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第3章 蜜月
51 信頼
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ひとしきり泣いて少しすっきりすると、千尋は呼吸を整えて浅葉の顔を見た。その目に千尋のシルエットが映っていた。
浅葉はおもむろに口を開いた。
「狭い部屋で二人きりってのは、お前の時と同じだ。俺の権限では変えられない。ただ……」
浅葉は千尋の顔にかかった髪をそっとかき上げて囁く。
「一つのベッドで寝たりだって? 警察がそんなことしていいわけないだろ」
「えっ? だって、私の時……」
「半分貸してくれって言っただけだ。お前があんまり頑固だから」
(言っただけ……?)
そう言われてみれば、あの翌朝、携帯の画面をチェックしていた浅葉の足下には、いつも通りモスグリーンの寝袋が口を開けていたような気がしないでもない。
「でも、私は本気にしてたわけだから、坂口さんにチクらないって保証もないのに……」
坂口から、何か困ったことはなかったか、と聞かれた時に千尋がベッドの件を報告していたら、浅葉はやってもいないことで咎められていたはずだ。
「保証はないけど、確信があったからな。お前は絶対チクらないって」
「どうしてそんなこと言い切れるの?」
浅葉の眉がきゅっと上がった。
「俺がそんなに鈍い人間だと思うか?」
(あ……)
そうか。千尋には、浅葉の「違反行為」を告げ口しないだけの十分な動機があった。もちろん、それに気付かない浅葉ではない。
「ま、俺だって隣で寝たいのはやまやまだったけどな」
(え?)
浅葉は、疲労を湛えた視線をどこか遠くに投げた。
「実際にやらなきゃいいってもんじゃない。仕事に個人的な感情を持ち込むこと自体、本来あってはならないんだ」
千尋はその言葉を信じられない思いで聞いていた。浅葉はただの一度も、感情に流されているようには見えなかった。浅葉が見ている遠くの何かを捉えたくて、無駄とは知りつつ、千尋はその視線を追ってみる。
「少しでもお前のそばにいたかった。できることなら……触れていたかった」
千尋は、無性に切なくなった。
(あの時の浅葉さんにそんな気持ちがあったなんて……)
浅葉の目が、千尋に戻ってくる。
「正直しんどかった。俺の刑事人生の中の、辛い仕事第二位だ」
「そんなに……?」
と驚きながら、では一位は一体どんな仕事だったのだろうと千尋はしばし想像を巡らせた。
浅葉は額をこすってため息をつくと、覚悟を決めたようにまっすぐ千尋の目を見つめた。
「エッチな女の護衛というのは当たってる。風俗の女性は珍しくないけど、この人は仕事と関係なくやたら手が早いって有名らしい。毎日下着姿でうろうろされて、さすがに最初は気が散ったけどな。こっちは仕事だ。もう慣れた。脱皮したザリガニにしか見えない」
千尋はそれを聞いてつい笑い出した。不思議と安心感を覚えていた。見えない敵が姿を現してみると、大した脅威ではなかった。そんな感覚だった。
「千尋」
「はい」
「俺のこと、信じられるか?」
浅葉の両手が、千尋の肩をぎゅっとつかんでいた。
「大事なことなんだ」
真剣な目だった。確かに大事なことだと、千尋も思う。これからの自分たちにとって。
この人は、自分のことを信じられなくなった女性をこれまでに何度こうしてなだめてきたのだろう。それでも結局理解されずに失った恋だって、きっとあったに違いない。
「信じます……信じてます」
急に空いた二時間というのは、貴重な睡眠を取るためのものだったはず。そんな時にわざわざ外に出て千尋に電話をかけ、つれない対応に怒りもせず、こうして四十分も車を走らせて誤解を解きに来るというのは並大抵のことではない。
「さっき……ごめんなさい、変なこと言って」
浅葉は力ない笑顔を浮かべた。
「そりゃ、変なことも言いたくなるよな」
千尋はいたたまれなかった。自分の仕事の特性ゆえ千尋に我慢を強いていることは、浅葉も重々承知なのだ。千尋はそんな浅葉を力一杯抱き締めた。
その時、アラームが鳴った。浅葉は片腕で千尋を引き留めながらその音を止め、千尋の背中をさすりながら言った。
「いいか。ほんとに時間がない時は、無理するな。お前にも都合ってもんがある。俺はチャンスがあれば電話するけど、お前がたまたま出れなくてもそれはしょうがない。俺が会いたいと言っても、お前が忙しくて無理だったら、そう言ってくれればいい」
千尋は、浅葉の真摯な思いを受け止め、その疲れた目をまっすぐに見据えて言った。
「待ってますから」
ほんの一瞬唇を重ね、ほんの一瞬見つめ合って、それぞれ右と左に車を降りた。浅葉はそのまま運転席に移った。
ちょうど夕方のラッシュの時間帯に差しかかっていた。千尋は改札から溢れ出てくる人通りを避け、郵便ポストの脇から、浅葉の車の後ろ姿を見守る。
浅葉は、後ろから直線を飛ばしてくる車の流れが途切れるのを待っている。右のウィンカーがしばらく点滅し続け、ハンドルを握った左手の袖を右手がぐいと押し下げると、シルバーの腕時計がきらっと光った。
その直後、窓が開き、スーツの袖がにゅっと突き出したかと思うと、その手が屋根にちょんと乗せた赤色灯がけたたましく唸り始める。途端に行く手が開け、埃にまみれた車体は飛ぶように滑り出していった。
職権濫用ってやつだ、というあの日の浅葉の声が再び聞こえてくるような気がして、千尋は一人苦笑した。
浅葉はおもむろに口を開いた。
「狭い部屋で二人きりってのは、お前の時と同じだ。俺の権限では変えられない。ただ……」
浅葉は千尋の顔にかかった髪をそっとかき上げて囁く。
「一つのベッドで寝たりだって? 警察がそんなことしていいわけないだろ」
「えっ? だって、私の時……」
「半分貸してくれって言っただけだ。お前があんまり頑固だから」
(言っただけ……?)
そう言われてみれば、あの翌朝、携帯の画面をチェックしていた浅葉の足下には、いつも通りモスグリーンの寝袋が口を開けていたような気がしないでもない。
「でも、私は本気にしてたわけだから、坂口さんにチクらないって保証もないのに……」
坂口から、何か困ったことはなかったか、と聞かれた時に千尋がベッドの件を報告していたら、浅葉はやってもいないことで咎められていたはずだ。
「保証はないけど、確信があったからな。お前は絶対チクらないって」
「どうしてそんなこと言い切れるの?」
浅葉の眉がきゅっと上がった。
「俺がそんなに鈍い人間だと思うか?」
(あ……)
そうか。千尋には、浅葉の「違反行為」を告げ口しないだけの十分な動機があった。もちろん、それに気付かない浅葉ではない。
「ま、俺だって隣で寝たいのはやまやまだったけどな」
(え?)
浅葉は、疲労を湛えた視線をどこか遠くに投げた。
「実際にやらなきゃいいってもんじゃない。仕事に個人的な感情を持ち込むこと自体、本来あってはならないんだ」
千尋はその言葉を信じられない思いで聞いていた。浅葉はただの一度も、感情に流されているようには見えなかった。浅葉が見ている遠くの何かを捉えたくて、無駄とは知りつつ、千尋はその視線を追ってみる。
「少しでもお前のそばにいたかった。できることなら……触れていたかった」
千尋は、無性に切なくなった。
(あの時の浅葉さんにそんな気持ちがあったなんて……)
浅葉の目が、千尋に戻ってくる。
「正直しんどかった。俺の刑事人生の中の、辛い仕事第二位だ」
「そんなに……?」
と驚きながら、では一位は一体どんな仕事だったのだろうと千尋はしばし想像を巡らせた。
浅葉は額をこすってため息をつくと、覚悟を決めたようにまっすぐ千尋の目を見つめた。
「エッチな女の護衛というのは当たってる。風俗の女性は珍しくないけど、この人は仕事と関係なくやたら手が早いって有名らしい。毎日下着姿でうろうろされて、さすがに最初は気が散ったけどな。こっちは仕事だ。もう慣れた。脱皮したザリガニにしか見えない」
千尋はそれを聞いてつい笑い出した。不思議と安心感を覚えていた。見えない敵が姿を現してみると、大した脅威ではなかった。そんな感覚だった。
「千尋」
「はい」
「俺のこと、信じられるか?」
浅葉の両手が、千尋の肩をぎゅっとつかんでいた。
「大事なことなんだ」
真剣な目だった。確かに大事なことだと、千尋も思う。これからの自分たちにとって。
この人は、自分のことを信じられなくなった女性をこれまでに何度こうしてなだめてきたのだろう。それでも結局理解されずに失った恋だって、きっとあったに違いない。
「信じます……信じてます」
急に空いた二時間というのは、貴重な睡眠を取るためのものだったはず。そんな時にわざわざ外に出て千尋に電話をかけ、つれない対応に怒りもせず、こうして四十分も車を走らせて誤解を解きに来るというのは並大抵のことではない。
「さっき……ごめんなさい、変なこと言って」
浅葉は力ない笑顔を浮かべた。
「そりゃ、変なことも言いたくなるよな」
千尋はいたたまれなかった。自分の仕事の特性ゆえ千尋に我慢を強いていることは、浅葉も重々承知なのだ。千尋はそんな浅葉を力一杯抱き締めた。
その時、アラームが鳴った。浅葉は片腕で千尋を引き留めながらその音を止め、千尋の背中をさすりながら言った。
「いいか。ほんとに時間がない時は、無理するな。お前にも都合ってもんがある。俺はチャンスがあれば電話するけど、お前がたまたま出れなくてもそれはしょうがない。俺が会いたいと言っても、お前が忙しくて無理だったら、そう言ってくれればいい」
千尋は、浅葉の真摯な思いを受け止め、その疲れた目をまっすぐに見据えて言った。
「待ってますから」
ほんの一瞬唇を重ね、ほんの一瞬見つめ合って、それぞれ右と左に車を降りた。浅葉はそのまま運転席に移った。
ちょうど夕方のラッシュの時間帯に差しかかっていた。千尋は改札から溢れ出てくる人通りを避け、郵便ポストの脇から、浅葉の車の後ろ姿を見守る。
浅葉は、後ろから直線を飛ばしてくる車の流れが途切れるのを待っている。右のウィンカーがしばらく点滅し続け、ハンドルを握った左手の袖を右手がぐいと押し下げると、シルバーの腕時計がきらっと光った。
その直後、窓が開き、スーツの袖がにゅっと突き出したかと思うと、その手が屋根にちょんと乗せた赤色灯がけたたましく唸り始める。途端に行く手が開け、埃にまみれた車体は飛ぶように滑り出していった。
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