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第3章 蜜月
29 夜空
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二人で食事処を出て部屋に向かいかけたが、千尋はふと、露天風呂から半分だけ見えた星空を思い出した。
「ね、ちょっと外歩きません?」
「大丈夫か? 冷えない?」
「そのための部屋風呂ですから」
酔った勢いもあってかそう言ってはみたものの、果たして入る勇気があるのかどうか自分でもわからない。
茶羽織を羽織り、木のサンダルを突っかけて外に出ると、ほろ酔いの肌に夜風が心地良かった。浅葉はまるで当然とでもいうように、千尋の左手をさっと取って歩き出す。そういえば、一緒に温泉にまで来ていながら、手を繋ぐことすら初めてだった。
甘いものが好きだとは決して認めないくせに、肉体的な接触に関してはつくづくためらいがない。千尋は、そんな浅葉に一層惹かれていく自分を感じる。
渓流沿いに坂を上ると、川の流れは勢いを増した。宿の明かりが遠ざかり街灯もまばらになる。
千尋は浅葉の手に安心しきって、上ばかり見て歩いた。普段見るものよりもはるかにくっきりとした星空。見慣れた星座の周りにこんなにたくさん他の星があったなんて……。
不意に、浅葉が足を止めた。
「ここが一番よく見える」
道幅が広がり、川の上に少しせり出している。丸太を組んだ柵の先に細い滝が落ちていた。ちょっとした見晴らし台のつもりなのだろうが、そこだけ街灯の電球が切れている。なるほど、星を眺めるにはむしろちょうどいいというわけだ。
「あっ」
(流れ星……)
なかなかお目にかかること自体がなく、やっと見付けたと思えばあっという間にいなくなってしまう。願い事など間に合った試しがなかった。でも……。
今の自分にとって、願い事とは何だろう。
幸せだ。この人の隣にいて。願うべきことなど何もないような気がした。そこにまた一つ、銀の筋がすっと流れた。今度のは尾が長い。
(痛っ)
千尋の手を押し潰さんばかりに、浅葉が固く握り締めていた。千尋はそこに自分の右手をそっと重ねた。星の瞬く音が聞こえるような気がしてくる。
背伸びせんばかりに見上げた小さな輝きの一つひとつを数えるように、どれぐらいの時間目を凝らしていただろう。夜風に少し冷えた顎先に、ふと柔らかい温もりが触れた。確かに覚えのある感覚。あの日額に受けたものよりも幾分熱を帯びている。
はっと息を呑んだ時には、それは千尋の下顎をゆっくりと愛撫し始めていた。その奥で熱い舌が波打ち、冷酒の名残がほのかに香った。人一倍尖った浅葉の犬歯が、左の輪郭をなぞって甘く噛み付いてくる。お腹を空かせて母親に甘える子犬のような純粋でひたむきなこの求愛に、千尋は身動きひとつできずにいた。
浅葉がすっと息を継いだ瞬間、千尋は弾かれたようにその浴衣の帯に両腕を回した。二人はいつの間にそうなったのか見失うほどごく自然に、重ねた唇の間から互いの奥深くを求め合っていた。繰り返しコクッと音を立てる浅葉の顎に耳を澄ます。木立を吹き抜ける風は初冬を思わせたが、千尋の胸の奥はヒリヒリするほど熱かった。
肩に回った浅葉の腕はいつしか背中を包み、しだいにきつく千尋の体を抱き締めていた。これほど「好き」が詰まった抱擁をこの身に受けることがあろうとは……。
千尋は、自分の心がこんなに高揚することがあるのだと初めて知った。いっそこの場で肌を合わせ一つになってしまいたいと感じ始めている自分に驚く。その時、冷たくなった千尋の耳をつまんで浅葉が言った。
「戻ろっか。さすがに夜は冷える」
「うん」
再び浅葉に片手を預けて夜道を歩きながら、千尋は星空のことなどすっかり忘れていた。
「ね、ちょっと外歩きません?」
「大丈夫か? 冷えない?」
「そのための部屋風呂ですから」
酔った勢いもあってかそう言ってはみたものの、果たして入る勇気があるのかどうか自分でもわからない。
茶羽織を羽織り、木のサンダルを突っかけて外に出ると、ほろ酔いの肌に夜風が心地良かった。浅葉はまるで当然とでもいうように、千尋の左手をさっと取って歩き出す。そういえば、一緒に温泉にまで来ていながら、手を繋ぐことすら初めてだった。
甘いものが好きだとは決して認めないくせに、肉体的な接触に関してはつくづくためらいがない。千尋は、そんな浅葉に一層惹かれていく自分を感じる。
渓流沿いに坂を上ると、川の流れは勢いを増した。宿の明かりが遠ざかり街灯もまばらになる。
千尋は浅葉の手に安心しきって、上ばかり見て歩いた。普段見るものよりもはるかにくっきりとした星空。見慣れた星座の周りにこんなにたくさん他の星があったなんて……。
不意に、浅葉が足を止めた。
「ここが一番よく見える」
道幅が広がり、川の上に少しせり出している。丸太を組んだ柵の先に細い滝が落ちていた。ちょっとした見晴らし台のつもりなのだろうが、そこだけ街灯の電球が切れている。なるほど、星を眺めるにはむしろちょうどいいというわけだ。
「あっ」
(流れ星……)
なかなかお目にかかること自体がなく、やっと見付けたと思えばあっという間にいなくなってしまう。願い事など間に合った試しがなかった。でも……。
今の自分にとって、願い事とは何だろう。
幸せだ。この人の隣にいて。願うべきことなど何もないような気がした。そこにまた一つ、銀の筋がすっと流れた。今度のは尾が長い。
(痛っ)
千尋の手を押し潰さんばかりに、浅葉が固く握り締めていた。千尋はそこに自分の右手をそっと重ねた。星の瞬く音が聞こえるような気がしてくる。
背伸びせんばかりに見上げた小さな輝きの一つひとつを数えるように、どれぐらいの時間目を凝らしていただろう。夜風に少し冷えた顎先に、ふと柔らかい温もりが触れた。確かに覚えのある感覚。あの日額に受けたものよりも幾分熱を帯びている。
はっと息を呑んだ時には、それは千尋の下顎をゆっくりと愛撫し始めていた。その奥で熱い舌が波打ち、冷酒の名残がほのかに香った。人一倍尖った浅葉の犬歯が、左の輪郭をなぞって甘く噛み付いてくる。お腹を空かせて母親に甘える子犬のような純粋でひたむきなこの求愛に、千尋は身動きひとつできずにいた。
浅葉がすっと息を継いだ瞬間、千尋は弾かれたようにその浴衣の帯に両腕を回した。二人はいつの間にそうなったのか見失うほどごく自然に、重ねた唇の間から互いの奥深くを求め合っていた。繰り返しコクッと音を立てる浅葉の顎に耳を澄ます。木立を吹き抜ける風は初冬を思わせたが、千尋の胸の奥はヒリヒリするほど熱かった。
肩に回った浅葉の腕はいつしか背中を包み、しだいにきつく千尋の体を抱き締めていた。これほど「好き」が詰まった抱擁をこの身に受けることがあろうとは……。
千尋は、自分の心がこんなに高揚することがあるのだと初めて知った。いっそこの場で肌を合わせ一つになってしまいたいと感じ始めている自分に驚く。その時、冷たくなった千尋の耳をつまんで浅葉が言った。
「戻ろっか。さすがに夜は冷える」
「うん」
再び浅葉に片手を預けて夜道を歩きながら、千尋は星空のことなどすっかり忘れていた。
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