君の思い出

生津直

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第1章 護衛

1  幕開け

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 ほんの出来心だった。

 写真でさんざんにらみ続けた相手と、いずれ顔を合わせることは珍しくない。そんないつものルートを、いつもよりも確実に、いつもよりも早く、辿たどりたくなってしまった。

 これぐらいのことは許される……。気付けば浅葉あさばはそんな言い訳を繰り返し、必死でそこに根拠を供給していた。

 そして、罪は犯された。

 その先に待っていたのは、残酷なまでに甘美な時間。黄金色こがねいろに輝く奇跡の海に溺れるようなだった。



  * * * * * *



 九月二日。田辺千尋たなべ ちひろは、身動きする度にきしむパイプ椅子に座り、ぼんやりとくうを見つめていた。足を組み替える度に、「楽」だけがの黒いローヒールパンプスがコツンと音を立てる。

 車で連れて来られたのは、四角いだけの地味な建物だった。案内されるまま階段を上がると、壁には「薬物銃器対策課」のプレート。通されたこの部屋にも洒落っ気はない。奥の席に座って待つよう言われてから、十分ほどっている。

 まさか自分が警察の世話になるとは、夢にも思っていなかった。都内で一人暮らしをする国立大学二年生の千尋は、時にハメを外しはしても、あくまで自他ともに認める善良な市民だ。



 約一週間前のこと。見知らぬ女性が千尋のアパートを訪ねてきたのが全ての始まりだった。

 呼び鈴がピンポーンと鳴ったのは、朝十一時過ぎ。セールスだろうと決め込み、居留守を使おうとした。が、ピンポーンが間隔をけて二度、三度。

 こちらの在宅を確信してでもいるのか。実際、飲み会から一夜明けて目覚めた頃を見計らったようなタイミング。控え目に言って気味が悪い。

 足音を忍ばせてドアに近付いてみる。そっと覗き穴から覗くと、グレーのスーツ姿の女性がたたずんでいた。

 彼女の右腕が壁へと伸びるのが見え、四度目のピンポーンが鳴った。その直後、女性はコンコンコンコンとドアをノックし、少しこちらに顔を寄せたかと思うと、

「田辺さん、おはようございます。警察の者です」

と来た。

「はあ?」

 思わず声を上げ、千尋は慌てて口を押さえるが、時すでに遅し。相手は笑いを噛み殺すような素振りで、ジャケットの内側から二つ折りの手帳を取り出した。開いてのぞき穴越しに見せられたそれは、テレビドラマで見るのとそっくりの警察手帳だ。

(何これ……私、寝ぼけてる?)

 いや、昨晩はそんなに飲んでいないし、今朝は普通に起きて洗濯と掃除を済ませたところだ。清く正しいことこの上ない。

 先方は落ち着いた笑みを崩さず、所属と名前を名乗った上で、こう続けた。

「お忙しいところすみません。お話ししたいことがありますので、少々お時間よろしいですか?」

 女の一人暮らしに警戒心は必須。これは噂に聞く詐欺かもしれない、という咄嗟とっさの判断を自画自賛しながら千尋は答えた。

「あのー、恐れ入りますが、少々お待ちいただけますか?」

 素早くスマホを操作し、この自称警察を外で待たせたまま最寄りの警察署に電話。彼女が名乗っている肩書きと氏名を告げたところ、正真正銘の巡査だと判明した。

 待たせたことを丁重にあやまって部屋に上がってもらい、お茶を出して詳しく聞いてみると、全く予想し得なかった突飛とっぴな話が飛び出した。

 暴力団組織の間で近々麻薬取引がある。……という情報を警察がつかんだ。それだけならどうということはないが、その取引の日時と場所を千尋が知っているのではないかという。

 何の冗談かと耳を疑ったが、警察官を相手に笑い飛ばすわけにもいかない。何でも、ファックスで匿名の通報が入り、情報を握る人物として千尋の名前と、身元を特定する情報が書かれていたのだそうだ。そんな真っ赤な嘘を流しそうな人物に心当たりはないが、名簿か何かを使った無作為ないたずらかもしれない。

 結局、警察もこの件はデマと認識しているとのことで、千尋は安堵した。巡査は「参考人としての事情聴取」と断った上でいくつか質問をしてはきたが、千尋が何も知らないと正直に答えると、メモだけ取って帰っていった。



 ところが、今日になって再び警察からの電話。なんと、くだんの暴力団にも千尋が情報を手にしたという誤報が伝わっているという。取引日時が警察にバレてはたまらんと慌てた彼らが、千尋を「探している」という知らせ。

 それって、口封じのために始末しようってことですか、という質問に歯切れの良い答えが返ってこなかったところを見ると、おそらくその通りなのだろう。冗談じゃない。

 いずれにしても、取引が彼らの思惑おもわく通りに成立するか警察が現場を押さえるまで、千尋の身の安全を保護させてくれというのだった。

(まったく、いつからそんなドラマな人生に……)
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