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第4章 苦悩
74 恋の嵐
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八月二十六日。夏休み中の夕方。千尋は、がらんとした大学に来ていた。頭の中は相変わらずモヤモヤしていたが、空はよく晴れていた。
日中の気温は三十度を超えていたが湿度は低く、蝉の声さえなければ暑さもさほど苦にならなかったかもしれない。
浅葉と電話で話してからどれぐらい経つだろう。千尋としても電話を待っていたのは確かだが、こんなことを続けて先々どうするのか、長期的にはどうしたいのか、と自問してしまい、いざかかってくると冷たくあしらってしまう。そんなことが何度か続き、千尋は自分でも嫌になっていた。
昨日、久々にかかってきた浅葉の携帯からの電話をついに無視した。自分がもっと機嫌のいい時に、冷静に今後のことを話し合いたかった。
図書館で資料を探していると、バッグの中の電話が振動し始めた。その着信が珍しく「非通知」と表示されたことで、出なければいけない気にさせられた。しかしかかってくる当てといえば……。
ちょうど周囲には誰もいない。千尋は口元を片手で覆い、小声で電話に出た。
「はい」
「千尋」
怒っても慌ててもいない、いつも通りの声。
「はい」
「元気?」
「はい」
「ごめんな、しばらく話せなくて」
昨日電話に出ず、かけ直しもしなかったのは千尋の方だが、それには浅葉は触れないつもりらしい。
何も言えずにいると、再び浅葉の声が聞こえた。
「いつ……会えるかなと思って」
責める口調にならないよう気を遣っているのがわかる。千尋だって会いたいのはやまやまだったが、またいつかのように、会って体を交えたはいいがその結果もっと苦しくなる、という事態を恐れた。
こんな不安を抱えたまま付き合い続けてどうするのかという思いが捨て切れない。浅葉のせいにしたくはないが、心が疲れていた。
(忙しいんでしょう、無理しないで)
思わず言ってしまいそうになり、口をつぐんだ。千尋が黙っていると、
「最近、どう? バイトとか、順調?」
苛立った様子もなく、いつも通りの落ち着いた声が問いかける。その声だけでわだかまりを融かしてしまう浅葉のことを、ずるいと思った。
天の邪鬼な自分の陰に隠れていた正直な感情が、一気に掘り起こされるのを感じた。話などしたくない。そんなことより黙って抱いて、と言ってしまいそうになる。
会えばやるだけ、という付き合い方はもともと軽蔑していたし、他ならぬ浅葉との関係がそんなところへ転落していくのは嫌だった。かといって、欲しくないふりをすることなど、もはやできそうにない。
浅葉への気持ちが全て愚かな肉欲に取って代わられたような気がし、千尋はそんな自分が憎かった。
いつまでも黙り込んでいる千尋のモヤモヤを察したかのように、浅葉が言った。
「ねえ、今どこ? 行っていい?」
車の中から掟破りの業務用携帯で電話している浅葉が目に浮かんだ。はっとするほどの深さを持った瞳が、恋人の姿を求めている……。想像の中の浅葉は、逆らい難い力で千尋の心を揺さぶった。
「図書館です。大学の」
「そっか。じゃあ、裏門でどう? 六時半には着く」
自分の中の醜い思いが、何事もなかったように発されたその言葉に洗われていくようだった。今なら素直になれそうな気がした。
「うん、待ってます」
時間を見計らい、資料を片付けて裏門に向かうと、街灯の下には既にその姿があった。
助手席のドアにもたれて立っていた浅葉は、門の先に千尋を見付けると足早に歩み寄った。何か言わなければ、と言葉を探した千尋を、迷いのない両腕が包み込む。忘れかけていた、ずっと恋しかった温もりが一気に押し寄せた。
千尋は全てを忘れてその胸にかじり付いていた。みるみる込み上げてくる涙をどうすることもできなかった。たかだか二ヶ月弱会えない程度のことに耐えられない女だと思われたくなかったが、隠すことすらできず、ただ子供のようにしゃくり上げた。
久々に見る浅葉は、圧倒的に大人だった。サークルの中では比較的落ち着いた雰囲気のある義則と比べても、ずっと。
職務を持ち、世のため人のため、時には命がけでそれを全うしている男が、休もうと思えばただ休んでもよいはずの貴重な時間を千尋のために割いて、今目の前にいる。
釣り合わない、と思った。私はあなたの気持ちに応えていない、と。あなたの日常を理解すらできていないし、支えるどころか掻き乱している。
ただ寂しいから、一緒にいてほしいから、癒してほしいから、甘えさせろと要求しているだけなのだ。それが果たして恋人のすることだろうか。
(なんで私のことなんか……)
理由がわかるぐらいなら苦労しないよ、という浅葉の苦笑が、千尋の涙をすり抜け、降り注ぐように蘇った。恋なんて、しなければよかった。されなければよかった。千尋は唇を噛んで、胸の痛みに耐えた。
ひとしきり泣き終えると、長いこと置き去りにされていた心と体の渇きが沸々と頭をもたげた。二人分の服の厚みが急に煩わしくなる。
ワイシャツの向こうに、浅葉の汗が感じられた。千尋は無意識のうちに、ボタンの間から手を滑り込ませていた。滑らかな胸が静かに脈打っている。
浅葉は、何かにけしかけられるように押し入ってきた千尋の手に動じることもなく、その全てを受け止めるようにそっと尋ねた。
「うち来る?」
違う、ただ傍にいてくれればいいの、と言おうとしたが、体の方が正直だった。千尋は、早る気持ちを抑え切れぬまま小さく二度頷いた。その頭を大きな手がぐるりと一周した。
「壁薄いから。お静かに願います」
と、千尋の口元に人差し指を当てる。浅葉らしい「セックス禁止令」解除宣言だった。
「でも、十時には出なきゃならない」
何と答えればよいというのだ。千尋は不満たっぷりのため息を漏らし、浅葉を運転席に押し込んだ。
日中の気温は三十度を超えていたが湿度は低く、蝉の声さえなければ暑さもさほど苦にならなかったかもしれない。
浅葉と電話で話してからどれぐらい経つだろう。千尋としても電話を待っていたのは確かだが、こんなことを続けて先々どうするのか、長期的にはどうしたいのか、と自問してしまい、いざかかってくると冷たくあしらってしまう。そんなことが何度か続き、千尋は自分でも嫌になっていた。
昨日、久々にかかってきた浅葉の携帯からの電話をついに無視した。自分がもっと機嫌のいい時に、冷静に今後のことを話し合いたかった。
図書館で資料を探していると、バッグの中の電話が振動し始めた。その着信が珍しく「非通知」と表示されたことで、出なければいけない気にさせられた。しかしかかってくる当てといえば……。
ちょうど周囲には誰もいない。千尋は口元を片手で覆い、小声で電話に出た。
「はい」
「千尋」
怒っても慌ててもいない、いつも通りの声。
「はい」
「元気?」
「はい」
「ごめんな、しばらく話せなくて」
昨日電話に出ず、かけ直しもしなかったのは千尋の方だが、それには浅葉は触れないつもりらしい。
何も言えずにいると、再び浅葉の声が聞こえた。
「いつ……会えるかなと思って」
責める口調にならないよう気を遣っているのがわかる。千尋だって会いたいのはやまやまだったが、またいつかのように、会って体を交えたはいいがその結果もっと苦しくなる、という事態を恐れた。
こんな不安を抱えたまま付き合い続けてどうするのかという思いが捨て切れない。浅葉のせいにしたくはないが、心が疲れていた。
(忙しいんでしょう、無理しないで)
思わず言ってしまいそうになり、口をつぐんだ。千尋が黙っていると、
「最近、どう? バイトとか、順調?」
苛立った様子もなく、いつも通りの落ち着いた声が問いかける。その声だけでわだかまりを融かしてしまう浅葉のことを、ずるいと思った。
天の邪鬼な自分の陰に隠れていた正直な感情が、一気に掘り起こされるのを感じた。話などしたくない。そんなことより黙って抱いて、と言ってしまいそうになる。
会えばやるだけ、という付き合い方はもともと軽蔑していたし、他ならぬ浅葉との関係がそんなところへ転落していくのは嫌だった。かといって、欲しくないふりをすることなど、もはやできそうにない。
浅葉への気持ちが全て愚かな肉欲に取って代わられたような気がし、千尋はそんな自分が憎かった。
いつまでも黙り込んでいる千尋のモヤモヤを察したかのように、浅葉が言った。
「ねえ、今どこ? 行っていい?」
車の中から掟破りの業務用携帯で電話している浅葉が目に浮かんだ。はっとするほどの深さを持った瞳が、恋人の姿を求めている……。想像の中の浅葉は、逆らい難い力で千尋の心を揺さぶった。
「図書館です。大学の」
「そっか。じゃあ、裏門でどう? 六時半には着く」
自分の中の醜い思いが、何事もなかったように発されたその言葉に洗われていくようだった。今なら素直になれそうな気がした。
「うん、待ってます」
時間を見計らい、資料を片付けて裏門に向かうと、街灯の下には既にその姿があった。
助手席のドアにもたれて立っていた浅葉は、門の先に千尋を見付けると足早に歩み寄った。何か言わなければ、と言葉を探した千尋を、迷いのない両腕が包み込む。忘れかけていた、ずっと恋しかった温もりが一気に押し寄せた。
千尋は全てを忘れてその胸にかじり付いていた。みるみる込み上げてくる涙をどうすることもできなかった。たかだか二ヶ月弱会えない程度のことに耐えられない女だと思われたくなかったが、隠すことすらできず、ただ子供のようにしゃくり上げた。
久々に見る浅葉は、圧倒的に大人だった。サークルの中では比較的落ち着いた雰囲気のある義則と比べても、ずっと。
職務を持ち、世のため人のため、時には命がけでそれを全うしている男が、休もうと思えばただ休んでもよいはずの貴重な時間を千尋のために割いて、今目の前にいる。
釣り合わない、と思った。私はあなたの気持ちに応えていない、と。あなたの日常を理解すらできていないし、支えるどころか掻き乱している。
ただ寂しいから、一緒にいてほしいから、癒してほしいから、甘えさせろと要求しているだけなのだ。それが果たして恋人のすることだろうか。
(なんで私のことなんか……)
理由がわかるぐらいなら苦労しないよ、という浅葉の苦笑が、千尋の涙をすり抜け、降り注ぐように蘇った。恋なんて、しなければよかった。されなければよかった。千尋は唇を噛んで、胸の痛みに耐えた。
ひとしきり泣き終えると、長いこと置き去りにされていた心と体の渇きが沸々と頭をもたげた。二人分の服の厚みが急に煩わしくなる。
ワイシャツの向こうに、浅葉の汗が感じられた。千尋は無意識のうちに、ボタンの間から手を滑り込ませていた。滑らかな胸が静かに脈打っている。
浅葉は、何かにけしかけられるように押し入ってきた千尋の手に動じることもなく、その全てを受け止めるようにそっと尋ねた。
「うち来る?」
違う、ただ傍にいてくれればいいの、と言おうとしたが、体の方が正直だった。千尋は、早る気持ちを抑え切れぬまま小さく二度頷いた。その頭を大きな手がぐるりと一周した。
「壁薄いから。お静かに願います」
と、千尋の口元に人差し指を当てる。浅葉らしい「セックス禁止令」解除宣言だった。
「でも、十時には出なきゃならない」
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