君の思い出

生津直

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第3章 蜜月

63 ダンス

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 ピアノとサックスの小気味よい掛け合いを奏でているのは、何世代か前のCDプレーヤーのように見えるが、音は悪くない。少し大きめの写真立てで、その年季の入った外観をうまく隠していた。

「この写真、自分で撮ったの?」

「うん。そんな写真ばっかり山ほどある」

 からっと晴れたビーチ。沖に向けて徐々に青が濃さを増す海と、熱そうな砂。抜けるような空。端にヤシの木が二本。

(西海岸、か……)

「行けたらいいね、いつか一緒に」

 そうだな、という何気ない一言を期待したが、返事がない。浅葉はしばらく壁をにらみ、その目を固く閉ざした。

(えっ……?)

 千尋は慌てて言った。

「もちろん……いいよ、別に行けなくたって。そんな……」

 マジにならなくても、と心の中で付け加えた。浅葉がこの仕事を続けている限り、そんな日はきっと来ないことぐらい、千尋だってわかっている。軽い気持ちでおよそ叶いそうもない夢を語ったことで、浅葉を深く傷付けてしまったのだろうか。

「ごめんね」

 千尋は努めて明るく言うと、からになりかけた二つのグラスにシャンパンを注ぎ足した。

 浅葉は片手で額を覆うようにして、こめかみをほぐしていた。あぐらをかいたスーツの膝に千尋がそっと手を触れると、浅葉はその手をぎゅっと握ってようやくまぶたを持ち上げた。

「ねえ、キスして」

 千尋はそう囁くと、肩を擦り寄せて露骨に甘えた。浅葉の気がれさえすればよかった。

 浅葉は目の前の水面に浮かぶ炎をゆっくりと順に吹き消した。部屋の隅に点々と残ったキャンドルが、それにつられたようにふわりと灯を揺らす。薄明かりの中、浅葉は指先で千尋の顎を撫でながらゆっくりといつくしむように距離を縮めた。

 千尋は、これが私のファーストキスではないかと錯覚していた。まず先に触れた額が左右に揺れて擦り合った。千尋が目を閉じると、浅葉はいつになくおずおずと唇を触れてきた。けだるいスローモーションがいつものペースを取り戻すまでにしばし時間を要した。

 ふと中断してシャンパンをぐいっと減らした浅葉には笑顔が戻っていた。千尋も自分のグラスをしっかりと傾ける。

 キスしてはシャンパンを飲み、飲んではまたキスした。BGMはいつしかボーカルが入った洋楽のバラードに変わっていた。六十年代とかその辺りのサウンドだろうか。

 浅葉がおもむろに立ち上がり、うやうやしく手を差し伸べた。千尋はその姿に見とれながら、こういう場面、映画で見たことある……と考えていた。僕と踊ってくれませんか、って……そう、大抵はハッピーエンド間際のワンシーン。

 そんなことを思いながら、どうやら自分がそのシーンを演ずるらしいという事実を頭の中で消化するのに数秒かかった。千尋はまごつきながらも、浅葉の手に自分の手を託し、その舞台へと踏み出す。

 浅葉は千尋の手の甲に口づけると、そろりと後ずさり、窓際へと千尋を導いた。浅葉の右手が千尋の肘に軽く触れ、背中に回った。千尋の左手はごく自然に浅葉の肩に乗り、いつの間にか立派なヒロインができ上がっていた。キャンドルの小さな炎に見守られながら浅葉に全てを委ね、この宇宙を漂う。

 何とも現実離れしたひとときだった。自分が観客でしかなかった時は、単にスローテンポの音楽をバックに男女が触れ合い、体を揺らすだけのことと思っていた。それがこんなにも美しく尊いものだったなんて……。

 今まで考えたこともなかった愛の形。目の前の浅葉の温かさが全てだった。この世から他の何もかもが消え去ってしまったかのような、かけがえのない時間と空間がそこに生まれていた。あなたと、私だけ。

 ずっと前にテレビで見た昔のハリウッド映画。その中で聞いたことのあるメロディが続く。千尋も英語は決して苦手ではない。ハスキーな声が南部なまりでつむぐその歌詞に耳を傾けた。

   ほら そこに 青い空
   そして白い雲
   輝かしい今日という日に
   清き闇夜が下りる
   こんな時、思うんだ
   この世はなんて素晴らしいんだ、と

(この曲って、こんな歌だったんだ……)

 今ここにこうしているだけで、この世はただただ美しい。そんな気がしてくる。

 千尋は左手を浅葉のうなじへと滑らせ、額をその胸に預けた。その瞬間、世界一愛情に満ちた腕に抱きすくめられる。右手は浅葉の手に包まれたまま、その甲は低く脈打つ温かい胸に触れていた。千尋はそこに頬を当て、浅葉の思いに耳を澄ました。
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