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第七話
しおりを挟む自室でこっそり息を整えていると、襖の外で人の気配がした。
「鳴海様、りんです。入ってもよろしいでしょうか?」
追ってきたのが、りん一人であることに、鳴海は安堵した。どうやら、衛守は自分が犠牲となって、好奇心に満ちた大谷家の人々の質問攻めに遭うことを選んだらしい。
「入れ」
わざと厳しい雰囲気を繕おうとしたが、どうもいつもの調子が出ない。声が上ずっているのが、自分でも分かった。
おずおずと襖が開かれ、若干怯えた顔のりんがいた。襖の縁を踏まないように注意しながら鳴海の居室に入ってきたりんは、静かに襖を閉めると、鳴海の傍らでじっとしている。
「それを開けていい」
もう少し優しい言い方が出来ないものかと、言った側から後悔した。だが、りんは言われるままに、鳴海の文机に置かれた袱紗の包みを開いていく。紫の袱紗に包まれていたのは、薄い桐で出来た化粧箱だった。
「鳴海様。こんな立派そうな箱、私には開けられません。どうぞ鳴海様がお開けになって下さいませ」
なぜか、りんはそこできっぱりと断った。皆の勢いに押されて鳴海の居室に来てみたものの、この桐箱が、自分のための物だとは、露ほども思っていないのだろう。改めてこの六年、りんに対して、残酷なことをしてきたと後悔するばかりである。
鳴海は、首を横に振った。
「それは、りんの物だ。だからりんが開けていい」
その言葉に、りんの目が大きく見開かれた。しばらく沈黙が流れた後、りんが小さな声で鳴海に尋ねた。
「本当に?」
「武士に、二言はない」
このような場面で使う言葉ではないな。そう思いつつも、つい口元が綻ぶ。全く、もっと早く自分に素直になっておくべきだった。
こわごわとりんが蓋を除けると、見事な化粧箱の中には、鼈甲の櫛と珊瑚の髪飾りが鎮座していた。
何も言葉を発しないりんに対して、鳴海は次第に不安になってきた。まさか……。
「気に入らなかったか?」
黙ったまま、りんは首を横に振った。そして、この家に嫁いできてから初めて、自分から鳴海の胸に顔を埋めた。
「てっきり鳴海様は私のことを、お嫌いだとばかり……」
そう呟くと、りんはくうっと嗚咽を漏らした。やはり、ずっと気にしていたのだろう。衛守が言っていたように、本当に可哀想なことをしていたと、今更ながらずくずくと良心が痛む。
「嫌いではない。その逆だ」
女性の涙を前にして、鳴海はどうしていいか分からずに狼狽えた。おろおろしながらも、そっとりんの背を擦ってやると、ますますその身体の震えが大きくなった。妻の身体は、こんなにも小さな身体だったのかと、改めて思う。この小さな身体で、あの自我の強い女性たちに混じって立ち回っているのだから、本当に偉い。
「りんは、よくやってくれている。それをきちんと言葉で伝えてこなかった、俺が悪かった」
そのまま背中を黙って撫でてやっていると、しばらくしてようやくりんは泣き止み、顔を上げた。その目元は真っ赤に腫れている。だが、晴ればれとした笑みを口元に浮かべているのを見ると、やはり思いのたけを素直に伝えて良かったと感じた。
「この前、破れた袖を縫ってくれたのはりんだそうだな。女中が見事だと褒めていたし、助かった」
改めて礼を言うと、りんはますます目尻を下げた。
「子供の頃から、人の中に積極的に交わるのが苦手だったものですから、手遊びをして気を紛らわしていたのです」
「ふうん」
今まで気づかなかったが、意外と二人は似た者夫婦なのかもしれない。信義は、それに気づいていたのだろう。たとえ齢が離れていたとしても、心を通わせようと思えば、ちゃんと共通点が見つかるものだ。
「そうだ」
せっかくだからと、鳴海は箱の中から櫛と髪飾りを取り上げた。それを鳴海手ずから、りんの髷に挿してやる。部屋の片隅にある着付けのための姿見の前に座らせると、今までよりほんの少し、大人びた雰囲気の妻の姿が映し出された。
初めて互いに胸襟を開いたのだからと、ついでに中島屋での本当の出来事を話すと、りんの顔にはますます笑みが広がった。強面で鳴らしている鳴海が、自分のための品を選び出してくれたのが余程嬉しいらしい。笑うと口元には笑窪ができ、それがまた愛おしかった。
そこへ様子を伺いにやって来たのは、那津だった。
「ああっ、鳴海兄様。りん様を泣かすなんて。何をやっているんですか!」
年端が行かなくても、さすが女である。那津はきっと目を吊り上げた。その声に、たちまち女性陣が駆けつけた。
「いえ、違うのです。私は……」
りんも、思いがけず鳴海が責められているのを見て狼狽した。
面倒だな、と鳴海はりんの手を引いて立ち上がらせた。
「あちらへ戻ろう」
そのまま、鳴海はりんの手を引いて居間に戻った。黃山は、まだそこにいた。
「まあ……」
りんの髪の変化に真っ先に気づいたのは、玲子だった。
「よく似合っていますよ」
そう優しく言う玲子と、はにかんだ笑みを浮かべるりんは、実の親子のようだった。
「鳴海兄様、なかなかお目が高いじゃありませんか」
先程、包みを開けろとせっついた志津も、満足げである。
「うちの店のに並んでいた中で、一番の品ですからな。正に大谷家の御内儀に相応しい品です」
黃山も、目を細めて褒めそやす。盛り上がる女性陣の横で、衛守がそっと黃山を手招いた。
「あれ、本当は兄上が悴殿の鍛錬をしたとしても、その労力が釣り合う品物ではないのでは?」
それは、鳴海も感じていた。確かに黃山の息子は悪童に違いなかったが、鳴海の手に負えない程ではなかった。もしや黃山は、かなりの便宜を測ってくれたのではないか。
「一言で申せば、鳴海殿の侠気に打たれました」
笑いを含ませながら、黃山も小声で答えた。
「武家の方々の生活も大変なのは、我々とてお察ししております。ですがこのようなご時世の中で、御内儀のために、あっさりと武士の矜持とやらの鎧を脱ぎ捨てられる御方は、そうおりますまい」
やはり、民間の学者と評されるだけのことはある。黄山は、妙に悟ったような言葉で〆た。
「もしや、水戸が……?」
鳴海は、それが不安だった。二本松からは若干距離があるが、尊王攘夷の志士らの聖地として、水戸藩は特別視されている。今回、図らずもりんと胸襟を開くきっかけを作った藤田芳之助などは、ひょっとしたら水戸の改革派に通じているのではないか。しつこく水戸に行かせてほしいと述べていたことも、不安材料の一つだった。
「可能性はあると思います」
黃山が肯く。
「守山にも手代をやって、探らせましょう」
「守山藩か……」
いつの間にか側にやってきた信義も、ぐっと眉根を寄せた。郡山の二本松領と阿武隈川を挟んで隣接する守山藩は、水戸藩の御連枝である。尊王攘夷を標榜する過激派、即ち倒幕を願う者等を守山藩を通じて二本松に入れないようにと、家老座上の丹波から、彦十郎家も内意を伝えられていたのだった。
鳴海が女性陣の小言にも関わらず、しばしば「道場に稽古に行く」というのは、藩内の尊攘派の実態を掴もうとしている面もあった。
「三春にも、水戸の天狗党の者らが出入りしているようだと、うちの手代が申しておりました。二本松領内にも天狗党の連中が忍び込んでいても、何ら不思議ではございませぬ」
側で聞いていた衛守の顔も、いつの間にか険しくなっている。長く続いてきた徳川の泰平の世も、近々敗れるかもしれない。現在は信成が番頭として富津在番の任に当たっているだけだが、大きな戦となれば、二本松藩内全ての士分が、藩公長国公のために命を捧げねばならぬ。勿論、一兵卒である鳴海や衛守も。
「私も尊王の理論は分かりますがね。そのために御三家の足元の連中が大老を殺すなど、論外でしょう」
黄山は、きっぱりと断言した。鳴海も、本能的に「幕府に忠義を誓うべし」という藩是に逆らう尊攘派には、嫌悪感を覚える。
「引き続き、御家老方や我々への報告も頼む」
信義が、黄山の手を握った。その手の内には、次の指令書が握られているはずだった。
「さて、御内儀の晴れやかなお姿を拝見して、幸せのお裾分けを頂戴しました。町人の私には、過分な馳走でございます」
打って変わって軽妙な口調で黄山が暇を告げると、女性たちは玄関まで見送りに出た。その中に混じったりんの佇まいは、おどおどしていた今朝までとは違い、どことなく人妻の余裕を感じさせた。
鳴海も雪駄を履いて黄山を見送ると、自然とりんの肩に手を回した。実のところ、りんには言っていなかったが、男の世界では、戦の前に女に触れると不覚を取るという俗諺がある。鳴海が女を遠ざけるのは、鬼神の申し子と言われる鳴海なりの験担ぎの意味もあった。だが、もしもこの先二本松に戦火が及ぶようなことがあれば、妻の一人すら慰められずに、どうして民や公を守れようか。
せめて、今晩くらいはりんの積年の思いに応えてやろう。
家に入ろうとするりんの耳元で、鳴海は囁いた。
「今晩は、二人で同じ月を見ようではないか」
その真意を解したりんは、真新しい髪飾りの珊瑚珠に負けないくらい、首筋を真っ赤に染めたのだった――。
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