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第7章 それぞれの転機

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奏の妄想は止まらない。

「もし、私がコンクールで金賞を獲ったら、響さん……私の願いを一つだけ叶えてくれますか?」

みらいピアノコンクール。
それがどんなコンクールなのか、師である赤城に散々聞かされたのだが、奏はそれを聞いた上で響に言っている。

「その強心臓が羨ましいよ。まぁ、初出場で金賞というのは『あまり前例がないそうだから、もしそうなったら考えよう。」

ちなみに、響が『あまり』と言ったのは、自分も初出場で金賞を獲得した数少ない『前例』なのである。

「ふふ……楽しみだなぁ、コンクール……。」

満腹になり、身体も温まったことで満足したのか、奏はそのままソファーでうたた寝を始めた。

「あら……奏ちゃん、寝ちゃった……。」

「やれやれ、まるで子供みたいだな、コイツは……。」

響はクローゼットから毛布を一枚引っ張り出すと、奏にそっとかける。
普段ピアノと真剣に向き合うとき、ピアノを弾いて休んでを繰り返すときのために、リビングには1枚必ず毛布を置いておく。

今夜初めて、リビングに訪れる静寂。

「響さん……奏ちゃんのこと、嫌いにならないでくださいね?」

不意に、うたが言う。

「ん? こういう性格なんだろう? 今更嫌いになるわけないさ。」

「ありがとうございます。奏ちゃん、何事にも妥協したくないし、全力でありたいと思っている子なんです。でも、妙なとこで照れ屋さんだから……」

奏の頭を自分の膝にのせ、優しく撫でながら、うたが響に言う。

「……自分がどんなに辛くても、明るく振舞うような奴だからな。だから、周りの人間はそんな姿に動かされるのかもしれないな……」

普段のキリっとした美しさとは程遠い、まるで人形のような寝顔。そんな奏に、響は前を向かされ、心を動かされてきたのだ。

「……みらいピアノコンクールにエントリーした。こいつと、本気で勝負しようと思う。」

奏を見たまま、響はうたに告げる。

「そうだったんですね。奏ちゃん、コンクールに出るのが楽しみなんですって。私の力、響さんに見せつけてやるーって、いつも言ってます。」

クスクスと笑いながらうたが言う。
奏は、全く起きる様子を見せない。

「奏の力、か。正直……恐ろしいよ。赤城さんに見出だされた才能だ。化けないわけはない。」

ふたりの会話。
リビングの中は、テレビの音がまるでBGMのように流れ続けている。

「それでも俺は……俺のピアノを弾くだけだ。」

真っ直ぐな、響の視線。
自分はピアニスト。人と競うのではなく、向かい合うのは楽譜のみ。
その真摯な姿勢に、うたは心を動かされた。

「……あ。奏ちゃんの気持ち、少し分かったかも。」

聞こえないように呟く。
同じ学年の男子としか接してこなかった、うた。
大人の男性の決意の表情に赤面してしまう。しかしすぐに気を取り直し、

「ふたりとも、応援します。……私も、オーディション受けることにしました。まずは、CMのテーマソングから。何もしないでふたりを応援するより、私も一緒に、歩いていきたい。」

うたは自分のことも響に打ち明ける。
うたも、自力でしっかりと前に進もうとしている。
それを、響には知ってもらいたかった。

「頑張れ。お前なら、できるさ。」

響は思った。
うたの真っ直ぐな目を見て、うたならきっとやり遂げるだろうと。

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