君の思い出

生津直

文字の大きさ
上 下
36 / 92
第3章 蜜月

36 帰宅

しおりを挟む
 七時になり、浴衣ゆかたを着て朝食に向かうと、あの仲居がにこやかに出迎えた。

 浅葉との事の前後を目撃されてしまったような気になり、千尋は何だか彼女と目を合わせにくかった。ゆっくりお休みになれましたか、などと尋ねられようものなら、顔を赤らめてしまっていたに違いない。無用なサービスはせず、極力邪魔をしないという彼女の姿勢はありがたかった。

 昨晩と同じ席に座りながら、あの時はやっぱりまだ浅葉とは他人同士だったと感じる。それが今は、見つめ合っているだけで互いの思いが感じ取れるような気がした。熱い夜を過ごしたはずなのに、一方ではすっかり気心の知れた家族のような心地がする。あんなに遠く感じられた浅葉と固く結ばれた喜びを、千尋は噛み締めた。



 帰り支度を整え、部屋を出る。最後にもう一度振り返ると、この空間は浅葉との甘い一夜の余韻に満ちていた。

 フロントでチェックアウトする段になって、千尋は慌てて財布を取り出した。浅葉はそれに気付くと、千尋の手から財布自体をひょいと取り上げて脇に挟み、自分の財布からカードを出した。金額はカウンターに置かれた紙に書いてあるのだろうが、千尋の位置からは見えず、例の仲居はそれを口にしなかった。よくできた仲居だ。

 浅葉はカードを受け取った後、いわゆるポチ袋を渡していた。噂に聞く心付けというものだろう。いや、饅頭代と呼ぶべきか。

 浅葉は財布を返したついでに、その手で千尋の髪をすっと撫でた。

 外まで出てきた仲居に見送られて宿を後にする。下の温泉街で車を停め、少し散歩して帰ることにした。

 こちらに並ぶ旅館には結構人が入っているような気配だ。外観や雰囲気を比べても、坂の上のあの宿はもしかしたら別格にお高いのではないだろうか。

(しかもお部屋に露天付き……)

 半分出します、と言ったところで、千尋の月々の交際費ぐらいではおそらく足りなかっただろう。



 帰りの道はいていた。高速に乗ってすぐに、浅葉の電話が鳴る。先日聞いたアラームのビープ音ではなく、黒電話風の着信音だ。

「ちょっとそこ開けて」

と、浅葉は助手席の前の収納スぺ―スを指差す。

「はい」

 大きなヘッドホンが一つ、ごろっと入っている。

「それ、しててもらっていい? 耳栓代わり」

「あ、はい」

 千尋は急いでそのヘッドホンを着けた。密閉型なのだろう。音が鳴っていなくてもかなりの防音効果があるようだ。浅葉は車に付いているハンズフリーで電話に出たらしい。話し声はうっすらと聞こえるが、なるべく聞かないようにと窓の外に目をやる。

 しばらくすると、浅葉がヘッドホンの右耳側を引っ張った。

「もういいよ。ごめんね」

 千尋はヘッドホンを外し、元の場所に戻す。

「早く来いって電話。でも大して深刻な話じゃないから、普通に帰ってからで大丈夫」

「大丈夫じゃない時は?」

「そしたらもっと飛ばすしかないな。まあ、居場所は言ってあるから、着くまでは俺がいなけりゃいないなりにやってもらうだけ」

(そっか……)

 休暇中の行き先も報告して出かけなければならず、そこに呼び出しが来ることもあり得るのだろう。電話が鳴ったのが帰り道で本当によかった。



 千尋のアパートの前に着く。休暇の終わりをしぶしぶ受け入れながら千尋が車を降りると、浅葉は既に後部座席にあった千尋の荷物を手にしていた。それを手渡すと、

「あ、千尋」

と、今度はトランクの方へ走っていく。

「忘れもん」

 取り出したのは、あの饅頭の箱。

「いいんですか、もらっちゃって」

「お前一箱、俺二箱。平等だろ」

 はははっ、と二人の笑い声が住宅街に響く。

「じゃ、戸締まり気を付けろよ」

 行きかけて、ぱっと戻ってくると、千尋の頬に手を添えて素早くキスした。

「また電話する」

 運転席に戻った浅葉は、慌ただしくアクセルを踏んだ。

(忙しい人……)

 そう思いながらも、千尋は笑顔にさせられていた。唐突に千尋を千尋と呼んだことにも、浅葉自身は気付いてすらいないようだった。

 あの宿に泊まるのは、浅葉にとっては初めてのことではなかっただろう。日程が決まった時点で「いいとこがある」と言っていたぐらいだし、大量の饅頭が何よりの証拠。

 定宿じょうやどという言葉を思い浮かべてしまうと複雑な気持ちにはなるが、もしかしたら仕事で行ったのかもしれない。

 それに、もし女と行ったのだとしても、ねたむ気持ちは湧かなかった。三十を過ぎてあの美貌で女性経験がない方が不思議だし、過去は過去。千尋自身にだって過去の恋人というものがいないわけではないから、お互い様だ。

 浅葉が初めての宿でないことを隠しもせず、殊更ことさらに見せつけもしなかったことには非常に好感が持てた。

しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

隠れドS上司をうっかり襲ったら、独占愛で縛られました

加地アヤメ
恋愛
商品企画部で働く三十歳の春陽は、周囲の怒涛の結婚ラッシュに財布と心を痛める日々。結婚相手どころか何年も恋人すらいない自分は、このまま一生独り身かも――と盛大に凹んでいたある日、酔った勢いでクールな上司・千木良を押し倒してしまった!? 幸か不幸か何も覚えていない春陽に、全てなかったことにしてくれた千木良。だけど、不意打ちのように甘やかしてくる彼の思わせぶりな言動に、どうしようもなく心と体が疼いてしまい……。「どうやら私は、かなり独占欲が強い、嫉妬深い男のようだよ」クールな隠れドS上司をうっかりその気にさせてしまったアラサー女子の、甘すぎる受難!

アイドルグループの裏の顔 新人アイドルの洗礼

甲乙夫
恋愛
清純な新人アイドルが、先輩アイドルから、強引に性的な責めを受ける話です。

淫らに、咲き乱れる

あるまん
恋愛
軽蔑してた、筈なのに。

野獣御曹司から執着溺愛されちゃいました

鳴宮鶉子
恋愛
野獣御曹司から執着溺愛されちゃいました

イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?

すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。 「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」 家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。 「私は母親じゃない・・・!」 そう言って家を飛び出した。 夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。 「何があった?送ってく。」 それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。 「俺と・・・結婚してほしい。」 「!?」 突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。 かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。 そんな彼に、私は想いを返したい。 「俺に・・・全てを見せて。」 苦手意識の強かった『営み』。 彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。 「いあぁぁぁっ・・!!」 「感じやすいんだな・・・。」 ※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。 ※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。 それではお楽しみください。すずなり。

幸せの見つけ方〜幼馴染は御曹司〜

葉月 まい
恋愛
近すぎて遠い存在 一緒にいるのに 言えない言葉 すれ違い、通り過ぎる二人の想いは いつか重なるのだろうか… 心に秘めた想いを いつか伝えてもいいのだろうか… 遠回りする幼馴染二人の恋の行方は? 幼い頃からいつも一緒にいた 幼馴染の朱里と瑛。 瑛は自分の辛い境遇に巻き込むまいと、 朱里を遠ざけようとする。 そうとは知らず、朱里は寂しさを抱えて… ・*:.。. ♡ 登場人物 ♡.。.:*・ 栗田 朱里(21歳)… 大学生 桐生 瑛(21歳)… 大学生 桐生ホールディングス 御曹司

辣腕同期が終業後に淫獣になって襲ってきます

鳴宮鶉子
恋愛
辣腕同期が終業後に淫獣になって襲ってきます

イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?

すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。 翔馬「俺、チャーハン。」 宏斗「俺もー。」 航平「俺、から揚げつけてー。」 優弥「俺はスープ付き。」 みんなガタイがよく、男前。 ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」 慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。 終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。 ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」 保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。 私は子供と一緒に・・・暮らしてる。 ーーーーーーーーーーーーーーーー 翔馬「おいおい嘘だろ?」 宏斗「子供・・・いたんだ・・。」 航平「いくつん時の子だよ・・・・。」 優弥「マジか・・・。」 消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。 太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。 「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」 「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」 ※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。 ※感想やコメントは受け付けることができません。 メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。 楽しんでいただけたら嬉しく思います。

処理中です...