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第6章  美しい風景とともに

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「すまない。断る。」

予想だにしなかった響の返事に、うたと奏、ふたりが凍りつく。

「ど……どうして?どうしてですか?」

うたは響の袖をつかむ。
奏は、響の答えの意図が分からず呆然としている。

響は、ふぅっ……と溜め息を吐くと、自分の思いを言葉にした。

「さっきの演奏の時……俺は、ただお前を助けてやろう、そう思って隣で演奏した。だが……」

続きを言おうと立ち上がる響。うたはそんな響の手が、震えているのがわかった。

「響……さん?」

そっと、うたが問いかけるが、響はそのまま話を続ける。

「弾いてるうちに、お前の才能が開花していく瞬間を目の当たりにして……俺は鳥肌が立った。こんな才能が眠っていたのか、って。その時だ。俺が……音楽家としての俺が言うんだ。」

自分の演奏が、響に何かを感じさせた。
奏はそのことが信じられないといった表情を響に向ける。

「こんな才能、滅多に出会えないぞ!せっかくだ、演奏家として、正面から打ち合ってみたい!……って。導くんじゃなく、同じ演奏家として向き合いたいと思ったんだ。」

響は笑っていた。が、奏には、それがどうして、自分の申し出を断る理由になるのか、それが理解できずにいた。
それなら、先生のままでも構わないではないか、と。

響の言葉の意図を察したのは、うただった。
しかし、うたはその答えを奏に告げることなく、優しい笑みを響と奏の二人に向ける。

「先生……よく、分からないよ……」

奏は、戸惑ったまま、俯いて呟く。
響は、もう一度、深く息を吐くと、奏と向き合う。

「お前のことを導くことは、出来ない。」

どうしてもダメなんだ……と、奏がうつむく。
気持ちがどんどん落ち込んでいくのが、自分でもわかった。

響は、奏の表情を見て、少しだけ申し訳ないことをしたと思った。
昔から、自分は言葉足らずであるということを自覚していたから。
すぐに、奏にわかりやすく聞こえるような言葉を探す。

「奏、お前とは、演奏家として、高みを目指して行きたい。師としてではなく、同じ演奏家として肩を並べてだ。一緒に高みを目指さないか?」

笑顔で、響は奏に右手を差し出し握手を求める。
奏は、響の言っている言葉の意味が、なかなか理解できない。

「なにがなんだか……先生は、先生じゃなくなるの?」

混乱する、奏。
憧れていたピアニストに、突然『肩を並べて』と言われたのだ。
理解が追い付かないのも無理もない。

「師でいるより、仲間でいたい。お前の才能は……美しい。肩を並べて、演奏家として、歩いていかないか?」

それは、奏にとって夢のような言葉だった。
夢……?と小さく呟くと、うたが奏の頬を優しくつねった。

「奏ちゃん、一緒に音楽、しよ?」

少しだけ痛む右頬が、これが夢ではないことを証明する。
奏の答えは、そのとき決まった。握手を求める響の手をすり抜け……

その胸に飛び込み、泣いた。

「嬉しい……嬉しいよぉぉ……っ!」

困って引き離そうとする響だったが、うたは優しく微笑むと、首を振った。

「今は……ね?」

そのうたの笑顔に、無理矢理引き剥がすのは野暮だ、と言われているようで……。
響は再び溜め息を吐くと、泣きじゃくる奏の頭を優しく撫でてやる。そして、

「お前は、これから先、音楽の新たな領域に挑んでいく、仲間だよ。」

……と、優しく言うのであった。
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