君の思い出

生津直

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第3章 蜜月

31 裸身

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 その時、ガチャリ、と鍵の回る音がした。千尋は慌ててしっかり肩まで浸かり直す。

 部屋の隅に追いやられた座卓に鍵を置き、冷蔵庫を開けているらしき音がする。畳を踏む裸足の足音に続き、コンコンコン、とガラスを叩く音。ちらっと見やると、浴衣の後ろ姿が右手にペットボトルの水を二本抱えている。

「あ、どうぞ」

 返事をしながら、千尋は背を向けて湯の中で膝を抱えた。カラカラと戸が開く。

「どう、湯加減は?」

「いいですよ。大浴場よりはちょっとぬるめかも」

 風呂の縁に水のボトルが置かれたのが目に入る。浅葉は戸を開けたまま部屋の中に戻ったようだ。

 すぐに、シュッと帯を解く音がした。何秒もしないうちに戸が閉まり、おけの湯がざぶっと簀子すのこに落ちるのが聞こえる。湯のおもてがちゃぷんと鳴り、静かに揺れた。

 突然、頬に冷たいものが触れた。きゃっ、と振り向くと、湯の中に座り込んだ浅葉が三歩先から手を伸ばし、先ほどの水を差し出していた。また悪ガキの顔をしている。ボトルを受け取りながら、千尋はその顔にパシャッと湯をかけた。

 水を飲みながら、また外に目をやる。しかし景色を見ていても、隣の浅葉のことばかりが気になって仕方ない。よく考えれば、この至近距離でお互い全裸。同じ部屋で過ごすことにはさすがに免疫ができていたが、同じ風呂の中となると話は別だ。

「結構熱いな。お前大丈夫なの、ずっと入ってて」

「うん、もう少し」

 先に涼んでおいてよかった、と思いながら、千尋は湯の中でちょっと伸びをした。

「俺ちょっと休憩」

 浅葉はざばっと湯から上がり、ベランダの隅に付いているシャワーを浴び始めたらしい。間もなくその水音が止まると、湯船の脇にあった椅子を引く音がした。千尋はそれを背後に聞きながら、また星空を見上げる。

「綺麗ですね」

「ほんとだな」

 低い声が答える。

「静かですね」

と千尋が何気なく振り返ると、浅葉は星などどうでもいいといわんばかりにじっと千尋を見ていた。薄い浴用タオルを申し訳程度に腰周りに巻いただけの男の肢体につい目が行く。

 もともとどちらかというと華奢きゃしゃな体に、戦うために敢えて付けたとでもいうように、無駄のない筋肉が乗っている。さほど厚みがない割に密度を感じさせる胸。例の銃弾の跡は、見た目にはほとんどわからない程度に薄くなっていた。あまりじろじろ見るのも気が引けて、千尋は水面に視線を落とした。

「浅葉さん、さすがに引き締まってますね。やっぱり、鍛えてますもんね」

「まあ、あんまりぷよぷよだと仕事になんないからな」

「肉体美、って感じ」

「いや、それは褒めすぎ」

と、浅葉は笑って水を飲んだ。

 これほど美しい肉体を間近に見てしまい、しかも触れたければいつでも触れてよいのだと思うと、千尋は何だか気後きおくれしてしまった。

「私はそういう……自信とか、ないですから」

 湯の中に一層深く体を沈めた。浅葉に背を向けていることはわかっていたが、控え目な胸を両膝で何となくおおう。

「自分の体に自信ある奴なんかそうそういないって。俺もいろいろコンプレックスあるし」

「例えば?」

「うーん、毛が薄いよね。腕とかスネとか。髭もあんま伸びないし。高校ん時、女みたいとか言われてすげーヘコんだ。胸毛ある友達とか羨ましかったなあ」

 千尋はつい笑みを浮かべた。

「そんなこと……」

「そ、所詮『そんなこと』だ」

 肩越しに浅葉を見る。

「いいじゃん、お互いこのままで」

 関係の進展をかすためのセリフではない、と千尋は思った。何か強いものに支えられた本心であることは、その目を見れば疑いようがなかった。

(この人、私のこと好きだ……)

 こんな目で見つめられたことはかつてない。どんな言葉で好きと言われるよりも、はるかに明瞭だった。これまで千尋に思いを告げてきた男たちは、実は千尋のことなど好きでも何でもなかったのではないかという気さえしてくる。

「そうですね」

 心がけてゆく気がした。

「なんか……」

「ん?」

「よかった、私。浅葉さんに出会えて。こうして、今一緒にいることができて」

 浅葉は、長いことじっと千尋を見、きゅっと長い瞬きを一つすると、

「のぼせないうちに上がれよ」

と立ち上がり、部屋の中に消えていった。そういえば、熱さなどすっかり忘れていた。

 千尋は一呼吸おいて湯船から出ると、ぬるめの上がり湯をかけ、ガラス戸の向こうの後ろ姿を気にしつつ、火照ほてった体にバスタオルを巻いた。
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