爆弾拾いがついた嘘

生津直

文字の大きさ
上 下
46 / 118
第2章 修練の時

44 ルール

しおりを挟む
「冴島」

「はい」

くくりを忘れろ」

「括り?」

「人間一人という単位以外、全ての括りをだ。まあ完全に忘れるのは無理でも、なるべく見ないようにしてみろ」

 個人以外の単位。性別もその一つだ。

「はい。意識してみます」

「それから、何でもかんでもがむしゃらに突っ走ればいいと思うな。お前が頑張ったかどうかなんて、社会じゃどうでもいいことだ。意味を持つのは結果だけだからな」

(結果だけ……)

 できれば直視したくない事実だった。

 結果というものは、決して約束されない。一希は学校の成績は全体的にいい方だったが、どの科目でも何か苦手な分野に囚われると、テストの点数が急にガクンと下がることがあった。それでも学校という枠組の中では、できないなりに頑張ったという過程が評価されてきた。

 学校だけではない。物心ついて以来、どんなことでも一生懸命やれば褒められたものだ。たとえうまくいかなくても、他の誰も見ていてくれなくても、母だけは一希の努力を認めてくれた。

 気付けば、母のようになろうとしていた。朝早く起きて一希のお弁当を作り、父と一希に朝食を食べさせ、自分は身支度を整えて働きに出、一日みっちり働き、帰りに買った物で手早く夕食を作り、風呂を沸かし、夜のうちに洗濯物を干していた母のように。

 一希がその一部を手伝うことができたのは、わずか数年だった。それを悔やむ気持ちが、今でもどこかに引っかかっている。自分がもっと多くをこなしてあげられたら、母はもう少し長く生きられたのかもしれない、と。

 振り返ってみれば、挑戦や努力そのものを否定された記憶はない。頑張ることに待ったをかけられるのは、もしかしたら初めてかもしれない。限界を超えて無理をすることで、出せなかった結果を埋め合わせられるような気がしていた。しかし、母が帰ってくることはもうない。

 一希の沈黙を萎縮とでも取ったのか、新藤は少し気楽な調子で付け足す。

「合理的にやれと前に言ったろ。必死になる前に、結果を確実に手に入れるためのうまい方法を考えろってことだ」

「はい、そのように心がけます」

 ふっと漏れる息が聞こえ、

「心がけてからが長いもんだがな」

と口角をへこませた新藤は、人並みに微笑んだように見えた。

「そう、ですね……きっと」

 できることは全部、一人で、全力で。それが習慣として染み付いた一希にとっては、冷静に賢く結果を追求するのはとても難しいことだ。偏見を捨てるのと同じぐらいに。

「コツを教えてやろう」

「はい」

「最低限のルールを三つおぼえておけ。これだけは一生忘れるな」

「一生」という言葉に背筋が緊張する。不用意に大げさな表現を使うような人ではない。

「……はい」

「一つ。どんな選択も絶対に感情に任せるな。代わりに頭を使え」

「はい」

「二つ。体調も疲労も、最初から計算に入れて動け。調子が悪くて使い物にならんなら、使わないでくれとあらかじめ宣言するのがプロの責任だ。疲れを溜めるのはお前の自由だが、その結果、作業中に急に使えなくなることは許さん。一度無理をすると決めたなら、必ず最後まで責任もって無理しおおせろ」

「はい」

「三つ。人の手を借りることを嫌うな。人間一人でできることなんてたかが知れてるもんだ」

「はい」

 一希は、頭の中でそれらをしばし反芻した。

「以上だ。文句があれば聞くぞ」

「いえ」

 文句などない。その代わり、相談したいことなら山ほどあるような気がした。

「あ、そうだ、先日ご紹介いただいた薬局というか……何でしたっけ?」

「ああ、薬膳屋か」

「ええ。ありがとうございます。行ってきました。試しに飲んでみなさいって、一つ粉末をいただいたので、それを試してみます」

「ああ」

「あとですね」

「ん」

「体を温めた方がよいそうで」

「だから言ったろ。あの寒い部屋にいて厚着だけで済まそうとか考えるから……」

「あ、部屋のこともまあそうなんですけど、あの、お風呂をですね、かしてゆっくり温まった方がいいと言われまして」

「なら、そうしたらどうだ?」

「はい、ただ、光熱費が多少増えてしまうかもしれませんが……」

「全部ひっくるめて生活費の範囲内に収まってれば構わん」

「はい」

「他には?」

「いえ、それだけです」

「ん」

 実は続きがあることをごまかすのに珍しく成功し、拍子抜けしてしまう。

 本当はまだ聞きたいことがあった。沸かしたら沸かしたで新藤も湯船にかるのか、その場合は一番風呂を譲った方がいいのか、一希が生理中に湯に浸かっても気にならないか。しかし、こういったことは面と向かって聞かれても答えにくいだろう。こうなったら成り行きに任せるのが一番かもしれない。

 この四日間の謹慎もどきを経て、一つ思い出したことがある。新藤が菊乃に一希の来店を予告した時、「弟子」と紹介していたこと。新藤にとって一希は、助手である以上に弟子なのだ。目先の雑用を手伝うよりも、早く一人前になることこそが一番の恩返しになると、一希はようやく呑み込んだ。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

人生を共にしてほしい、そう言った最愛の人は不倫をしました。

松茸
恋愛
どうか僕と人生を共にしてほしい。 そう言われてのぼせ上った私は、侯爵令息の彼との結婚に踏み切る。 しかし結婚して一年、彼は私を愛さず、別の女性と不倫をした。

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

愛する貴方の心から消えた私は…

矢野りと
恋愛
愛する夫が事故に巻き込まれ隣国で行方不明となったのは一年以上前のこと。 周りが諦めの言葉を口にしても、私は決して諦めなかった。  …彼は絶対に生きている。 そう信じて待ち続けていると、願いが天に通じたのか奇跡的に彼は戻って来た。 だが彼は妻である私のことを忘れてしまっていた。 「すまない、君を愛せない」 そう言った彼の目からは私に対する愛情はなくなっていて…。 *設定はゆるいです。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

夫は私を愛してくれない

はくまいキャベツ
恋愛
「今までお世話になりました」 「…ああ。ご苦労様」 彼はまるで長年勤めて退職する部下を労うかのように、妻である私にそう言った。いや、妻で“あった”私に。 二十数年間すれ違い続けた夫婦が別れを決めて、もう一度向き合う話。

すれ違ってしまった恋

秋風 爽籟
恋愛
別れてから何年も経って大切だと気が付いた… それでも、いつか戻れると思っていた… でも現実は厳しく、すれ違ってばかり…

記憶を失くした彼女の手紙 消えてしまった完璧な令嬢と、王子の遅すぎた後悔の話

甘糖むい
恋愛
婚約者であるシェルニア公爵令嬢が記憶喪失となった。 王子はひっそりと喜んだ。これで愛するクロエ男爵令嬢と堂々と結婚できると。 その時、王子の元に一通の手紙が届いた。 そこに書かれていたのは3つの願いと1つの真実。 王子は絶望感に苛まれ後悔をする。

拝啓、私の生きる修羅の国

蒼キるり
ライト文芸
昔、転校していった友達に手紙を書いていたが、成長するにつれ返事は返って来ないようになった。そんなことを恋人に話すと、なぜ返事が来なくなったかに気づいてゆく。

処理中です...