君の思い出

生津直

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第3章 蜜月

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 十二月十七日。千尋が夕食を終えて洗い物を済ませ、さてシャワーを浴びようかと思ったところに電話が鳴った。公衆電話からだ。

「もしもし」

「ああ、俺」

 そろそろ聞き慣れてきた声なのに、まだまだキュンとする。

「浅葉さん……」

「実はさ、急に一晩帰れることになって」

(一晩……)

 もちろん嬉しい。しかし。

「会える?」

(どうして今日に限って……)

 元気か、という電話は仕事の合間に何度かもらっていたが、会おうという話は先月のあのショッピングモール以来だった。

「ちょっと遅いかなとは思ったんだけど」

「あ、いえ、時間はいいんですけど……」

 あからさまに歯切れが悪くなる自分が恨めしい。

「あの、実は今、生理中で……」

 顔を見る前からそんなことを言うのもどうかとは思ったが、期待させても悪い。しかし浅葉はショックを受ける代わりに、どこか楽しげに言った。

「それは……エッチできません、ってこと?」

「ま、まあ、そう……ですね」

「それは残念だなあ」

 千尋は、できないなら会いたくない、と言ったかつての男のことを思い出す。タイミングの悪さをのろいながら、ごめんね、と言いかけた時、浅葉が続けた。

「で、泊めてくれたりはする……の?」

「え? あ……はい、もちろんです。あの、来てください」

「一時間まではかかんないけど、それでも十二時になっちゃうな。大丈夫?」

「大丈夫です、いつでも。私も今からお風呂ですから、ゆっくりどうぞ。気を付けて」

「ああ、ありがと」

「じゃ」

「あ、鍵は掛けとけよ。着いたらピンポンすっからさ」

「はーい」

 浅葉に会える、しかもこの部屋に来るのだと思うだけで、何も手に付かなくなりそうだ。

 しばらくぼんやりした後、恋ってすごい、と結論を出す。気を取り直し、散らかっていたものをざっと片付け、シャワーを浴びた。



 髪を乾かし終え、明日の授業の支度をしていると、ピンポーン、と呼び鈴が鳴った。のぞき穴からこちらを覗くふりをしている浅葉が見える。千尋はドアを開けてささやいた。

「警察呼びますよっ」

「それだけは勘弁」

と、浅葉は千尋に腕を回す。ドアが閉まるのも待ち切れずに、唇が触れていた。

 玄関に立ったまま、固く抱き合った。一瞬の間もはさみたくなかった。ただ互いの呼吸と鼓動だけを聞いていた。

 ひとしきり抱き合って少し落ち着くと、今度は顔が見たくなった。えりを立てたダークグレーのコートが、浅葉のシャープなあごの線を引き立てている。見ていると唇を触れたくなり、顔を見合わせてはキスをして、いつまでも玄関先でじゃれ合った。

(このまま朝になっちゃったりして)

 何だか急におかしくなって千尋が笑い出すと、浅葉も笑った。不意に千尋の肩をつまみ、全身を見下ろす。

「いいね」

 千尋のいつもの部屋着の一つ。薄グレーのスウェットの上下だ。そういえばあの部屋では、刑事さんの目に触れるわけだからと一応格好つけて、明るめの色や柄の入ったものを着ていたんだっけ……。

「あれ、なんかいい匂いしない?」

「ん?」

石鹸せっけん?)

「タレっぽい感じの」

(あ、そっちか。さっき冷蔵庫に入れたばっかりだから……)

「もしかしてご飯まだ?」

「うーん、まだっていうか……最近いつ食べたっけ?」

「ちょっと、何とかなりません? その生活」

「いや、いずれ食うからいいんだ。心配すんな。こんな時間に食わせろとか言わないから」

「でも、チンするだけだし。とり生姜しょうが焼き。食べる?」

「んー」

(ほら、やっぱり食べたい顔してる)

「ひじきご飯と豆腐のお味噌汁は一昨日おとといのですけど」

 浅葉の目があからさまに輝き出す。千尋は有無を言わせず、食べさせるための支度に取りかかった。

 付け合わせのブロッコリーは残っていたが、ニンジンのグラッセは我ながら上出来でつい全部食べてしまったのを思い出す。仕方ないので代わりにミニトマトを添えた。

 千尋の背後にぴったりと張り付き、興味津津しんしんといった顔で眺める浅葉を、リビングの折り畳み式テーブルの前に座らせる。

 温めた料理をひと通り運び終え、子供みたいに目をキラキラさせた浅葉の頬を撫でてやる。

「どうぞ、召し上がれ」

「いただきまーす」

 千尋がキッチンに戻り、麦茶をグラスに注いでいると、

「うんめー、何これ」

と声がした。

「おいしい? よかった」

 千尋は麦茶をテーブルに置いてやり、パソコン用デスクの回転椅子に腰を下ろした。

「お前すげーな。シェフだな」

「やめてよ。来るってわかってたらもっと腕振るったのに」

 浅葉はあっという間に全てを綺麗に平らげた。

「あー、幸せ。ごちそうさま」

「ねえ、お願いだから普段からもっとちゃんと食べて」

 千尋は見事にからっぽになった皿を下げ、キッチンを片付け始める。

「ね、これ食っていい?」

と浅葉が目ざとく見付けたのは、デスクの上で蓋が開いたままのクッキーの缶。

「うん、食べて。どうせ私だけじゃ食べ切れないし。昨日お母さんから届いたの」

「へえ」

「実家に置いてきた冬物送ってくれてね。お菓子はそのおまけ」

 宅配便で何か送ってくれるついでに、千尋の好きな焼き菓子やらチョコレートやらをデパ地下で見付けては一緒に入れてくれる。

「母さん元気?」

「うん。もうそれだけがって感じ」

 母は目立った病気がないどころか、仕事に趣味にとアクティブな日々を過ごしている。

「親父さんからは連絡ないのか?」

 どうしてそれを……と聞きかけて、すぐに気付く。公務で護衛していた元参考人の千尋に関して、浅葉が知らないことなどきっとほとんどないだろう。
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