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第3章 蜜月
37 束の間の休息
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十一月十三日。木曜の晩のファミレス。先輩が慌てた様子で走ってくる。
「おい、七番にシルバーないじゃん。おい、田辺」
「あ、はい」
「七番、シルバー。早く。もう料理出ちゃったよ」
「あ、すみません」
千尋はナイフやフォークの入った籠を手に、七番テーブルへと急いだ。中年女性の二人組が、困り顔で目一杯手を挙げて注意を引こうとしている。
「申し訳ございません。大変お待たせいたしました」
「はい、どうも」
女性たちはすぐに自分たちのおしゃべりへと戻っていく。
(よかった。嫌みの一つも言われるかと思った)
このファミレスでのバイトはもうかれこれ一年になる。最初の頃と比べるとさすがに失敗は減っていたが、このところぽろぽろとミスが続いていた。
(いけないいけない。集中しなきゃ)
次はいつ浅葉に会えるのだろうと、そればかり考えていた。
温泉から一週間ほど経った頃、一度あのプライベートの携帯に電話してみたが、やはり繋がらない。
翌日に浅葉から電話があり、この携帯を持ち歩くことは難しく、家に置きっぱなしなのだと聞いた。メールも個人用を見るのは帰宅時だけだという。
業務用の携帯番号やメールアドレスは私用厳禁とのことで、会社員とは訳が違うのだと改めて思い知らされた。
家に帰れるような時には、千尋からの着信などなくても浅葉の方から電話をくれるだろうし、そう考えると千尋から連絡を取る手段はないに等しかった。
帰宅したからといって丸一日休みということはまずなさそうで、ちょっとした寝溜め、食い溜めだけ済ませたら半日後にはまた仕事に戻っているらしい。
十一月二十三日。小雨が降る日曜の午後、千尋の携帯が鳴った。公衆電話からだ。
「もしもし」
「千尋」
「やっぱり」
声を聞くだけでつい顔がほころんでしまう。
「ちょっと急に時間が空いてさ。どうしてるかなと思って」
「今、買い物してます」
「買い物?」
「八重ヶ浦のビオレッタモールで。でも、急ぐものじゃないんで、行きます、どこでも」
浅葉に会えるのならどこでもいい、と思った。
「いや、俺がそっちに行くよ。道がちょっと混んでそうだけど、四十分もあれば」
「そうですか。じゃ、待ってます。着いたら電話くださいね」
もう買い物どころではない。スキップしそうになるのを何とか抑え、ジャケット半額コーナーを物色するふりをしながら千尋は一人ニヤけていた。
それにもいよいよ飽きてモールの中をぶらぶらしていると、雑踏の中、目を引くものがあった。のんびりと買い物や食べ歩きを楽しむ群れの中、頭一つ分飛び出し、駆け足でやってくる男はあまりに目立つ。
「お待たせ」
「よくわかりましたね、ここ」
三階建ての大型ショッピングセンターで、日曜の午後だけに混雑してもいた。着いたら電話してと言ったのに……と思いながら、そういえばプライベートの携帯は持ち歩いていないし、業務用は私用には使えないのだと気付く。
浅葉は返事の代わりに、ぎゅっと千尋を抱き締めた。待ちに待った浅葉の胸はこの一ヶ月思い描き続けた以上に愛おしく、千尋はその中でとろけそうになる。
「何、買い物って……服?」
「恋をすると、おしゃれしたくなるんです」
「ほう」
「でも、自分の好みだけで選ぶと、結構いつも決まった感じになっちゃって」
浅葉は、紺のセーターにモノトーンのチェック柄スカート、ベージュのオータムコートという今日の千尋のファッションを改めて眺めた。
「決まった感じでも、十分キマッてると思うけどね」
「でも、たまーにちょっと冒険してみると、意外と似合うとか言われちゃったりして」
「冒険?」
「ほら、私普段スカートが多いけど、学園祭のイベントでパンツスーツに挑戦してみたら結構評判良かったりとか。あと、普段青系が多いところに、ある日突然ピンクとか」
千尋はちょうど目の前にあったピンクのカーディガンを手にとって眺めた。
「うーん、なんかでも、買ったけど全然着ないってパターンになりそう」
と、隣の店に向かう。
「開拓したいんです。ね、どういうのが似合いそうか、考えてよ」
「どういうのが、ねえ……」
と、千尋の立ち姿に目をやった浅葉が、ふと何かを懐かしむかのような微笑を浮かべる。
「何か閃きました?」
「ん? いや、ほら、似合うといったら、あの……露天風呂入ってた時のファッション」
「……って、裸じゃない。変態!」
「何言ってんだ、最も健康的な感覚だろ」
千尋はわざと大きくため息をついた。
「今日はもういいです。なんか、買い物モードじゃないみたい。場所変えましょっか」
と、歩きだした瞬間、目まいがした。立ち止まり、手の甲で額を押さえる。
「どうした? 具合悪い?」
「ちょっと……目まいが」
手足が震える感覚。背中からくる妙な吐き気。いつものあれだ。
「あそこ、座ろっか」
浅葉は少し先にあったベンチを指し、千尋の肩を抱いてゆっくりとエスコートする。
並んで腰を下ろし、千尋はぎゅっと目をつぶった。
「時々あるんです。一時的に低血糖状態になるみたいで。普段はブドウ糖持ち歩いてるんだけど、今日はバッグ変えちゃったから……」
浅葉はジャケットの内ポケットを探ると、小さな包みを一つ取りだした。
「あ……」
「お探しですか? ブドウ糖」
と手渡されたのは、よく見慣れた個包装の丸いタブレットだ。
「まさか、それも私の『ファイル』にある情報? ケーサツって怖ーい」
と白い目を向けながら、袋を開けて口に放り込む。
「そんなわけないだろ。俺もなるんだ、たまに。何か飲む? 買ってくる」
千尋の頭に大きな手がぽんと乗ったかと思うと、浅葉はもう軽やかに走り出していた。
「おい、七番にシルバーないじゃん。おい、田辺」
「あ、はい」
「七番、シルバー。早く。もう料理出ちゃったよ」
「あ、すみません」
千尋はナイフやフォークの入った籠を手に、七番テーブルへと急いだ。中年女性の二人組が、困り顔で目一杯手を挙げて注意を引こうとしている。
「申し訳ございません。大変お待たせいたしました」
「はい、どうも」
女性たちはすぐに自分たちのおしゃべりへと戻っていく。
(よかった。嫌みの一つも言われるかと思った)
このファミレスでのバイトはもうかれこれ一年になる。最初の頃と比べるとさすがに失敗は減っていたが、このところぽろぽろとミスが続いていた。
(いけないいけない。集中しなきゃ)
次はいつ浅葉に会えるのだろうと、そればかり考えていた。
温泉から一週間ほど経った頃、一度あのプライベートの携帯に電話してみたが、やはり繋がらない。
翌日に浅葉から電話があり、この携帯を持ち歩くことは難しく、家に置きっぱなしなのだと聞いた。メールも個人用を見るのは帰宅時だけだという。
業務用の携帯番号やメールアドレスは私用厳禁とのことで、会社員とは訳が違うのだと改めて思い知らされた。
家に帰れるような時には、千尋からの着信などなくても浅葉の方から電話をくれるだろうし、そう考えると千尋から連絡を取る手段はないに等しかった。
帰宅したからといって丸一日休みということはまずなさそうで、ちょっとした寝溜め、食い溜めだけ済ませたら半日後にはまた仕事に戻っているらしい。
十一月二十三日。小雨が降る日曜の午後、千尋の携帯が鳴った。公衆電話からだ。
「もしもし」
「千尋」
「やっぱり」
声を聞くだけでつい顔がほころんでしまう。
「ちょっと急に時間が空いてさ。どうしてるかなと思って」
「今、買い物してます」
「買い物?」
「八重ヶ浦のビオレッタモールで。でも、急ぐものじゃないんで、行きます、どこでも」
浅葉に会えるのならどこでもいい、と思った。
「いや、俺がそっちに行くよ。道がちょっと混んでそうだけど、四十分もあれば」
「そうですか。じゃ、待ってます。着いたら電話くださいね」
もう買い物どころではない。スキップしそうになるのを何とか抑え、ジャケット半額コーナーを物色するふりをしながら千尋は一人ニヤけていた。
それにもいよいよ飽きてモールの中をぶらぶらしていると、雑踏の中、目を引くものがあった。のんびりと買い物や食べ歩きを楽しむ群れの中、頭一つ分飛び出し、駆け足でやってくる男はあまりに目立つ。
「お待たせ」
「よくわかりましたね、ここ」
三階建ての大型ショッピングセンターで、日曜の午後だけに混雑してもいた。着いたら電話してと言ったのに……と思いながら、そういえばプライベートの携帯は持ち歩いていないし、業務用は私用には使えないのだと気付く。
浅葉は返事の代わりに、ぎゅっと千尋を抱き締めた。待ちに待った浅葉の胸はこの一ヶ月思い描き続けた以上に愛おしく、千尋はその中でとろけそうになる。
「何、買い物って……服?」
「恋をすると、おしゃれしたくなるんです」
「ほう」
「でも、自分の好みだけで選ぶと、結構いつも決まった感じになっちゃって」
浅葉は、紺のセーターにモノトーンのチェック柄スカート、ベージュのオータムコートという今日の千尋のファッションを改めて眺めた。
「決まった感じでも、十分キマッてると思うけどね」
「でも、たまーにちょっと冒険してみると、意外と似合うとか言われちゃったりして」
「冒険?」
「ほら、私普段スカートが多いけど、学園祭のイベントでパンツスーツに挑戦してみたら結構評判良かったりとか。あと、普段青系が多いところに、ある日突然ピンクとか」
千尋はちょうど目の前にあったピンクのカーディガンを手にとって眺めた。
「うーん、なんかでも、買ったけど全然着ないってパターンになりそう」
と、隣の店に向かう。
「開拓したいんです。ね、どういうのが似合いそうか、考えてよ」
「どういうのが、ねえ……」
と、千尋の立ち姿に目をやった浅葉が、ふと何かを懐かしむかのような微笑を浮かべる。
「何か閃きました?」
「ん? いや、ほら、似合うといったら、あの……露天風呂入ってた時のファッション」
「……って、裸じゃない。変態!」
「何言ってんだ、最も健康的な感覚だろ」
千尋はわざと大きくため息をついた。
「今日はもういいです。なんか、買い物モードじゃないみたい。場所変えましょっか」
と、歩きだした瞬間、目まいがした。立ち止まり、手の甲で額を押さえる。
「どうした? 具合悪い?」
「ちょっと……目まいが」
手足が震える感覚。背中からくる妙な吐き気。いつものあれだ。
「あそこ、座ろっか」
浅葉は少し先にあったベンチを指し、千尋の肩を抱いてゆっくりとエスコートする。
並んで腰を下ろし、千尋はぎゅっと目をつぶった。
「時々あるんです。一時的に低血糖状態になるみたいで。普段はブドウ糖持ち歩いてるんだけど、今日はバッグ変えちゃったから……」
浅葉はジャケットの内ポケットを探ると、小さな包みを一つ取りだした。
「あ……」
「お探しですか? ブドウ糖」
と手渡されたのは、よく見慣れた個包装の丸いタブレットだ。
「まさか、それも私の『ファイル』にある情報? ケーサツって怖ーい」
と白い目を向けながら、袋を開けて口に放り込む。
「そんなわけないだろ。俺もなるんだ、たまに。何か飲む? 買ってくる」
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