君の思い出

生津直

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第3章 蜜月

35 夜明け

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 千尋はふと目を覚ました。目の前では浅葉が手枕で千尋を見つめている。目が合うと、その顔に笑みが浮かんだ。

「おはよ」

 低くささやかれ、千尋もたっぷり照れながら「おはよ」と返す。どれぐらい眠っていたのだろう。遠くに鳥の声が聞こえた。

「少しは寝れました?」

「うん。まとめてこんなに寝たの久しぶり」

「こんなにって、まだ真っ暗ですけど」

「三時間超えると、もう寝れないんだよね」

「よくもちますね」

「十五分ずつ十回寝るとか、そういう方が得意かな」

「……変な人」

 くすくす笑う千尋のほおを大きな手が包み、反対側の頬に唇が触れた。

 浅葉はおもむろに立ち上がると、冷蔵庫からよく冷えたペットボトルを出してきて千尋に渡す。濃いめの緑茶だった。

「こいつが一番合う」

と座卓の上から取り上げたのは、例の饅頭だ。八個入りの、どうやら二箱目。それも既に残り四つ。

 浅葉は個包装のセロファンを剥がし、ちょいと持ち上げてみせる。千尋は、母鳥に餌をねだるひなのように黙って口を開けた。浅葉の手からそれを半分かじり、断面を見る。

餡子あんこがどう考えても少ないだろ? けど、そこがいいんだよな」

 確かに、おいしいのは餡よりも、つやのある黒糖色の皮の方だった。

「うん、おいし」

 残りを催促しようとしたが、それはとっくに浅葉の口の中に消えていた。千尋は、ふと思い立って言った。

「ね、お風呂入りません? それ、持ってきて」

と饅頭を指差し、ベランダに出る。辺りはまだ暗い。昨日の晴天のせいか、外はかなり冷え込んでいた。

 手桶ておけで慌ただしく湯をすくい、体を流す。

「普通、風呂は飲食禁止だぞ」

 そう言いながらも饅頭の箱とお茶のボトルを抱え、新しいバスタオルを持った全裸の浅葉が現れた。椅子にそれらがごろっと置かれたところを見計らって、千尋はその尻に桶の湯をざばっと浴びせる。

「あちっ」

「しーっ。みんな寝てますから」

「どうせ婆さんたちだろ。とっくに起きて風呂入ってるよ」

「あ、そっか」

 二杯目をすくって、今度は首からちょろちょろとかけてやる。

「うん、いい湯だ」

と満足そうにうなずくと、浅葉は饅頭を丸ごと一つ口に押し込み、湯船に足を踏み入れた。

「これ、一口サイズじゃないですから」

とたしなめるように言いながら、千尋は新しく封を開けて半分だけかじり、差し伸べられた浅葉の手を取って後に続いた。並んで湯の中に腰を下ろし、石の浴槽にもたれる。

 一夜すらまだ明け切っていない同じ風呂だが、今度は千尋の腰に浅葉の腕があった。千尋もごく自然に浅葉の膝に手をかけ、肩に頬を乗せていた。二人でわずかな街の明かりを見下ろし、忍び寄る夜明けに耳を澄ます。

 千尋は湯の中でうとうとしかけていた。カラスがカアーと鳴いた。二羽連れ立って飛ぶ姿が目の端に映る。

 千尋は目をこすり、

「なんか……」

「ん?」

「後引きますね、これ」

 千尋は膝立ちで湯船を横切ると、縁から身を乗り出し、椅子の上の箱に半分残った饅頭に手を伸ばした。特に狙ったつもりはなかったが、その「サービスショット」に浅葉の熱い視線を感じる。饅頭を頬張り、お茶のふたを開けながら振り向くと、

「お前、こぼすなよ。俺が怒られんだからな」

と言いながらも、浅葉の目はまだ千尋の体を注視していた。

 いつの間にか左手の空がだいぶ明るくなっていた。さほど高さのない山が連なり、深い緑にうっすら赤とオレンジが混じっている。手前には民家らしき屋根がまばらに見え、明かりのいくつかは既に消えていた。

 浅葉とこんなにゆっくり過ごせる休暇など、そうそうないだろう。今日も午後からは仕事のはず。この希少なチャンスを逃さず、ほぼ最初のデートにして強引な賭けに出た浅葉と、戸惑いながらもそれを承諾した自分に、千尋は感謝していた。

 浅葉も似たようなことを考えていたに違いない。不意にひたい同士をぺたっとくっつけた。ずっとこうしていられたら……と、お互い思っていることはわかる。ただ、口にしてはいけないような気がした。出たり入ったりを繰り返し、山の向こうから昇る朝日を二人で浴びた。
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