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第8章 光と闇と

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日も暮れ始めた頃、響はようやく目を覚ました。
カーテンも開けたまま、帰宅したままの自分がそこにいた。

「……っ」

気だるく体を起こすと、テーブルの上に食事が置いてあることに気がついた。

少し小さめのおにぎりと、付け合わせにと添えられたきゅうりの浅漬け。

『少しだけでも、お腹に入れてくださいね。』

丁寧に整えられた、うたの字であろう書き置き。そしてその傍らには、片付けておいたはずの楽譜が開いたままで置いてあった。

「……………………」

 【J.S.バッハ:《イタリア協奏曲》 BWV 971より第3楽章】

響が混ざったオーケストラで、1度だけ弾いたことのある曲。なぜ、この曲が開かれているのだろうか?

不思議に思い、譜面を見る。

「この譜面は……。」

当時演奏した時も、この譜面には苦労させられたものだ。
軽快なテンポは、まるで最初から最後まで疾走しているようで、息つく暇もなく演奏が終わった記憶しかない。

「そうか……そう言うことか。」

……響は、譜面に込められた奏の不器用だが率直なメッセージを感じ取った。

『思い悩むよりも、今はただひたすらに前へ。落ち込み過ぎると立ち止まる。今は、奇跡に向かってただ走ればいい。』

奏が、そう言っているような気がした。

「年下の女の子ふたりに、こんなに気を遣わせるなんてな……」

おにぎりを食べる。優しい塩味。中には鮭。
もうひとつ食べた。
きつい塩味。

いたずら心で作ったのか、それともしっかりしろ!と言う気持ちで作ったのか……
それは今の響には分かりかねたが、どちらも美味しく感じた。

取り合えず、気分を変えよう。
そう思いピアノに向かった響だったが……

「……………………」

弾けなかった。
気を取り直してピアノに向かったはずだったのだが、楽譜には、なにも書いていないように見えた。

(どういう、ことだ……?)

譜面が全く見えない。
楽譜の中身が、白紙に見えてしまったのだ。

「どうしたんだよ、俺…………」

呟いてみたものの、理由は自分が一番よくわかっている。
さくらのことで、心身ともに相当疲弊しているのを、響は自覚していた。
そんな響の携帯に、もう一度着信音。

奏からだった。


━どうしてもダメなときは、いつでも連絡して下さい。何処にいても、時間はかかるかもしれないけど、飛んでいきますから━

まるで、響のことを見透かしているような文面。
思わず電話を掛けてしまいそうな自分を抑えようと、携帯を抱いたまま丸くなった。

「……っ」

辛くて、悲しくて、何より情けなくて。
響は、嗚咽にもならない声を漏らした。

「こんなのは今だけ。今だけだ。明日になれば……」

根拠のない強がりを、誰に言うでもなく呟くと、またぐっ……と丸くなった。


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