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怨霊(2)

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 翌朝になると、女童は息を吹き返した。だが、さすがにこのような環境の中で、身重の芳姫を置いてくわけにはいかない。父である山城守は、一旦城から程近い保土原館に芳姫を引き取った。少なくとも、須賀川城よりは安心できるだろう。
 それにしても、図書亮もぞっとしたことには変わりがない。元々怪力乱神の話は信じない質なのだが、あの女童は田舎育ちで、歌の上下も知らない無教養の人間である。物の怪が消え去る前に詠じた歌などは、鳴海や虚貝うつせがいを詠み込むなど、かなり高度な技法が散りばめられていた。この一事からしても、怨霊の正体が三千代姫であるのは、疑う余地もなかった。そのような見事な歌を詠める達人と言えば、自ずと限られる。
 三千代姫が恨んでいるのは、為氏のみに対してなのか、それとも和田の衆皆を恨んでいるのか。
 明沢の述べた「怨霊」の比喩は、決して大げさではなかった。
 それからというもの、怨霊は消え去るどころか、芳姫が宿下がりをしたのを待っていたかのように、為氏の枕元に度々立つようになった。為氏の浅い眠りを妨げるかの如く、その耳元で二人の思い出を語ったり、恨み言を述べていくというのである。
 須賀川との戦以来、豪胆さも見せていた為氏だが、さすがにこの怨霊には参ったらしい。ある日、たまたま宿直の当番が巡ってきていた図書亮に、為氏は信じられない話を聞かせた。
「図書亮……。三千代姫は、須賀川に戻る前にお主の家に立ち寄ったそうだな」
 それは、以前須賀川城の攻防からの帰り道でも、為氏が口にしていたことだった。
「確かにお立ち寄りになられました。どうも、女人同士で語り合いたいことがあったようです」
 図書亮が掛けられたのは、「生まれてくる子供を大切にせよ」という言葉くらいだった。三千代姫に仕えていたりくが身籠ったと知り、その祝辞を述べてくれたのである。あの心優しい姫が、怨霊に化して為氏に仇をなそうとしているというのも、図書亮には信じ難い話だった。
 為氏はしばらく言い淀んでいたが、やがて小さな声で呟いた。
「御台の怨霊が告げるには、あの時、御台も身籠っていたと……」
 いくら何でも、話が突拍子もなさすぎる。だが、目を伏せて語る為氏の顔は真っ青だった。
「御屋形。怨霊の戯言に惑わされますな。女人の中には、稀に想像が行き過ぎて、子を宿したと勘違いする者もおるそうです」
 やはり為氏の隣室で宿直の番に当っていた雅楽守は、ばっさりと断言した。怨霊の妄想ではないかと、雅楽守は一笑に付したのだった。だが、為氏の顔色は回復しない。それを見た雅楽守は一つ溜息をつくと、図書亮に薬湯を持ってくるように命じた。
 確かに、為氏の怨霊への恐怖心は、行き過ぎの感も否めない。新しい御台である芳姫が身籠っている今、それに釣られて気弱になっているのではないか。そう思いながら、図書亮は為氏のための薬湯を整え、寝所に戻った。
「御屋形。身に覚えがおありなのですか?」
 周りの者に聞こえないように、声を潜めて図書亮は主に尋ねてみた。
 為氏と三千代姫の間の子は、結婚以来その気配がなかった。結婚した当初は二人とも子供だったこともあり、周りは主夫婦の生活に対し、比較的寛容だった。だが、結婚から三年も経てば二人とも大人の体になっていたはずである。現に新しい妻である芳姫が懐妊中であるのだから、三千代姫が身籠っていたとしても、何ら不思議ではない。雅楽守のように、必ずしも三千代姫の戯言とは片付けられなかった。
 図書亮の問いに対して、為氏は微かに眉根を寄せたのみだった。それだけでは怨霊の言葉が本当なのかは分からない。為氏も連日怨霊に悩まされて、疲れているだけなのだろうか。
「ひとまず、薬湯をお飲みなされませ」
 図書亮が持ってきた薬湯を、為氏は素直に飲み干した。だが、このままでは家臣に対して示しもつかないし、為氏自身のためにもならない。
 翌朝、夜の勤めを終えて帰宅する前に、図書亮は登城してきた美濃守を捕まえて、この件を報告した。美濃守はいつも通りしかめっ面をして聞くのみだったが、雅楽守のように笑い飛ばすことはなかった。

 ――帰宅した図書亮は、りくに零さずにはいられなかった。
「御屋形が亡き御台を想う御心は、誠に尊いもの。だが、新しい御台を迎えられて御子も生まれようというときに、怨霊の妄言に振り回されるのは、いかがなものか」
 そんな夫を、りくはじっと見つめた。
「妄言?」
 そこから先は、さすがに言うのが躊躇われた。
「御屋形が申されるには、怨霊は御屋形の御子を宿していたと、御屋形に告げたそうだ」
 思い詰めた女人の妄想ではないか。図書亮は、雅楽守の言葉をそのまま伝えた。だが、りくは首を横に振った。
「亡き御台さまがお子を宿していたのは、まことだと存じます」
 図書亮は思わず、りくの顔をまじまじと見つめた。そんな図書亮に構わずに、りくは思いもよらない言葉を告げた。
「姫が我が家にお立ち寄りになられたときに、私に仰ったのです。『我が身に宿っている和子と、そなたらの子とが乳兄弟になれたら、どれほど良かったか』、と」
 りくの告白を耳にした刹那、血の気が引いた。全身に震えが走る。思わずりくの肩を掴み、強く揺さぶった。
「お前、どうしてそれを……」
 詰りかけた図書亮を、りくは押し留めた。
「申し上げられるわけがないでしょう。あの時、美濃守さまや伯父上を始めとする和田の方々は、どうあっても姫を離縁されるおつもりでした。仮に姫が須賀川へ戻られて御子をお産みになられたとしても、きっと治部大輔殿はその御子の命を奪われたに違いありません。姫は最初から御子共々、命を捨てられるお覚悟だったのです」
 涙を流しながら訴える妻の告白に、図書亮は呆然とした。りくの言う通りだとすれば、姫が怨霊となるのも頷ける。和田と須賀川の板挟みになり、子が宿ったことを告げられないまま離縁された。夫である為氏にすら、告げられずにいたのかもしれない。あの時、為氏も辛かっただろうが、三千代姫の苦悩は想像を遥かに超えるものだったに違いない。
 夫に懐妊を告げることすら出来ず、黙って和田を去った姫。その心中を知らぬまま、かつての夫が新しい妻を迎え、初めての子が出来ると浮かれているのであれば、三千代姫が怨霊となっても、何ら不思議ではなかった。 
「せめて図書亮さまは、亡き姫のお言葉を信じなさいませ。そうでなければ、あまりにも姫がお気の毒というものです」
 りくに言われるまでもなく、図書亮はその言い分を信じるしかなかった。

契しもみとせ鳴海のうつせ貝身を捨るこそうらみなりけれ

 霊が再三詠じたあの歌は、素直に解釈すれば「三年も共に過ごしたのに、今、自分の身は現世うつせにない。体を捨てたのが恨めしい」という意味である。それだけでも涙をそそられるが、りくの告白を聞いた後では、また別の意味が加わってくる。
 自分と生まれてくるはずだった我が子を犠牲にしたことすら、新しい妻子の為に忘れようとしているのか。一緒に過ごした年月は、何だったのか。むしろこちらの方が、姫の自然な心情ではないだろうか。

 それからというものの、怨霊はたびたび姿を目撃されるようになった。とりわけ為氏の枕元には毎晩のように現れ、日に日に為氏はやつれていった。
 怨霊が為氏の子を宿していたとの告白は、家臣の間でも噂話として広まっていた。だが、りくの告白を聞いた図書亮は、仲間と共に怨霊の噂話を笑い飛ばすことが出来ず、黙ってその場を離れることも珍しくなかった。
 そのような図書亮の曖昧な態度が、家中の者は気に食わなかったのだろう。近頃、図書亮が他の者たちと顔を合わせると微妙な空気が流れるのを、図書亮は感じていた。
 かつて鎌倉から共に下向してきた同僚として親しく交わっていた相生あいおい兄弟なども、近頃はどことなく余所余所しい。礼儀正しく接してはいるが、腹を割って話せるような空気ではないのだ。もっとも、和田の者らが須賀川に移住してきてからは、新参者も本格的に二階堂家臣団の直参に組み込まれ、各々が自分に与えられた仕事に夢中になっている。
 幼馴染みの藤兵衛も、既に源蔵の配下に組み込まれて堤に所領を賜っており、その管理で忙しかった。
 聞き捨てならない噂話を持ち込んできたのは、意外にも、藤兵衛の妻のはなだった。藤兵衛夫婦が引っ越した先は北町にある奉公人町だったが、りくを訪ねて遊びにきたついでに、「夫の愚痴」をこぼしに来たのだった。
 藤兵衛が言うには、図書亮があのような姫との縁談を勧めなければ、御屋形が余計な悩みを抱えることもなかったのではないか。そんな噂が男衆の間で流れているというのだ。
 その話を聞いて、図書亮はげんなりとした。あの縁談を図書亮が持ち込んだのは確かだが、図書亮一人が強く勧めたわけではない。家中全体で話し合って決められたはずだった。それを今更蒸し返されても困る。
 藤兵衛は図書亮の幼馴染だ。その一方で他の家臣ともうまくやっていかねばならず、最低限の噂話だけは拾い集めているのだろう。図書亮には言えないその愚痴を、はなに零したのだった。
「人の口というのは、無責任ですわね」
 りくも、はなが聞き込んできたという話に腹が立つらしかった。かと言って、三千代姫の懐妊を証言できるのはりくだけで、とても人に告げる気にはならないという。たとえ三千代姫のために弁じたとしても、新しい御台である芳姫の懐妊を祝ぐ空気の中で、面白おかしく伝えられるだけだろう。
「うちの夫も、そのような話を聞かされて困っているようです」
 藤兵衛やはなを責めるわけにもいかず、図書亮は唸るしかなかった。
 
 だが、怨霊はあまりにもしつこかった。城内にある各寺院はもとより、二階堂氏専用の修験道場である徳善院でも修験行者が加持祈祷を行った。また、陰陽寮を封じて結界を張ったが、霊は一向に立ち去ろうとしなかった。美濃守も遠く鎌倉の知己を頼り、高僧・貴僧が須賀川にやってきて大法秘法を行ったが、霊魂の立ち去った気配は感じられないと告げた。特別為氏の身に災いをもたらしているわけではないが、既に存在自体が為氏を苦しめているのであり、為氏の顔は疲労の色が濃く、目の下にはくっきりと隈が出来ていた。目元も落ち窪み、日々やつれていく。誰が見ても、気鬱の病に罹ったのは明らかだった。二階堂家臣団も大きくなり、為氏が政務の場に出なくても特に支障はない。だが、主が気鬱の病で床に臥せってしまい、命が露とも知れないのでは、さすがに家臣らも見過ごしているわけにはいかなかった。
 またある時には、美濃守が時宗系の寺院である金徳寺の門を潜るのを見かけたこともあった。図書亮が買い物をしに中町に出たときに、その姿を見かけたのである。美濃守が庇護しているのは禅宗系の寺のはずだが、宗派を越えて主の健康回復の祈祷を頼むために、訪れたのかもしれない。
 御前会議が開かれている今は、襖一枚を隔てた向こうで、鎌倉から呼ばれた高名な薬師が、為氏の脈を取っている。さらにその隣の部屋では巫覡が祈祷を行っているが、一向に回復の兆しが現れない。
「いっそ、宮を建立して御霊を神として崇め奉り、鎮めたらいかがでしょう」
 そう言い出したのは、樫村清兵衛だった。美濃守の弟の須田佐渡守に仕える男である。
「かつて菅丞相は太宰府へ流罪となった恨みが深く怨霊と化して、延喜天皇を悩ませました。山門の貴僧高僧が大法を行ったにも関わらず験がなく、怨霊は一向に去る気配がなかったとの由。それで北野の地に社を建て、天満大自在天神と勅号を賜り、御神として崇め奉ったところ、丞相の怨霊はようやく去られたそうでございます」
 それは、広く知られている故事だった。確かに、三千代姫と思われる怨霊はなかなか去らない。為氏や和田衆に恨みを抱くのは尤もであるが、このままでは主の命が危うい。
「その案、よろしかろう」
 襖を隔てた向こうで臥せっている主を気遣いながらも、美濃守は即座に樫村の意見に賛同した。
「御屋形も、強いて反対は致すまい」
 雅楽守が、ほっとしたように頷く。彼も、姫の酷たらしい最期を看取った一人である。あの惨劇にどこか責任を感じていたのかもしれない。
「で、宮はどこに建てる?」
 守屋筑後守が美濃守に尋ねた。
 現在、須賀川の街中は各寺院や町家の建設で賑わっている。怨霊は須賀川城に出没しているのだからその一角に建てられるのだろうと図書亮は予想したが、美濃守の提案は意外なものだった。
「和田館の裏手に、大宮比売命おおみやのめを祀った社がある。末社に蟇目鹿島神社があり、その昔、八幡太郎義家公が東夷征伐のために奥州下向の折、蟇目の矢を一矢お納めになられたために蟇目大明神とも言う。その宮を大きく改修し、三千代姫も神として奉ろう」
「ふむ。和田にのう……」
 山城守がしばし考え込んだ。主である為氏が臥せっているため、このところ山城守が二階堂一族のまとめ役を担うことが多いのだ。娘が身籠っている今、三千代姫の怨霊から娘を遠ざける意味でも、山城守には好都合に違いなかった。
 あの場所は、図書亮も和田に住んでいた頃に通りかかったことがあった。さすが自領内のことだけあって、美濃守は博識である。
 さらに畳み掛けるように、美濃守は「神号を姫宮と致そう」と付け加えた。
「良いのではないか」
 山城守が頷いた。他の家臣も、反対する様子は見られない。こうして、姫宮神社の建立が決まった。

 遷宮の日になった。家臣一同、美濃守の計らいで和田館に集い、儀式が始まるのを待っている。この祭礼には、為氏も病を押して遷宮の行事に出席することになっていた。
 和田の土地には不釣り合いなほど立派な催しで、かつての金剛院開山のときの賑わいを思い起こさせた。あの時は、家臣らに黙って主夫妻が岩間館を抜け出し、図書亮とりくで岩間館へ連れ戻したのだった。その三千代姫は既にこの世の人ではなく、今、神となって祀られようとしている。
 神社の入口には注連縄が引かれ、この祭礼の導師である秀快・明観法印が朽葉色の法衣に金襴の袈裟、縹の帽子を纏ってしずしずと進んでいく。両法印は水晶の数珠や末広の金扇、白綾の襪を身に着けていた。前日は雨が降っていたが、この晴れの日を祝ぐかのように、今日は秋の空が澄み渡っている。法印らが草鞋を濡らしながら静かに歩み出て、その後に門徒や同門の僧侶らが数百人も続いた。素絹そけんの衣や黒衣を纏った僧侶らが鐃鉢を鳴らし、朗々と引声短声の声明が唄い上げられる。金襴錦の旗が天蓋神輿に差し掛けられていて、瓔珞が風にたなびいて鳴り合っている様子は、荘厳な美しさがあった。
 図書亮も神妙に僧侶らの唱える声明に耳を傾けていたが、ふと顔を上げると一人の僧侶の姿が目に止まった。
 あの明沢が、僧侶の一団にちゃっかり混じっているではないか。
(あの男……)
 どうやら明沢は、本人が言うように本物の僧侶でもあったようだ。にわかには信じ難いが、晴れの儀式への参列が認められているところを見ると、それなりの僧侶の位階も持っているに違いない。その一方で、間諜の役割もこなしている。だが、この目出度い場において敢えて騒ぐこともあるまいと、図書亮は思い直した。
 法印らの導きを受けて、立烏帽子を被り黒い浄衣を纏った神主が、ぬさを捧げる。その前には、玉石と檜扇が祀られているのが目に入った。三宝に載せられた檜扇は、花の宴の折、三千代姫が手にしていた物だった。為氏が、姫の形見として寄贈したに違いない。
 折烏帽子を身に着けた神人や社司らが、桑の弓や蓬の矢を持ち、太刀を取って鉾を捧げる。その一団が、笛を吹いて鼓を打ち、鈴を振った。髪を結い上げた巫覡が身装鈴を持って遷宮の供奉を勤め、その後には八人の乙女、二十五人の神楽男、獅子田楽が続く。
 三千代姫は、信心深い姫だった。彼女がこの祭礼を見たらどれほど喜んだだろうか。
 こうして神輿遷宮の礼が終わり明観法印が諷誦文ふじゅもんを読み、秀快法印が説法して、諷経ふぎんが終わった。いよいよ、遷宮の行事も終盤である。
 社人らは音取りの笛を吹き出し、いとうの鼓を打ち、先程の八乙女らのように身を翻す。拍子を整えて神歌を唄い、爽やかに鈴を振りつつ五度袖を翻しながら舞うのを、一同は感嘆の眼差しで見つめていた。
 一連の神事が終わると、さあっと空から光が差した。その中で、乙女らが真っ白な袖を翻し、これと競うかのように楽人らの音が鳴り響いている。その光景は神女の降臨とも見えた。
 獅子田楽ししでんがく流鏑馬やぶさめの神事も終わると、貴賤を問わず、見物客に赤飯や神酒が振る舞われた。その振る舞いは、この和田を治める須田一族が用意したものである。安藤左馬助と共に、樫村や相生兄弟、そして藤兵衛が立ち働いているのが見えた。皆、須田一族の郎党として働く者らである。
 明日にはまた、取木村に出向いて領民たちの慰撫に務めなければならない。取木村の者らは人は良いが、新しい領主に馴染んでくれるまでは、まだまだ時間がかかりそうであった。
「一色殿。お疲れのようですな」
 近頃流れている噂を気にして、何となく家臣団から離れていた図書亮に話しかけてきたのは、明沢だった。
「少し、人に当たっただけた」
 図書亮は、無理に笑顔を浮かべてみせた。華やかな催しに、多少の疲れを感じていたのは確かだ。
「一色殿にとっても、これで一区切りついたのではございませぬか」
 明沢はそう言うと、うっすらと笑みを浮かべた。どことなく挑戦的なその言葉に、図書亮は思わず腰に手を当てた。だが、今日はめでたい日である。この僧侶と張り合うのにも、そろそろ疲れてきた。
「御坊。いい加減に正体を明かしたらどうだ」
「某は、一介の僧に過ぎぬ」
「嘘を申せ。一介の僧が、都の情勢に通じているはずがなかろう。それに、和田の陣割についてもな。生臭坊主が、殺生までしおって」
 図書亮の言葉に、明沢は黙って笑っている。美濃守に新領のことで掛け合いに行った後、図書亮なりに考えてみたのだ。
 図書亮は、三千代姫の兄である行若を見逃した。それを知っていたのは、あの場にいた牛頭しかいない。牛頭はそれを美濃守に告げた。また、明沢はある日突然に、図書亮の眼の前に現れた。一介の僧が和田の陣割についての知見を早々と得ていたのも不思議だったが、明沢と牛頭が同一人物だとすれば、辻褄が合うのだ。
「ばれたか」
 秘密が露見したというのに、明沢には全く悪びれた様子がない。この明沢を使嗾していたのは、紛れもなく美濃守だろう。
「我が主の誉の為に申しておくが、美濃守殿は、お主を疎んじておるわけではないぞ」
 明沢の言葉に、図書亮は眉を上げた。
「どこがだ」
 新領のことで美濃守に掛け合いに行った際には、行若のことを持ち出して暗に脅された。てっきり取りなしてくれると思った安房守は、美濃守の判断を全面的に支持し、今の図書亮は冷や飯食いと言っても良い。そこへ、今回の怨霊騒動で図書亮を悪く言う者も出始めていた。人の噂も七十五日というが、いつまでも妻や娘をこの噂の渦中に晒すわけにはいかないではないか。
「まさか、あの噂までお主が流したわけではあるまいな」
 図書亮が凄むと、明沢は肩を竦めた。
「姫の怨霊が御屋形を悩まし奉るのは、誰もが予想外だった。よって、あの噂は我等が流言を流したものではない。お主は筋目も良く、そこそこ功も立てたろう。それを妬む者もいたということだ」
 そう言われると、黙るしかなかった。あの、山城守の挑戦的な眼差しを思い出したのだ。二階堂一族の内側でも、密かに新たな権力闘争が始まろうとしているのではないか。
 だが、そのために主を傷つけるのは、もう真っ平だった。
「美濃守殿のお考えは、儂にも読み切れぬところがある。だが、あの御仁は心底二階堂家の為に忠義を尽くされる御方だ。美濃守殿がお主についてどのように考えているかは、いずれ語り合われる機会もあろう。少なくとも、政の絵図の先読み能力については、安房守殿より一枚上手だな」
 明沢の言葉は、図書亮も納得できるものがあった。安房守は図書亮を婿として迎え入れたが、あくまでも箭部一族の一員としてしか扱わず、安房守自身も図書亮の能力を存分に活かしきれていないところがある。だが、美濃守は違う。明沢のような者を自在に扱い、都や鎌倉にも働きかけようと試みている。
 明沢の言葉が真実だとすれば、この先の身の振り方については、考え直さざるを得ない。美濃守が図書亮を二階堂家中から外に出したいとすれば、必ず何か目的があるはずだ。
「明沢。私も、加持祈祷を一つ頼んでも良いか」
 図書亮は、明沢に思い切って、一つ頼み事をすることにした。
「易いことだ。お主とは、この先も長い付き合いになりそうだしな」
 明沢はそう言うと、にやりと口端に笑みを浮かべた。
 これから待ち受ける未来を思うと、思わず身が震えた。明沢を全面的に信じるわけではないが、りくだけでなく、図書亮自身も、あの戦では死線をくぐり抜けることができた。ついでのようではあるが、この明沢は確かに図書亮の戦勝祈願の祈祷も行ってくれた。胡乱の者でありながら、法力も備わっているのだろう。このような者を使嗾する美濃守のことだ。今までの図書亮への処置も、何か考えがあってのことに違いない。

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