24 / 92
第2章 再会
24 唇
しおりを挟む
もう一つ角を曲がれば千尋のアパート、というところまで来ていた。もう少し一緒にいたくて、つい歩調を緩めながら千尋は考えた。
この人はいつから、どの時点から私に思いを寄せてくれていたのだろう。
あくまで事務的で、二言目には「早く寝ろ」。かと思えば妙に配慮が行き届き、命懸けで千尋を守る姿は真摯そのもの。そして電話ごと千尋の手を握った温かい指先……。
「一つ言い忘れたけど」
と浅葉が突然切り出した。
「はい?」
「万一どっかでたまたま俺を見かけた場合」
「はい」
「無視してね」
「えっ?」
「いろんな状況が考えられる。問題ない時は必ず俺から声かけるから」
「あ、そういえば、坂口さんから……」
「言われたろ? 長尾もそう。とにかく知らないふりしてくれればいい」
千尋が今回接した刑事たちの中で、浅葉と長尾のことは知らないことにしておいてくれと言われたのをすっかり忘れていた。問題になるような状況で遭遇することはまずないとは思うが、万一見かけた場合、という話だった。
「はい、気を付けます」
「それから、周りには警察の人間と付き合ってるとは言わない方がいい」
(周りに……)
今日の今日で、まだそこまで考えていなかった。千尋はもともと、自分の恋愛相手についてぺらぺら喋るタイプではない。いわゆる公認の仲になることには憧れるが、あまり他人に多くを語ると関係が軽くなってしまう気がするのだ。今日新しくできた彼氏のプロフィールも、特に誰かに知らせたいとは思わなかった。
「余計なリスクが増える」
と、浅葉は付け足した。まるで身におぼえでもあるような口ぶりだった。何かを危惧するように、じっと千尋を見ていた。どうにかして安心させてやりたいという気にさせられる。
「わかりました。その方が楽です、私も」
それを聞いてふっと緩んだ浅葉の視線を笑顔で受け止め、角を曲がる。アパートの前で浅葉が足を止めた。
「そういえばあの日、どうしてわかったんですか? 私がここで……」
浅葉は答える代わりに、不意に千尋の真正面に回った。千尋は、ぐいと引き寄せられたのを自覚するかしないかのうちに、前髪に男の吐息を感じていた。思いがけず柔らかく、ほのかに潤った浅葉の唇が額に触れるのを、千尋はどこか遠くから傍観しているような気分だった。
が、そんな感覚を覚えたのも束の間、その温もりは気まぐれに離れていきそうになる。好みの花を選んでとまった蝶を思わせた。
(待って)
引き留めたい衝動に駆られた時、千尋の眉のすぐ上で、思い直したように距離が詰められた。何か囁こうとするように開いた唇が再び幾分強く押し当てられ、千尋の眉間を味わうかのようにゆっくりと閉じていったかと思うと、惜しむようにそっと飛び立った。
(なんて優しいキス。こんな人がいたの……)
それは、数えるほどとはいえこれまでに受けたどんな口づけよりも愛情に満ち溢れ、尊く思われた。夢と現実の境目を見失ったような気がした。ただただ胸が震えていた。
「おやすみ」
という声に我に返ると、目の前には、照れるでも気取るでもなく、ただ去り難い様子で千尋を見つめる浅葉がいた。
「中入るまで待ってる」
と彼が目で示したアパートの二階。一番奥が千尋の自宅だ。
おやすみなさい、と答えたのかどうか定かでないまま、一歩一歩夢から覚めてゆくように鉄の階段を上る。いつもの風景がまるで違って見えるとはこのことか。
上り切ったところから見下ろすと、街灯に照らされた愛しい人がひょいと手を上げた。千尋はかろうじて手を振り返し、後ろ髪引かれつつぼんやりと薄暗い廊下を進む。
自宅前にうずくまっていた野良猫が千尋に尻尾を踏まれかけてニャアと鳴き、のそりのそりと歩いていった。
* * * * * *
鍵が回ってドアが低くきしみ、そして閉まる。一呼吸おいて内側から鍵がかかる音。
浅葉はそれを耳で確かめると、無意識のうちに左胸に手を当てていた。冷たいレザー越しに、ポケットの中の固い輪郭だけが熱く感じられる。たった今味わった狭い額に、罪の意識が映るようだった。
空っぽの夜空を見上げて目を閉じると、胸に秘めた誓いがズキンと鳴った。
* * * * * *
この人はいつから、どの時点から私に思いを寄せてくれていたのだろう。
あくまで事務的で、二言目には「早く寝ろ」。かと思えば妙に配慮が行き届き、命懸けで千尋を守る姿は真摯そのもの。そして電話ごと千尋の手を握った温かい指先……。
「一つ言い忘れたけど」
と浅葉が突然切り出した。
「はい?」
「万一どっかでたまたま俺を見かけた場合」
「はい」
「無視してね」
「えっ?」
「いろんな状況が考えられる。問題ない時は必ず俺から声かけるから」
「あ、そういえば、坂口さんから……」
「言われたろ? 長尾もそう。とにかく知らないふりしてくれればいい」
千尋が今回接した刑事たちの中で、浅葉と長尾のことは知らないことにしておいてくれと言われたのをすっかり忘れていた。問題になるような状況で遭遇することはまずないとは思うが、万一見かけた場合、という話だった。
「はい、気を付けます」
「それから、周りには警察の人間と付き合ってるとは言わない方がいい」
(周りに……)
今日の今日で、まだそこまで考えていなかった。千尋はもともと、自分の恋愛相手についてぺらぺら喋るタイプではない。いわゆる公認の仲になることには憧れるが、あまり他人に多くを語ると関係が軽くなってしまう気がするのだ。今日新しくできた彼氏のプロフィールも、特に誰かに知らせたいとは思わなかった。
「余計なリスクが増える」
と、浅葉は付け足した。まるで身におぼえでもあるような口ぶりだった。何かを危惧するように、じっと千尋を見ていた。どうにかして安心させてやりたいという気にさせられる。
「わかりました。その方が楽です、私も」
それを聞いてふっと緩んだ浅葉の視線を笑顔で受け止め、角を曲がる。アパートの前で浅葉が足を止めた。
「そういえばあの日、どうしてわかったんですか? 私がここで……」
浅葉は答える代わりに、不意に千尋の真正面に回った。千尋は、ぐいと引き寄せられたのを自覚するかしないかのうちに、前髪に男の吐息を感じていた。思いがけず柔らかく、ほのかに潤った浅葉の唇が額に触れるのを、千尋はどこか遠くから傍観しているような気分だった。
が、そんな感覚を覚えたのも束の間、その温もりは気まぐれに離れていきそうになる。好みの花を選んでとまった蝶を思わせた。
(待って)
引き留めたい衝動に駆られた時、千尋の眉のすぐ上で、思い直したように距離が詰められた。何か囁こうとするように開いた唇が再び幾分強く押し当てられ、千尋の眉間を味わうかのようにゆっくりと閉じていったかと思うと、惜しむようにそっと飛び立った。
(なんて優しいキス。こんな人がいたの……)
それは、数えるほどとはいえこれまでに受けたどんな口づけよりも愛情に満ち溢れ、尊く思われた。夢と現実の境目を見失ったような気がした。ただただ胸が震えていた。
「おやすみ」
という声に我に返ると、目の前には、照れるでも気取るでもなく、ただ去り難い様子で千尋を見つめる浅葉がいた。
「中入るまで待ってる」
と彼が目で示したアパートの二階。一番奥が千尋の自宅だ。
おやすみなさい、と答えたのかどうか定かでないまま、一歩一歩夢から覚めてゆくように鉄の階段を上る。いつもの風景がまるで違って見えるとはこのことか。
上り切ったところから見下ろすと、街灯に照らされた愛しい人がひょいと手を上げた。千尋はかろうじて手を振り返し、後ろ髪引かれつつぼんやりと薄暗い廊下を進む。
自宅前にうずくまっていた野良猫が千尋に尻尾を踏まれかけてニャアと鳴き、のそりのそりと歩いていった。
* * * * * *
鍵が回ってドアが低くきしみ、そして閉まる。一呼吸おいて内側から鍵がかかる音。
浅葉はそれを耳で確かめると、無意識のうちに左胸に手を当てていた。冷たいレザー越しに、ポケットの中の固い輪郭だけが熱く感じられる。たった今味わった狭い額に、罪の意識が映るようだった。
空っぽの夜空を見上げて目を閉じると、胸に秘めた誓いがズキンと鳴った。
* * * * * *
0
お気に入りに追加
122
あなたにおすすめの小説
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
イケメン彼氏は警察官!甘い夜に私の体は溶けていく。
すずなり。
恋愛
人数合わせで参加した合コン。
そこで私は一人の男の人と出会う。
「俺には分かる。キミはきっと俺を好きになる。」
そんな言葉をかけてきた彼。
でも私には秘密があった。
「キミ・・・目が・・?」
「気持ち悪いでしょ?ごめんなさい・・・。」
ちゃんと私のことを伝えたのに、彼は食い下がる。
「お願いだから俺を好きになって・・・。」
その言葉を聞いてお付き合いが始まる。
「やぁぁっ・・!」
「どこが『や』なんだよ・・・こんなに蜜を溢れさせて・・・。」
激しくなっていく夜の生活。
私の身はもつの!?
※お話の内容は全て想像のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※表現不足は重々承知しております。まだまだ勉強してまいりますので温かい目で見ていただけたら幸いです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
では、お楽しみください。
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。

甘すぎるドクターへ。どうか手加減して下さい。
海咲雪
恋愛
その日、新幹線の隣の席に疲れて寝ている男性がいた。
ただそれだけのはずだったのに……その日、私の世界に甘さが加わった。
「案外、本当に君以外いないかも」
「いいの? こんな可愛いことされたら、本当にもう逃してあげられないけど」
「もう奏葉の許可なしに近づいたりしない。だから……近づく前に奏葉に聞くから、ちゃんと許可を出してね」
そのドクターの甘さは手加減を知らない。
【登場人物】
末永 奏葉[すえなが かなは]・・・25歳。普通の会社員。気を遣い過ぎてしまう性格。
恩田 時哉[おんだ ときや]・・・27歳。医者。奏葉をからかう時もあるのに、甘すぎる?
田代 有我[たしろ ゆうが]・・・25歳。奏葉の同期。テキトーな性格だが、奏葉の変化には鋭い?
【作者に医療知識はありません。恋愛小説として楽しんで頂ければ幸いです!】
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?
すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。
翔馬「俺、チャーハン。」
宏斗「俺もー。」
航平「俺、から揚げつけてー。」
優弥「俺はスープ付き。」
みんなガタイがよく、男前。
ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」
慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。
終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。
ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」
保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。
私は子供と一緒に・・・暮らしてる。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
翔馬「おいおい嘘だろ?」
宏斗「子供・・・いたんだ・・。」
航平「いくつん時の子だよ・・・・。」
優弥「マジか・・・。」
消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。
太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。
「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」
「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」
※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。
※感想やコメントは受け付けることができません。
メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。
隠れドS上司をうっかり襲ったら、独占愛で縛られました
加地アヤメ
恋愛
商品企画部で働く三十歳の春陽は、周囲の怒涛の結婚ラッシュに財布と心を痛める日々。結婚相手どころか何年も恋人すらいない自分は、このまま一生独り身かも――と盛大に凹んでいたある日、酔った勢いでクールな上司・千木良を押し倒してしまった!? 幸か不幸か何も覚えていない春陽に、全てなかったことにしてくれた千木良。だけど、不意打ちのように甘やかしてくる彼の思わせぶりな言動に、どうしようもなく心と体が疼いてしまい……。「どうやら私は、かなり独占欲が強い、嫉妬深い男のようだよ」クールな隠れドS上司をうっかりその気にさせてしまったアラサー女子の、甘すぎる受難!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる