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第二話
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鳴海が向かったのは、藤田道場である。道場の流派は小野派一刀流であり、文政年間に、中村藩出身の糸川一次という人物が縁あって二本松藩に仕えることになり、元々二本松藩にあった藤田家の娘婿となって道場を開いたのだった。当時は稀代の剣豪として知られ、その名は常州や上州などにあまねく轟かせていたと伝えられている。
鳴海がこれから手合わせをしようとしている男は、その孫だった。糸川は、二本松藩においては藤田三郎兵衛と名を変え、本家である八郎兵衛家とは別に独立した家を持った。だが、どのようなわけか藤田三郎兵衛家は永暇を出され、本家である八郎兵衛家にその剣技が伝えられている。当世の八郎兵衛某の剣技はさほどではないが、その弟の芳之助は、「祖父の再来」とまで言われる凄腕だった。
「御免」
鳴海が道場の引戸を開けると、案の定、芳之助が剣を握っていた。その手に握られた刀はもちろん刃を引いてあるのだが、やはり芳之助の太刀筋は目を瞠るものがある。
「これは彦十郎家の鳴海殿」
芳之助は、切先を下ろすと微かに微笑んだ。
「また、ですか」
芳之助は、鳴海の好敵手としてたびたび剣の相手を務めているのだった。鳴海の相手が務まる者は、藩内ではごく限られるからである。
彦十郎家の家格は、ときには藩の執政を務めることもある、千四百石という大身である。そんな鳴海に対しても忖度なく剣を打ち込んでくる芳之助を、鳴海は比較的好ましく感じていた。ただし、ある一点を除けば、の話であるが。
「そう嫌がってくれるな」
鳴海も、苦笑を浮かべた。三十になったばかりの鳴海に対し、芳之助は五つ上の三十五。やや年の差はあるが、家格は鳴海の方が上なので、対等に接しているというわけである。芳之助の傍らには、清吉という初老の家僕が控えていた。
「鳴海殿。では、いつものように四半刻三本勝負で宜しいでしょうか?」
「望むところだ」
そう言うと、鳴海は道場の片隅にある刀棚から、一本を手にした。そのまま青眼に構え、しばしすり足で間合いを測る。
刹那、芳之助の白刃が飛来した。鳴海の右肩を掬い上げ、流れで利き腕を斬ろうとしたのである。だが、鳴海がそれを素早く刀の峰で防ぎ、金属同士がぶつかる音が響く。そのままジリジリと力比べになるが、鳴海が一歩踏み出し、わずかに膂力で押し勝った。
「参りました」
芳之助が額に浮かんだ汗を、懐に忍ばせている手拭いで拭った。それに対して、鳴海は軽く頷いてみせた。決して芳之助が手を抜いたわけではない。今回の勝負はたまたま鳴海が勝っただけで、時には鳴海が負けることもある。
「今日こそ鳴海殿に勝って、御家老の丹波様へのお取りなしを頼もうと思ったのですがね」
本気とも冗談ともつかない芳之助の言葉に、鳴海の口元が険しさを帯びる。
「当主でもない私が、家老座上に取りなせるわけがないだろう」
これさえなければ、と鳴海はいつも思うのだった。
芳之助の願いとは、芳之助を水戸藩に遊学させてくれないかというものだった。もちろん向上心があるのは素晴らしいが、芳之助は遊学するには齢を取りすぎている。祖父のように広く剣技を学びたいというのが芳之助の口上だったが、ここ数年、水戸藩は過激な活動を繰り返している。そのため、二本松藩の上層部の間では、いかに御三家といえども、水戸藩の動きに対して警戒を怠るべからずという回状が回されているのだった。
「やっぱり、だめですかねえ」
ひょいと肩を竦める芳之助に対して、鳴海は口元を歪めた。冗談に紛らわせてはいるが、この男、いつかは何かを起こすのではないか。時にそんな危うさを、芳之助から感じるのだった。
その気まずい空気を繕うかのように、下人の清吉が鳴海の左袖をちょいちょいと引いた。
「何だ、清吉」
無礼を咎めようと思ったが、一応他家の家僕である。一抹の遠慮があった。
「鳴海様。右の御袖の付け根が、ほつれております」
言われてみて慌てて首を巡らすと、確かに下に着ている小袖の白が見え隠れしていた。しまった。先程の芳之助との試合中に、無意識のうちに剣が引っかかったのかもしれない。
みっともなくて、このまま屋敷に帰るわけにはいかないではないか。
「困ったな……」
滅多に物事に動じることのない鳴海であるが、結構身なりは気にする質である。いや、そもそも大谷彦十郎家の者がみっともない格好で出歩くこと自体、養泉や信義らから咎められる。また、女性陣は鳴海があちこちで憂さ晴らしのために試合を挑んでちょくちょく着物を傷めてくるものだから、その度に鳴海は小言を言われるのだった。針仕事は、女性の領分だからである。
「うちの妻も、兄の家族らと岳に遊びに行ってしまいましたしね……」
心底済まなさそうに、芳之助が頭を掻いた。言われてみれば、今日の藤田家は、人の姿が見当たらなかった。たまたま、家族で遊山に行ってしまい、芳之助は留守番だったらしい。
「取り敢えず、私のでよろしければ羽織をお貸しいたします。それを羽織っていけば、ほつれを隠せるでしょう。後日、お返しくだされば結構です」
そう告げると、芳之助は清吉に命じて無地の錆色の羽織を持ってこさせた。色は鳴海の趣味とは異なるが、当座しのぎにはなる。
「かたじけない」
とにかく、今日はもう試合にならない。鳴海は、拝借した羽織に袖を通すと、胴紐を結んで藤田道場を後にした。
鳴海がこれから手合わせをしようとしている男は、その孫だった。糸川は、二本松藩においては藤田三郎兵衛と名を変え、本家である八郎兵衛家とは別に独立した家を持った。だが、どのようなわけか藤田三郎兵衛家は永暇を出され、本家である八郎兵衛家にその剣技が伝えられている。当世の八郎兵衛某の剣技はさほどではないが、その弟の芳之助は、「祖父の再来」とまで言われる凄腕だった。
「御免」
鳴海が道場の引戸を開けると、案の定、芳之助が剣を握っていた。その手に握られた刀はもちろん刃を引いてあるのだが、やはり芳之助の太刀筋は目を瞠るものがある。
「これは彦十郎家の鳴海殿」
芳之助は、切先を下ろすと微かに微笑んだ。
「また、ですか」
芳之助は、鳴海の好敵手としてたびたび剣の相手を務めているのだった。鳴海の相手が務まる者は、藩内ではごく限られるからである。
彦十郎家の家格は、ときには藩の執政を務めることもある、千四百石という大身である。そんな鳴海に対しても忖度なく剣を打ち込んでくる芳之助を、鳴海は比較的好ましく感じていた。ただし、ある一点を除けば、の話であるが。
「そう嫌がってくれるな」
鳴海も、苦笑を浮かべた。三十になったばかりの鳴海に対し、芳之助は五つ上の三十五。やや年の差はあるが、家格は鳴海の方が上なので、対等に接しているというわけである。芳之助の傍らには、清吉という初老の家僕が控えていた。
「鳴海殿。では、いつものように四半刻三本勝負で宜しいでしょうか?」
「望むところだ」
そう言うと、鳴海は道場の片隅にある刀棚から、一本を手にした。そのまま青眼に構え、しばしすり足で間合いを測る。
刹那、芳之助の白刃が飛来した。鳴海の右肩を掬い上げ、流れで利き腕を斬ろうとしたのである。だが、鳴海がそれを素早く刀の峰で防ぎ、金属同士がぶつかる音が響く。そのままジリジリと力比べになるが、鳴海が一歩踏み出し、わずかに膂力で押し勝った。
「参りました」
芳之助が額に浮かんだ汗を、懐に忍ばせている手拭いで拭った。それに対して、鳴海は軽く頷いてみせた。決して芳之助が手を抜いたわけではない。今回の勝負はたまたま鳴海が勝っただけで、時には鳴海が負けることもある。
「今日こそ鳴海殿に勝って、御家老の丹波様へのお取りなしを頼もうと思ったのですがね」
本気とも冗談ともつかない芳之助の言葉に、鳴海の口元が険しさを帯びる。
「当主でもない私が、家老座上に取りなせるわけがないだろう」
これさえなければ、と鳴海はいつも思うのだった。
芳之助の願いとは、芳之助を水戸藩に遊学させてくれないかというものだった。もちろん向上心があるのは素晴らしいが、芳之助は遊学するには齢を取りすぎている。祖父のように広く剣技を学びたいというのが芳之助の口上だったが、ここ数年、水戸藩は過激な活動を繰り返している。そのため、二本松藩の上層部の間では、いかに御三家といえども、水戸藩の動きに対して警戒を怠るべからずという回状が回されているのだった。
「やっぱり、だめですかねえ」
ひょいと肩を竦める芳之助に対して、鳴海は口元を歪めた。冗談に紛らわせてはいるが、この男、いつかは何かを起こすのではないか。時にそんな危うさを、芳之助から感じるのだった。
その気まずい空気を繕うかのように、下人の清吉が鳴海の左袖をちょいちょいと引いた。
「何だ、清吉」
無礼を咎めようと思ったが、一応他家の家僕である。一抹の遠慮があった。
「鳴海様。右の御袖の付け根が、ほつれております」
言われてみて慌てて首を巡らすと、確かに下に着ている小袖の白が見え隠れしていた。しまった。先程の芳之助との試合中に、無意識のうちに剣が引っかかったのかもしれない。
みっともなくて、このまま屋敷に帰るわけにはいかないではないか。
「困ったな……」
滅多に物事に動じることのない鳴海であるが、結構身なりは気にする質である。いや、そもそも大谷彦十郎家の者がみっともない格好で出歩くこと自体、養泉や信義らから咎められる。また、女性陣は鳴海があちこちで憂さ晴らしのために試合を挑んでちょくちょく着物を傷めてくるものだから、その度に鳴海は小言を言われるのだった。針仕事は、女性の領分だからである。
「うちの妻も、兄の家族らと岳に遊びに行ってしまいましたしね……」
心底済まなさそうに、芳之助が頭を掻いた。言われてみれば、今日の藤田家は、人の姿が見当たらなかった。たまたま、家族で遊山に行ってしまい、芳之助は留守番だったらしい。
「取り敢えず、私のでよろしければ羽織をお貸しいたします。それを羽織っていけば、ほつれを隠せるでしょう。後日、お返しくだされば結構です」
そう告げると、芳之助は清吉に命じて無地の錆色の羽織を持ってこさせた。色は鳴海の趣味とは異なるが、当座しのぎにはなる。
「かたじけない」
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