44 / 118
第2章 修練の時
42 内省
しおりを挟む
翌日、「冴島の棚」は空になっていた。新藤が全てをどこかに隠したのだ。昨日危険を顧みなかったのはなぜか。その答えがわかるまで他の仕事は禁止。
一希は途方に暮れた。考えろといったって、考えることだけをそう何時間もできるものではない。洗濯でも、と思えばもう庭に干されており、ゴミもきっちり片付いていた。そしてダメ押しのように、朝っぱらから大量の惣菜が届く。まさかと思って台所に行ってみると、ご飯も昼時には炊き上がるように炊飯器がセットされていた。
(もうちょっと抜かりあってもいいんじゃ……)
それでいて、一希が何をしているかを監視する素振りもない。考えてみれば当然だ。真面目に考えて答えを出さなければ困るのは一希の方なのだから。
仕方なく家の周りを軽く走ったり、自転車で街を走ってみたり、気が向けば台所にも立ったり。冷蔵庫の中身との兼ね合いはこの際無視して、自分が作りたい料理を時間に追われることなくのんびりと作る。「考える」ための環境を整えようと思うと、自ずと体調にも気を配るようになり、没頭しすぎず一割二割の余力を残すという発想が生まれた。
元気を出す、という名目を自分の中に用意して、アイスクリームも買った。これまでは贅沢だと思って我慢していたが、生活費の管理権も新藤に一旦没収されてしまったのをよいことに、自分の貯金から出したのだ。バケツ型の容器に入ったストロベリー味で、大きければ大きいほど割が良いため、一番大きいのを。
ところが、冷凍庫に入れて一晩経ち、一希がいざ容器を開けてみると、中身は早くも三分の二ほどに減っている。それを見て、つい笑みがこぼれた。大きなスプーンでピンク色のアイスを容器から直接すくう新藤が目に浮かぶ。そして思い出される「共有財産」という言葉。この分なら次回買う時には生活費から出しても問題なさそうだ。
新藤は、一希に逃げられても困らないとの宣言通り、何の支障もなさそうに日々をこなしている。その様子を眺めるうち、一希は自分がここにいる意味を改めて悟り始めていた。
雑用を奪われてから四日目の晩、一希は一日の仕事を終えた新藤を呼び止めた。大机で師匠と対峙する一希には、倒れて説教を食らった時の打ちひしがれた気持ちはもうなかった。
「優先順位を間違っていました」
「ん」
「本来安全が第一。それに次ぐ二番目を挙げるとすれば、予定された作業の全うです。私はその二つの前に、自己満足を置いていました。いつか先生がおっしゃった通り、優先順位を履き違えた結果、危険を招いてしまったと思います」
新藤はじっと聞き入り、小さなため息の後に言った。
「いかに男と張り合うか。それが今のお前の最大の関心事だ」
「……はい」
答えを出すためにと与えられた時間だが、実際には、自分でも薄々わかっていた答えを認め、そして口に出すための四日間だった。
「女であることが優先順位を見失わせるなら、俺だって反対せざるを得んぞ。『これだから女は』、『所詮女だから』……そういう雑音はお前が何をどうしようと絶対になくなることはない。そんなもんに振り回されて真の目的を見失うような奴に補助士は務まらん」
「はい……」
歯切れの悪い返事を、黙って見逃す新藤ではない。
「何だ」
「……おっしゃる通り、です」
「それで?」
そう、問題はその先。
「あの、先生」
「ん」
「そんなことでは務まらないってことはわかったんですが、これからどうすればいいのかが……」
「ああ」
「男社会でいかに対等にやっていくかって、もう長いこと考え続けてきたような気がするんです。私にとっては大事なことでもあって、生き残るために必要な気もするし……だから、はい今から忘れます、って言える感じじゃなくて」
「そりゃそうだ」
「え?」
「はい忘れますと簡単に言うようなら、出直してこいと怒鳴らなきゃならん」
「先生……」
新藤は軽く伸びをし、天井を仰いだ。
「難しいことだな、偏見を捨てるってのは」
「偏見……ですか?」
「そうだ。お前の中にある偏見だ」
(私の? 周りのじゃなくて?)
「お前は自分が女だと意識すまい、させまいとするあまり、却って誰よりも自分の性別にこだわってる」
霧が晴れたような気がした。言われてみればその通りだ。しかし、一希がようやく素直に頷けるのも、四日間真剣に己の心と向き合った今だからこそだ。新藤にはもっと早くからわかっていたのかもしれない。
一希は途方に暮れた。考えろといったって、考えることだけをそう何時間もできるものではない。洗濯でも、と思えばもう庭に干されており、ゴミもきっちり片付いていた。そしてダメ押しのように、朝っぱらから大量の惣菜が届く。まさかと思って台所に行ってみると、ご飯も昼時には炊き上がるように炊飯器がセットされていた。
(もうちょっと抜かりあってもいいんじゃ……)
それでいて、一希が何をしているかを監視する素振りもない。考えてみれば当然だ。真面目に考えて答えを出さなければ困るのは一希の方なのだから。
仕方なく家の周りを軽く走ったり、自転車で街を走ってみたり、気が向けば台所にも立ったり。冷蔵庫の中身との兼ね合いはこの際無視して、自分が作りたい料理を時間に追われることなくのんびりと作る。「考える」ための環境を整えようと思うと、自ずと体調にも気を配るようになり、没頭しすぎず一割二割の余力を残すという発想が生まれた。
元気を出す、という名目を自分の中に用意して、アイスクリームも買った。これまでは贅沢だと思って我慢していたが、生活費の管理権も新藤に一旦没収されてしまったのをよいことに、自分の貯金から出したのだ。バケツ型の容器に入ったストロベリー味で、大きければ大きいほど割が良いため、一番大きいのを。
ところが、冷凍庫に入れて一晩経ち、一希がいざ容器を開けてみると、中身は早くも三分の二ほどに減っている。それを見て、つい笑みがこぼれた。大きなスプーンでピンク色のアイスを容器から直接すくう新藤が目に浮かぶ。そして思い出される「共有財産」という言葉。この分なら次回買う時には生活費から出しても問題なさそうだ。
新藤は、一希に逃げられても困らないとの宣言通り、何の支障もなさそうに日々をこなしている。その様子を眺めるうち、一希は自分がここにいる意味を改めて悟り始めていた。
雑用を奪われてから四日目の晩、一希は一日の仕事を終えた新藤を呼び止めた。大机で師匠と対峙する一希には、倒れて説教を食らった時の打ちひしがれた気持ちはもうなかった。
「優先順位を間違っていました」
「ん」
「本来安全が第一。それに次ぐ二番目を挙げるとすれば、予定された作業の全うです。私はその二つの前に、自己満足を置いていました。いつか先生がおっしゃった通り、優先順位を履き違えた結果、危険を招いてしまったと思います」
新藤はじっと聞き入り、小さなため息の後に言った。
「いかに男と張り合うか。それが今のお前の最大の関心事だ」
「……はい」
答えを出すためにと与えられた時間だが、実際には、自分でも薄々わかっていた答えを認め、そして口に出すための四日間だった。
「女であることが優先順位を見失わせるなら、俺だって反対せざるを得んぞ。『これだから女は』、『所詮女だから』……そういう雑音はお前が何をどうしようと絶対になくなることはない。そんなもんに振り回されて真の目的を見失うような奴に補助士は務まらん」
「はい……」
歯切れの悪い返事を、黙って見逃す新藤ではない。
「何だ」
「……おっしゃる通り、です」
「それで?」
そう、問題はその先。
「あの、先生」
「ん」
「そんなことでは務まらないってことはわかったんですが、これからどうすればいいのかが……」
「ああ」
「男社会でいかに対等にやっていくかって、もう長いこと考え続けてきたような気がするんです。私にとっては大事なことでもあって、生き残るために必要な気もするし……だから、はい今から忘れます、って言える感じじゃなくて」
「そりゃそうだ」
「え?」
「はい忘れますと簡単に言うようなら、出直してこいと怒鳴らなきゃならん」
「先生……」
新藤は軽く伸びをし、天井を仰いだ。
「難しいことだな、偏見を捨てるってのは」
「偏見……ですか?」
「そうだ。お前の中にある偏見だ」
(私の? 周りのじゃなくて?)
「お前は自分が女だと意識すまい、させまいとするあまり、却って誰よりも自分の性別にこだわってる」
霧が晴れたような気がした。言われてみればその通りだ。しかし、一希がようやく素直に頷けるのも、四日間真剣に己の心と向き合った今だからこそだ。新藤にはもっと早くからわかっていたのかもしれない。
0
お気に入りに追加
17
あなたにおすすめの小説
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
このユーザは規約違反のため、運営により削除されました。 前科者みたい 小説家になろうを腐ったみかんのように捨てられた 雑記帳
春秋花壇
現代文学
ある日、突然、小説家になろうから腐った蜜柑のように捨てられました。
エラーが発生しました
このユーザは規約違反のため、運営により削除されました。
前科者みたい
これ一生、書かれるのかな
統合失調症、重症うつ病、解離性同一性障害、境界性パーソナリティ障害の主人公、パニック発作、視野狭窄から立ち直ることができるでしょうか。
2019年12月7日
私の小説の目標は
三浦綾子「塩狩峠」
遠藤周作「わたしが・棄てた・女」
そして、作品の主題は「共に生きたい」
かはたれどきの公園で
編集会議は行われた
方向性も、書きたいものも
何も決まっていないから
カオスになるんだと
気づきを頂いた
さあ 目的地に向かって
面舵いっぱいヨーソロー
太陽と星のバンデイラ
桜のはなびら
現代文学
〜メウコラソン〜
心のままに。
新駅の開業が計画されているベッドタウンでのできごと。
新駅の開業予定地周辺には開発の手が入り始め、にわかに騒がしくなる一方、旧駅周辺の商店街は取り残されたような状態で少しずつ衰退していた。
商店街のパン屋の娘である弧峰慈杏(こみねじあん)は、店を畳むという父に代わり、店を継ぐ決意をしていた。それは、やりがいを感じていた広告代理店の仕事を、尊敬していた上司を、かわいがっていたチームメンバーを捨てる選択でもある。
葛藤の中、相談に乗ってくれていた恋人との会話から、父がお店を継続する状況を作り出す案が生まれた。
かつて商店街が振興のために立ち上げたサンバチーム『ソール・エ・エストレーラ』と商店街主催のお祭りを使って、父の翻意を促すことができないか。
慈杏と恋人、仕事のメンバーに父自身を加え、計画を進めていく。
慈杏たちの計画に立ちはだかるのは、都市開発に携わる二人の男だった。二人はこの街に憎しみにも似た感情を持っていた。
二人は新駅周辺の開発を進める傍ら、商店街エリアの衰退を促進させるべく、裏社会とも通じ治安を悪化させる施策を進めていた。
※表紙はaiで作成しました。
光のもとで2
葉野りるは
青春
一年の療養を経て高校へ入学した翠葉は「高校一年」という濃厚な時間を過ごし、
新たな気持ちで新学期を迎える。
好きな人と両思いにはなれたけれど、だからといって順風満帆にいくわけではないみたい。
少し環境が変わっただけで会う機会は減ってしまったし、気持ちがすれ違うことも多々。
それでも、同じ時間を過ごし共に歩めることに感謝を……。
この世界には当たり前のことなどひとつもなく、あるのは光のような奇跡だけだから。
何か問題が起きたとしても、一つひとつ乗り越えて行きたい――
(10万文字を一冊として、文庫本10冊ほどの長さです)
後宮の棘
香月みまり
キャラ文芸
蔑ろにされ婚期をのがした25歳皇女がついに輿入り!相手は敵国の禁軍将軍。冷めた姫vs堅物男のチグハグな夫婦は帝国内の騒乱に巻き込まれていく。
☆完結しました☆
スピンオフ「孤児が皇后陛下と呼ばれるまで」の進捗と合わせて番外編を不定期に公開していきます。
第13回ファンタジー大賞特別賞受賞!
ありがとうございました!!
巻き戻りした悪役令息は最愛の人から離れて生きていく
藍沢真啓/庚あき
BL
婚約者ユリウスから断罪をされたアリステルは、ボロボロになった状態で廃教会で命を終えた……はずだった。
目覚めた時はユリウスと婚約したばかりの頃で、それならばとアリステルは自らユリウスと距離を置くことに決める。だが、なぜかユリウスはアリステルに構うようになり……
巻き戻りから人生をやり直す悪役令息の物語。
【感想のお返事について】
感想をくださりありがとうございます。
執筆を最優先させていただきますので、お返事についてはご容赦願います。
大切に読ませていただいてます。執筆の活力になっていますので、今後も感想いただければ幸いです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる