君の思い出

生津直

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第2章 再会

24 唇

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 もう一つ角を曲がれば千尋のアパート、というところまで来ていた。もう少し一緒にいたくて、つい歩調をゆるめながら千尋は考えた。

 この人はいつから、どの時点から私に思いを寄せてくれていたのだろう。

 あくまで事務的で、二言目には「早く寝ろ」。かと思えば妙に配慮が行き届き、命懸けで千尋を守る姿は真摯しんしそのもの。そして電話ごと千尋の手を握った温かい指先……。

「一つ言い忘れたけど」

と浅葉が突然切り出した。

「はい?」

「万一どっかでたまたま俺を見かけた場合」

「はい」

「無視してね」

「えっ?」

「いろんな状況が考えられる。問題ない時は必ず俺から声かけるから」

「あ、そういえば、坂口さんから……」

「言われたろ? 長尾もそう。とにかく知らないふりしてくれればいい」

 千尋が今回接した刑事たちの中で、浅葉と長尾のことは知らないことにしておいてくれと言われたのをすっかり忘れていた。問題になるような状況で遭遇そうぐうすることはまずないとは思うが、万一見かけた場合、という話だった。

「はい、気を付けます」

「それから、周りには警察の人間と付き合ってるとは言わない方がいい」

(周りに……)

 今日の今日で、まだそこまで考えていなかった。千尋はもともと、自分の恋愛相手についてぺらぺらしゃべるタイプではない。いわゆる公認の仲になることには憧れるが、あまり他人に多くを語ると関係が軽くなってしまう気がするのだ。今日新しくできた彼氏のプロフィールも、特に誰かに知らせたいとは思わなかった。

「余計なリスクが増える」

と、浅葉は付け足した。まるで身におぼえでもあるような口ぶりだった。何かを危惧きぐするように、じっと千尋を見ていた。どうにかして安心させてやりたいという気にさせられる。

「わかりました。その方が楽です、私も」

 それを聞いてふっと緩んだ浅葉の視線を笑顔で受け止め、角を曲がる。アパートの前で浅葉が足を止めた。

「そういえばあの日、どうしてわかったんですか? 私がここで……」

 浅葉は答える代わりに、不意に千尋の真正面に回った。千尋は、ぐいと引き寄せられたのを自覚するかしないかのうちに、前髪に男の吐息を感じていた。思いがけず柔らかく、ほのかにうるおった浅葉の唇がひたいに触れるのを、千尋はどこか遠くから傍観ぼうかんしているような気分だった。

 が、そんな感覚を覚えたのもつかの間、その温もりは気まぐれに離れていきそうになる。好みの花を選んでとまったちょうを思わせた。

(待って)

 引き留めたい衝動に駆られた時、千尋のまゆのすぐ上で、思い直したように距離が詰められた。何かささやこうとするように開いた唇が再び幾分強く押し当てられ、千尋の眉間みけんを味わうかのようにゆっくりと閉じていったかと思うと、しむようにそっと飛び立った。

(なんて優しいキス。こんな人がいたの……)

 それは、数えるほどとはいえこれまでに受けたどんな口づけよりも愛情に満ちあふれ、とうとく思われた。夢と現実の境目を見失ったような気がした。ただただ胸が震えていた。

「おやすみ」

という声に我に返ると、目の前には、照れるでも気取るでもなく、ただ去り難い様子で千尋を見つめる浅葉がいた。

「中入るまで待ってる」

と彼が目で示したアパートの二階。一番奥が千尋の自宅だ。

 おやすみなさい、と答えたのかどうかさだかでないまま、一歩一歩夢から覚めてゆくように鉄の階段を上る。いつもの風景がまるで違って見えるとはこのことか。

 上り切ったところから見下ろすと、街灯に照らされた愛しい人がひょいと手を上げた。千尋はかろうじて手を振り返し、後ろ髪引かれつつぼんやりと薄暗い廊下を進む。

 自宅前にうずくまっていた野良猫が千尋に尻尾を踏まれかけてニャアと鳴き、のそりのそりと歩いていった。



  * * * * * *



 鍵が回ってドアが低くきしみ、そして閉まる。一呼吸おいて内側から鍵がかかる音。

 浅葉はそれを耳で確かめると、無意識のうちに左胸に手を当てていた。冷たいレザー越しに、ポケットの中の固い輪郭りんかくだけが熱く感じられる。たった今味わった狭いひたいに、罪の意識がうつるようだった。

 からっぽの夜空を見上げて目を閉じると、胸に秘めたちかいがズキンと鳴った。



  * * * * * *

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