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第2章 再会
18 念願
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「あの……眠れないってほどじゃないんですけど……」
我ながらずるいような気はしたが、口がひとりでに言葉を紡いでいた。
「やっぱり何となく思い出すっていうか……」
嘘ではない。特に暗いところで、突然あの時の恐怖が蘇るのは治っていなかった。
ただ、実際のところ、街で殺されかけたことや公園での猥褻行為を思い出して不安に駆られるのは、一人で夜道を歩く時と、自宅での寝入り端ぐらいだ。部屋を真っ暗にしていると何となく気分が落ち着かず、足元に置いた電気スタンドを点けたまま寝ることにしていた。
千尋は、再会に期待をかけながらも、実際には何か一般的な処置についてのアドバイスなり、よくあることだという気休めの言葉なりが返ってくるものと想像していた。しかし、浅葉の返答はそのどちらでもなかった。
「すまなかった。あんな目に遭わせて」
「えっ?」
まさか謝られるとは思ってもみなかった千尋は、深い悔いを含んだその声にうろたえた。
「いえ、浅葉さんが助けてくださったから……」
大事を免れて感謝していると伝えようとした時、陰鬱なため息に遮られた。
「許してもらおうとは思ってない」
(どうしてそんなこと……)
騙すつもりだったわけではないが、余計な心配をかけてしまったと急に罪悪感が湧き、千尋は慌ててフォローする。
「あの……大丈夫ですから、私。普通にバイトもできてますし、サークルの方も……」
千尋が言い終えぬうちに、浅葉が尋ねた。
「水曜の夕方、会えるか?」
(会える……か?)
密かに期待したとはいえ思いがけない展開に、千尋は一瞬ぽかんとして目の前の壁を見つめた。努めて気持ちを落ち着かせ、頭の中を整理する。
浅葉はどうやら、千尋がわずかながらまだショックを引きずっていることに責任を感じているらしい。そして、回復を手伝うためにわざわざ会ってくれるつもりらしい。ならば、千尋にとっては願ったり叶ったりではないか。しかし……。
「水曜って……あさって、ですか?」
「そうだな」
水曜ならバイトはないし、サークル活動だけならいくらでも欠席できる。しかし、あさっては練習の後、飲みに行く約束をしていた。高遠義則と二人で。
夏休みの初めに映画に誘ってくれたのを断ったきりになっていたのだが、八月の合宿や、後期の活動が始まってからの様子では、彼がまだ完全には諦めていないことが手に取るようにわかった。
そこで、「サシ飲み」という名目なら必ずしもデートにカウントする必要はないと思い、先日千尋の方から声をかけたのだった。決して義則に気持ちが傾いたわけではない。自分に好意を寄せてくれている男性と二人で出かけることで、何かが吹っ切れて楽になれるような気がしたのだ。何かが。
浅葉は、千尋の沈黙の意味を察したように言った。
「もし先約があるなら……」
無理にとは言わない、と貴重なオファーを撤回される前に、いえ、空いてます、と答えようとした時だった。
「そっちを断ってくれないか」
(えっ……?)
丁重ながら、一歩も引く気はないといった一言。まるで千尋に先約があることを、そしてそれが何であるかを知ってでもいるかのような……。
「お前の経過観察の方が大事だ」
(経過観察……)
私、別にどこも悪くありません、と言いそうになるところをぐっとこらえる。いや、恋の病じゃないか、という第二の自分の声が、頭上から聞こえたような気がした。
「あの、夕方って……」
「結乃山まで出てこれるか?」
「結乃山……」
てっきり警察署に来いという話だと思い込んでいた。しかし結乃山なら、行ったことはないが大体の見当は付く。
「はい」
と答え、バッグから手帳を取り出す。
「改札を出て左に行くと、坂を上がったところに風香和会館ってのがある」
「フカワ……?」
「風の香りに和風の和。そこの南側の庭園に……五時でいいかな?」
「風香和会館の南側の庭園に五時、ですね。わかりました」
あの浅葉と待ち合わせの約束をしていることが不思議でならなかった。夢ではないのだと確かめるように、たった今手帳に書き込んだ自分の字をもう一度ペンでなぞった。
「じゃ、水曜に」
「あ、はい。あの……」
そのまま電話を切られてしまうかと思ったが、浅葉は千尋の言葉を待っていた。
「ありがとうございました。お電話くださって」
返事がなかったが、電話が繋がっていることだけは、なぜかはっきりとわかった。やがて浅葉は、
「ああ」
と小さく呟き、
「おやすみ」
と付け足した。
「あ、はい。おやすみなさい」
しかし浅葉は一向に電話を切る様子がない。千尋は手帳の文字をもう一度確認し、大きく息を吸い込むと、思い切って通話終了のボタンを押した。その息を吐き出しながら、頭の中にはまだ浅葉の声が響いている。
今夜はおよそ眠れる気がしなかった。
我ながらずるいような気はしたが、口がひとりでに言葉を紡いでいた。
「やっぱり何となく思い出すっていうか……」
嘘ではない。特に暗いところで、突然あの時の恐怖が蘇るのは治っていなかった。
ただ、実際のところ、街で殺されかけたことや公園での猥褻行為を思い出して不安に駆られるのは、一人で夜道を歩く時と、自宅での寝入り端ぐらいだ。部屋を真っ暗にしていると何となく気分が落ち着かず、足元に置いた電気スタンドを点けたまま寝ることにしていた。
千尋は、再会に期待をかけながらも、実際には何か一般的な処置についてのアドバイスなり、よくあることだという気休めの言葉なりが返ってくるものと想像していた。しかし、浅葉の返答はそのどちらでもなかった。
「すまなかった。あんな目に遭わせて」
「えっ?」
まさか謝られるとは思ってもみなかった千尋は、深い悔いを含んだその声にうろたえた。
「いえ、浅葉さんが助けてくださったから……」
大事を免れて感謝していると伝えようとした時、陰鬱なため息に遮られた。
「許してもらおうとは思ってない」
(どうしてそんなこと……)
騙すつもりだったわけではないが、余計な心配をかけてしまったと急に罪悪感が湧き、千尋は慌ててフォローする。
「あの……大丈夫ですから、私。普通にバイトもできてますし、サークルの方も……」
千尋が言い終えぬうちに、浅葉が尋ねた。
「水曜の夕方、会えるか?」
(会える……か?)
密かに期待したとはいえ思いがけない展開に、千尋は一瞬ぽかんとして目の前の壁を見つめた。努めて気持ちを落ち着かせ、頭の中を整理する。
浅葉はどうやら、千尋がわずかながらまだショックを引きずっていることに責任を感じているらしい。そして、回復を手伝うためにわざわざ会ってくれるつもりらしい。ならば、千尋にとっては願ったり叶ったりではないか。しかし……。
「水曜って……あさって、ですか?」
「そうだな」
水曜ならバイトはないし、サークル活動だけならいくらでも欠席できる。しかし、あさっては練習の後、飲みに行く約束をしていた。高遠義則と二人で。
夏休みの初めに映画に誘ってくれたのを断ったきりになっていたのだが、八月の合宿や、後期の活動が始まってからの様子では、彼がまだ完全には諦めていないことが手に取るようにわかった。
そこで、「サシ飲み」という名目なら必ずしもデートにカウントする必要はないと思い、先日千尋の方から声をかけたのだった。決して義則に気持ちが傾いたわけではない。自分に好意を寄せてくれている男性と二人で出かけることで、何かが吹っ切れて楽になれるような気がしたのだ。何かが。
浅葉は、千尋の沈黙の意味を察したように言った。
「もし先約があるなら……」
無理にとは言わない、と貴重なオファーを撤回される前に、いえ、空いてます、と答えようとした時だった。
「そっちを断ってくれないか」
(えっ……?)
丁重ながら、一歩も引く気はないといった一言。まるで千尋に先約があることを、そしてそれが何であるかを知ってでもいるかのような……。
「お前の経過観察の方が大事だ」
(経過観察……)
私、別にどこも悪くありません、と言いそうになるところをぐっとこらえる。いや、恋の病じゃないか、という第二の自分の声が、頭上から聞こえたような気がした。
「あの、夕方って……」
「結乃山まで出てこれるか?」
「結乃山……」
てっきり警察署に来いという話だと思い込んでいた。しかし結乃山なら、行ったことはないが大体の見当は付く。
「はい」
と答え、バッグから手帳を取り出す。
「改札を出て左に行くと、坂を上がったところに風香和会館ってのがある」
「フカワ……?」
「風の香りに和風の和。そこの南側の庭園に……五時でいいかな?」
「風香和会館の南側の庭園に五時、ですね。わかりました」
あの浅葉と待ち合わせの約束をしていることが不思議でならなかった。夢ではないのだと確かめるように、たった今手帳に書き込んだ自分の字をもう一度ペンでなぞった。
「じゃ、水曜に」
「あ、はい。あの……」
そのまま電話を切られてしまうかと思ったが、浅葉は千尋の言葉を待っていた。
「ありがとうございました。お電話くださって」
返事がなかったが、電話が繋がっていることだけは、なぜかはっきりとわかった。やがて浅葉は、
「ああ」
と小さく呟き、
「おやすみ」
と付け足した。
「あ、はい。おやすみなさい」
しかし浅葉は一向に電話を切る様子がない。千尋は手帳の文字をもう一度確認し、大きく息を吸い込むと、思い切って通話終了のボタンを押した。その息を吐き出しながら、頭の中にはまだ浅葉の声が響いている。
今夜はおよそ眠れる気がしなかった。
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