君の思い出

生津直

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第5章 記憶

82 宇田川

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 坂口からの指示通り、タクシーで警察署に到着した千尋は、また例の小部屋に通された。斜め向かいの席では、長尾が時折心配そうにこちらを見る。

 間もなく部屋の入口に姿を現した浅葉に、長尾が告げた。

「ブリーフィング俺も立ち会えってさ。課長命令」

 浅葉はそれを聞くと黙ってドアを閉め、手にしていたファイルをデスクに置きながら千尋を見下ろし、何の前置きもなく本題に入った。

「殺人未遂で刑務所に入ってる男が、刑期を終えて出てくる。暴力団の傘下組織の重要人物で、その出所しゅっしょに合わせて大型の取引が予定されてる」

 千尋は、その言葉を一つひとつ消化していた。取引というのは当然、違法薬物のことだ。まさか一生のうちに二度も自分がそんな話に巻き込まれるとは……。

「警察としては本来なら取引が行われるのを待ってその現場を押さえたいところだが、今回はそう簡単じゃない」

 浅葉はデスクに両手を付き、その間へと視線を落とした。

「事情があって、この取引は中止させたい」

 その顔がぱっと正面を向き、千尋の目を捉えた。

「そのための協力をお前に頼みたいんだ」

(私に……なぜ?)

 浅葉はファイルを開き、小さな紙切れを取り出した。千尋の前に置かれたのは一枚の写真。そこに映った顔に言葉を失った。

 浅葉を見、再び写真を見た。

(どういうこと……!?)

宇田川修司うだがわ しゅうじだ。明日出所してくる」

 長い沈黙が部屋を満たした。千尋はただ食い入るようにその写真を見つめていた。浅葉はそれをつまみ上げ、ファイルに戻した。

「宇田川には敵がいる。この懲役の原因になった殺人未遂のせいで、もともと敵対関係にあって何度ももめてる団体からさらに恨みを買ってるんだ。今は休戦状態だけど、彼らが宇田川の出所を待ち構えてることは間違いない。この取引はその対立を煽るもので、既に妨害する動きが出てきてる。放っとくと全面抗争になって、一般市民にも危険が及ぶ」

 浅葉は、検挙よりも阻止という方針に至った経緯を説明した。宇田川を説得するため千尋に協力してほしいというのが警察の要望だが、宇田川を連行する理由がないため、出所後の動きを追い、手頃な場所で足止めしてそこに千尋を同行させるという段取りになる。

 ただし宇田川は出所後再び命を狙われるわけで、その身に近付くことには当然危険が伴う。協力はあくまで任意であり、同行してくれるなら厳重な警護を付ける、という話だった。

「お前から説得しろっていうわけじゃないんだ。ただその場にいてくれるだけでいい」

 千尋は、今聞いた話を頭の中で懸命に整理しようとしていた。

「結論は今じゃなくていい。明日の朝八時までに、この番号に連絡してくれ」

と浅葉がデスクに置いたのは、坂口の名刺だ。以前本人からもらったのと同じもののようだった。電話をかけたことはないが、内線番号が書かれている以上はそれを使うのが筋だろう。つまり、電話は直接彼女に繋がり、この件について千尋が浅葉と個人的に話す機会はないということだ。

「質問がなければ、これで」

「あの……」

 遠慮がちな千尋の声に、浅葉が顔を上げた。

「本来ならお金になる話を、あきらめさせるってことですよね」

「そういうことになるな」

「私が出ていったところで、お役に立てるとは思えませんけど……何ていうか、基本、他人ですから」

 浅葉はその言葉をしっかりと受け止めてから、再び口を開いた。

「宇田川が服役する前、奴の対立組織がお前を狙ってたことがある」

「えっ?」

「宇田川をゆするための人質ひとじちにしようとしてた」

(そんなことが……)

 千尋は、全身に鳥肌が立つのを感じた。

「宇田川に復讐するつもりで徹底的に調べ尽くした集団が、お前の価値を見込んでたってことだ。何かしら根拠があるんだろう」

(人質としての私の価値……)

「刑務所で六年過ごしてそれがどう変わったかはわからない。ただ、他に方法がないんだ」

「殺人未遂……でしたっけ?」

 浅葉は千尋の目を見たまま、静かに二度まばたきをした。

「そっちはまた別の事件だから詳しいことは言えないけど……いろいろ事情があった」

 千尋は、浅葉の目の奥にその意味を読み取ろうとしていた。

「このことは、母には……?」

 浅葉は黙って首を横に振り、ゆっくりと付け加えた。

「この件は無事に終わるまで、誰にも話さないでくれ」



 千尋は一人自宅に戻り、ベッドの上に座り込んでいた。

(暴力団傘下組織の重要人物、か……)

 その出所の日と、取引の予定。いつから知ってたの、と聞きたかったが、長尾の前で取り乱すようなことになるのは嫌だった。

 もしかしたら、一年前、あの一週間の護衛の時にもうわかっていたのだろうか。いや、その前に参考人として自宅で話を聞かれた時から、警察は既にその情報をつかんでいたのかもしれない。だとしたら……。

(まさか、ね……)

 しかし、ほんの一瞬考えがそこに行ってしまうと、もう引き返すことができなかった。今さら目をらそうとしても、千尋の心は完全にそこにとらわれてしまっていた。

 もし、これまでの経緯が一切なかったとしたら……。何の前触れもなく、生まれて初めて今日突然警察に呼ばれ、取引の阻止に協力してくれと言われたら、どうしていただろう。

 私には関係ない、そんな危険はおかしたくないと、その場で断っていたのではないだろうか。気が進まないながらも一旦持ち帰って考えることにしたのは、相手が浅葉だったからでしかない。

(でも、いくら何でも……)

 そんなことまでできるはずはない、と思いながら、千尋はその可能性をもはや否定できずにいた。何の躊躇ちゅうちょもない様子であの女とキスしていた紫のシャツの男。仕事のためならどんな役でも演じられる人がこの世には存在するのかもしれない。ということは……。
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