭の中でそれらをしばし反芻した。
「以上だ。文句があれば聞くぞ」
「いえ」
文句などない。その代わり、相談したいことなら山ほどあるような気がした。
「あ、そうだ、先日ご紹介いただいた薬局というか……何でしたっけ?」
「ああ、薬膳屋か」
「ええ。ありがとうございます。行ってきました。試しに飲んでみなさいって、一つ粉末をいただいたので、それを試してみます」
「ああ」
「あとですね」
「ん」
「体を温めた方がよいそうで」
「だから言ったろ。あの寒い部屋にいて厚着だけで済まそうとか考えるから……」
「あ、部屋のこともまあそうなんですけど、あの、お風呂をですね、沸かしてゆっくり温まった方がいいと言われまして」
「なら、そうしたらどうだ?」
「はい、ただ、光熱費が多少増えてしまうかもしれませんが……」
「全部ひっくるめて生活費の範囲内に収まってれば構わん」
「はい」
「他には?」
「いえ、それだけです」
「ん」
実は続きがあることをごまかすのに珍しく成功し、拍子抜けしてしまう。
本当はまだ聞きたいことがあった。沸かしたら沸かしたで新藤も湯船に浸かるのか、その場合は一番風呂を譲った方がいいのか、一希が生理中に湯に浸かっても気にならないか。しかし、こういったことは面と向かって聞かれても答えにくいだろう。こうなったら成り行きに任せるのが一番かもしれない。
この四日間の謹慎もどきを経て、一つ思い出したことがある。新藤が菊乃に一希の来店を予告した時、「弟子」と紹介していたこと。新藤にとって一希は、助手である以上に弟子なのだ。目先の雑用を手伝うよりも、早く一人前になることこそが一番の恩返しになると、一希はようやく呑み込んだ。
「はい」
「括りを忘れろ」
「括り?」
「人間一人という単位以外、全ての括りをだ。まあ完全に忘れるのは無理でも、なるべく見ないようにしてみろ」
個人以外の単位。性別もその一つだ。
「はい。意識してみます」
「それから、何でもかんでもがむしゃらに突っ走ればいいと思うな。お前が頑張ったかどうかなんて、社会じゃどうでもいいことだ。意味を持つのは結果だけだからな」
(結果だけ……)
できれば直視したくない事実だった。
結果というものは、決して約束されない。一希は学校の成績は全体的にいい方だったが、どの科目でも何か苦手な分野に囚われると、テストの点数が急にガクンと下がることがあった。それでも学校という枠組の中では、できないなりに頑張ったという過程が評価されてきた。
学校だけではない。物心ついて以来、どんなことでも一生懸命やれば褒められたものだ。たとえうまくいかなくても、他の誰も見ていてくれなくても、母だけは一希の努力を認めてくれた。
気付けば、母のようになろうとしていた。朝早く起きて一希のお弁当を作り、父と一希に朝食を食べさせ、自分は身支度を整えて働きに出、一日みっちり働き、帰りに買った物で手早く夕食を作り、風呂を沸かし、夜のうちに洗濯物を干していた母のように。
一希がその一部を手伝うことができたのは、わずか数年だった。それを悔やむ気持ちが、今でもどこかに引っかかっている。自分がもっと多くをこなしてあげられたら、母はもう少し長く生きられたのかもしれない、と。
振り返ってみれば、挑戦や努力そのものを否定された記憶はない。頑張ることに待ったをかけられるのは、もしかしたら初めてかもしれない。限界を超えて無理をすることで、出せなかった結果を埋め合わせられるような気がしていた。しかし、母が帰ってくることはもうない。
一希の沈黙を萎縮とでも取ったのか、新藤は少し気楽な調子で付け足す。
「合理的にやれと前に言ったろ。必死になる前に、結果を確実に手に入れるためのうまい方法を考えろってことだ」
「はい、そのように心がけます」
ふっと漏れる息が聞こえ、
「心がけてからが長いもんだがな」
と口角をへこませた新藤は、人並みに微笑んだように見えた。
「そう、ですね……きっと」
できることは全部、一人で、全力で。それが習慣として染み付いた一希にとっては、冷静に賢く結果を追求するのはとても難しいことだ。偏見を捨てるのと同じぐらいに。
「コツを教えてやろう」
「はい」
「最低限のルールを三つおぼえておけ。これだけは一生忘れるな」
「一生」という言葉に背筋が緊張する。不用意に大げさな表現を使うような人ではない。
「……はい」
「一つ。どんな選択も絶対に感情に任せるな。代わりに頭を使え」
「はい」
「二つ。体調も疲労も、最初から計算に入れて動け。調子が悪くて使い物にならんなら、使わないでくれとあらかじめ宣言するのがプロの責任だ。疲れを溜めるのはお前の自由だが、その結果、作業中に急に使えなくなることは許さん。一度無理をすると決めたなら、必ず最後まで責任もって無理しおおせろ」
「はい」
「三つ。人の手を借りることを嫌うな。人間一人でできることなんてたかが知れてるもんだ」
「はい」
一希は、頭の中でそれらをしばし反芻した。
「以上だ。文句があれば聞くぞ」
「いえ」
文句などない。その代わり、相談したいことなら山ほどあるような気がした。
「あ、そうだ、先日ご紹介いただいた薬局というか……何でしたっけ?」
「ああ、薬膳屋か」
「ええ。ありがとうございます。行ってきました。試しに飲んでみなさいって、一つ粉末をいただいたので、それを試してみます」
「ああ」
「あとですね」
「ん」
「体を温めた方がよいそうで」
「だから言ったろ。あの寒い部屋にいて厚着だけで済まそうとか考えるから……」
「あ、部屋のこともまあそうなんですけど、あの、お風呂をですね、沸かしてゆっくり温まった方がいいと言われまして」
「なら、そうしたらどうだ?」
「はい、ただ、光熱費が多少増えてしまうかもしれませんが……」
「全部ひっくるめて生活費の範囲内に収まってれば構わん」
「はい」
「他には?」
「いえ、それだけです」
「ん」
実は続きがあることをごまかすのに珍しく成功し、拍子抜けしてしまう。
本当はまだ聞きたいことがあった。沸かしたら沸かしたで新藤も湯船に浸かるのか、その場合は一番風呂を譲った方がいいのか、一希が生理中に湯に浸かっても気にならないか。しかし、こういったことは面と向かって聞かれても答えにくいだろう。こうなったら成り行きに任せるのが一番かもしれない。
この四日間の謹慎もどきを経て、一つ思い出したことがある。新藤が菊乃に一希の来店を予告した時、「弟子」と紹介していたこと。新藤にとって一希は、助手である以上に弟子なのだ。目先の雑用を手伝うよりも、早く一人前になることこそが一番の恩返しになると、一希はようやく呑み込んだ。
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