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神仏の功徳

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 春に白方神社へ起請文を奉納したものの、為氏はそれ以来治部大輔の討伐については特に触れなかった。須賀川衆の耳に入ってはまずいものでもあるし、為氏自身が御台と仲睦まじい様子を見せているので、さすがの四天王も、治部大輔への非難を大っぴらにするのは控えているらしかった。
 あの花の宴で和田衆らの微妙な空気を察知して咄嗟に切り返した三千代姫の能力は、確かに四天王が警戒するのも、無理はないのかも知れなかった。
 そんなある日、図書亮が峯ヶ城へ伺候すると、珍しく為氏と美濃守が言い争っていた。
「須賀川の年貢がまだ不安定にも関わらず、寺社仏閣を建立する余裕はございません」
 美濃守が、為氏を強く諌めている。
「何事です?」
 図書亮は、安房守に尋ねた。安房守は、やれやれといった様子で両者から少し離れた場所で、二人の諍いを観察している。
「御屋形が信州の諏訪明神を勧進したいと仰せになられておる」
「諏訪明神ですか……」
 図書亮は唸った。
 諏訪明神は神社の中でも最も古い歴史を持つ社である。信州の国生みの神であり、為氏はその神力に与ろうとしているのかもしれない。
 安房守によると、二階堂氏は信州にも縁があるらしい。その縁で、為氏も諏訪明神を私かに信仰しているらしかった。
 問題は、その社を維持していくための費用である。社を勧請するとなれば、そのための社領も必要だ。美濃守は、そのための費用を捻出するのは難しいと言っているのだ。
「平時ならば、問題はございませぬが……」
 暗に、現在は平時ではないと言いたいようだった。須賀川から三千代姫を貰い受けたものの、主夫婦の間には相変わらず子供のできる気配はない。もちろん、治部からも何も言ってくる気配もなかった。須賀川とは停戦しているだけに留まっており、相変わらず和解しているとは言い難い。睦まじい様子を見せているのは、主夫婦くらいのものである。
「ですが、兄者。須賀川の衆を始めとする土地の者に対して、我等を侮らせないというのは、私も賛成です」
 そう述べたのは、須田兄弟の三男、秀房だった。またの名を、兵衛尉、三郎兵衛とも呼ばれている。彼は袋田から牛袋の辺りを差配していて、その地や周辺の国人らを束ねている。須田一族だけで岩瀬郡の三分の一を半ば領有しているのだから、いかに二階堂一族の末節に連なるとは言え、治部大輔も須田一族を無視できるわけはない。どうやら秀房は、西部衆や北部の者らも束ねて治部大輔を追い詰めようとしているらしい。その者たちの心の拠り所となる諏訪明神の勧請は、賛成だというのだ。
「社領はどうする」
 兄の問いに、秀房は地図の一箇所を指した。
「牛袋村を、一村全て社領と致します」
 随分と思い切った寄進である。
「待て。あの辺りには確か……」
 遠藤雅楽守が眉を顰めた。
「左様。オタキヤ様が祀られています。オタキヤ様と合せて、我等の鎮守と致しましょう」
「なるほど。それならば土地の者らも納得するだろう」
 雅楽守は、肯いた。
「雅楽守さま。オタキヤ様、とは?」
 まだ土地に根を下ろして日が浅い藤兵衛が、雅楽守に尋ねた。
 雅楽守の説明によると、釈迦堂川の北の方、牛袋庄にある小高い丘に、建弥依米命が自ら祭主となって神祇を祀り、自らその場所で新穀を炊いてこれを神前に捧げて神恩に奉謝したと伝えられている場所があるという。その故事に因み、その神域は「オタキヤ」と呼ばれているというのだ。既に神社としての格を持ってはいるが、そこへ更に格式の高い諏訪明神を勧請し、周辺の者たちに為氏の正当性を暗に認めさせようというのである。
「建弥依米命……。どこかで聞いたような……」
 名前に聞き覚えはあったが、図書亮はまだ岩瀬の地祇を全て把握しきれていない。そんな図書亮に、少し呆れ気味の視線を送って寄越したのは、安房守だった。
「今泉の白方青雲神社でも、御名を見ただろう。国生みの際に、石背国造いわせのくにつこに叙された御方だ。建立されたのは白方神社の方が先かもしれぬが、オタキヤ様も須賀川の民の信仰を広く集めている。それに加えて諏訪の神を勧請するとなれば、地祇の庇護もより強固なものとなろう」
「ははあ」
 一族の長の言葉で、図書亮も建弥依米命の名を思い出した。
 土地神や諏訪明神の庇護を申し出ることで、為氏と治部大輔のどちらにつくのか迷っているこの土地の国人らに対し、為氏の度量を広く知らしめることにもつながる。為氏が二階堂の当主であることを知らしめる案としては、悪くない。
 そこまで為氏が考えていたとすれば、為氏はなかなかの知恵者なのかもしれなかった。
「あそこの大祝部に、誰か適任の者がいるか?」
 美濃守の質問に、秀房は肯いた。
「大場因幡守氏顕がよろしいでしょう」
「ふむ……」
 美濃守はしばらく思案していたが、雅楽守に視線を投げかけた。
「大場ならば、間違いはないな」
 あの起請文では名前を見なかったが、どうやら四天王の間では信頼されている者のようだった。
 寺社は、時には戦の際に篭もる場ともなる。当然、信頼できる者を置く必要があった。
 ようやく、家臣たちの意見は「諏訪明神を勧請する」という方向でまとまった。その様子に為氏がほっとため息をついたのを、図書亮は見逃さなかった。

 帰宅後、図書亮はりくの膝に頭を載せて、つらつらと物思いに耽った。
 図書亮の見る所、為氏は須賀川の衆と諍いを起こしたくない。だが、家臣らの言うように治部大輔のことは何とかしなければならなかった。
 和田も駅所や船着場があり、それなりに殷賑の街ではある。だが、田村や石川からの攻防を考えた場合、できるだけ早い時期に須賀川に移った方が、主の身の安全を守れるに違いなかった。また、西衆への統治を考えた場合、和田では東に偏りすぎるのだ。
 四天王らは、それも考慮して須賀川へ為氏を入城させようとしているのだろう。今のままでは、宿敵である田村などから見た場合、為氏はただの「和田に寄寓している二階堂一族の一人」としてしか、見なされない。
 この土地へ来た当初は子供だと思っていた為氏も、四天王のような家臣に囲まれて教育されているうちに、段々と強かさを身に着けてきたように思われる。それだけに、御台との仲睦まじい様子は一際微笑ましくもあるのだが、家臣としては時に歯痒さを感じるのだろう。
 こよりで図書亮の耳を掃除してくれていたりくが、ふっと図書亮の耳に息を吹きかけた。
「何をする」
 こそばゆさに身をくねらせ、思わず体を起こした。
「また難しいことをお考えになっていたでしょう」
 その口元は、緩んでいた。
「仕方ないじゃないか。御屋形に使えている以上は、主の身を案じるのが仕事なのだから」
 御台のような賢しさはないが、りくは図書亮の気分を的確に当てて気遣いをしてくれる。気鬱になっていると見れば、さり気なく好物や酒を用意してくれるし、主夫妻の様子については、実は図書亮よりもりくの方がよく把握している。
 それでいて表向きの話はあまり持ち出さないのが、りくの良いところだ。家にいるとき位は、肩の力を抜いて過ごしたい。
「りくは、オタキヤさまを知っているか?」
 図書亮の問いに、素直なりくは首を横に振った。
「私の育った埋平うずだいらの木舟城の辺りの氏神は、蟇目ひきめ鹿島神社ですから。西衆の方々とは祭神が違うのですよ」
「ふうん」
 結婚してから二年目になるが、まだまだ知らないことばかりだ。
「蟇目というのは、あれだっけ?坂上田村麻呂の伝承に出てくるという……」
 りくが肯く。
「そうです。この辺りでは石川にある蓬田よもぎだ山を根城にしていた夷(えびす)賊がいて、田村麻呂は小倉山にある蟇目鹿島神社で祈願し、一夜で蓬田山の賊を討ち取ったというお話」
 その話はいつぞや酒宴で戯言として、舅である箭部下野守が話していた気がする。神前において、火(南)、水(北)、木(東)、金(西)、上(中央)に五本の矢を射る。そして魔除けを祈願し、祈願の終わりに空弓を弾いて弓弦の音を立てると、神力を得られるというものだった。
「オタキヤ様の話は、安房守の伯父上や雅楽守様がお詳しいでしょうけれど……。昔と違い、今は東西の垣根を超えて御屋形さまを守り立てようと、須田の皆様や伯父様方はあちこちと紐帯を結ぼうとしていますから。そのうち東も西も関係がなくなっていくのでしょうね」
 そういうりくの口元には、やや苦めの笑みが浮かべられていた。だが、考えようによっては、今のような世でなければ、余所者の図書亮とりくが結ばれることもなかったのだろう。
「御屋形はともかく、御台はオタキヤさまの話を知っているのかな」
 図書亮は、ふと呟いてみた。
「どうでしょう」
 りくも、眉を曇らせた。
「お父上である治部大輔さまは、地祇の恩を忘れて神社を毀たれたのではなかったでしたっけ?」
 そうだったなと、図書亮はあの起請文の一文を思い出した。どこの神社かは明かされなかったが、おそらく須賀川にある神社なのだろう。為氏は鎌倉育ちだからこの地の地祇について知らないのは仕方がないとしても、須賀川育ちの三千代姫はどうなのか。教養を備えた姫ではあるが、父親が地祇をおろそかにしているくらいだから、案外地祇についての知識はないのかも知れなかった。当地の地祇についての知識を備えていないとすれば、それもまた和田衆の反発を買うに違いない。  
「ですが、仮に御台さまがオタキヤさまにお参りに行きたいと念じられたとしても、きっと周りの者が止めるような気が致します」
 りくはそう言ってため息をついた。
「そんなにまずい空気なのか」
 日頃は表仕えが中心の図書亮ですら、それは気になる。
「須賀川の方々は、和田の者が何を考えているかその詳細まではご存知ないようです。ですが、あの花の宴で姫が舞われたときに、姫が詠じた『竜女の詩』の模様を由比様が皆に伝えてしまって……。御台さまのお覚悟はご立派ですし、由比様もそれを伝えて皆を戒めたかったのでしょう。ですが……」
「面当てと捉える者もいる、ということか」
 図書亮も、ため息が出る思いだった。和田衆と須賀川衆の溝は、相当に根深い。主夫婦以外は。
「私、ただの武人の妻で良かったと思います」
 りくの言葉は、わからなくもない。だが、一つ引っかかる箇所があった。
「ただの、はないだろう。仮にも夫に向かって」
 図書亮のぼやく言葉に、りくが吹き出した。一通り笑い転げるりくが、図書亮はどうにも面白くない。だが笑い納めると、りくは真面目に言葉をつないだ。
「ただの、でいいのです。少なくとも、御屋形さまたちのように家中への体裁を気にすることがなくて済むのですから」
 りくの言葉に、図書亮は妻を見直す思いだった。確かにその通りだ。りくは、御台のような賢さや教養はないかもしれない。だが、彼女は御台とは異る賢さを持っている。
「私は、図書亮さまと一緒にいられるだけで十分幸せなのです」
「可愛いことを言ってくれる」
 図書亮は、思わず妻を抱きしめた。

  さらに翌年、為氏は岩瀬村にある八幡宮を奉還すると言い出した。
「今に須賀川は寺社だらけになるのではないか」
 宍草与一郎は、そう述べて苦笑を浮かべた。
「いや。御屋形なりにお考えになってのことらしい」
 安藤左馬助が、与一郎の言葉を遮った。
「御屋形が奉還されようとしている八幡宮は、元々は岩瀬の奥地にあったと言われている。本格的に、須賀川に落ち着くために、八幡宮を遷宮して地祇となってもらおうということだろう」
 帯刀の言葉に、図書亮は納得した。
「八幡神は阿弥陀如来が本地仏だしな。かつ、武の神の神祀の力を借りて、治部討伐の決意を見せようということか」
 一応、筋は通っている。帯刀は図書亮の言葉に軽く肯くと、さらに言葉を繋いだ。
「もちろん、それもある。だが、それだけでなく今度八幡宮を奉還しようとしている場所は、須賀川城の裏鬼門の方角だ」
 図書亮は、脳裏に須賀川の絵図を思い浮かべた。大黒池の裏手のところに、こんもりとした森がある。為氏は、そこを鎮守の森としたいらしい。
 安藤によると、天喜五年(一〇五八年)、源頼義が奥州の安倍氏討伐のためにこの地に立ち寄った際に、石清水八幡宮の分霊を勧請創祀したと言われている。八幡神は平安時代以降、清和源氏や桓武平氏の尊崇を集めており全国各地で八幡宮を勧請されているから、この土地に八幡宮があったとしても不思議ではなかった。
 また、裏鬼門は南西の方角である。陰陽道では裏鬼門の家相が悪いと夫婦間に受難があり、特に妻に災いが及ぶと言われている。
 そっと首を巡らして振り返ると、美濃守がやや苦っぽい表情を浮かべている。多くは語らないが、美濃守も為氏のもう一つの意図に気付いたようだった。
 為氏としても、根本としては治部大輔の増上慢は許しがたい。だが、それ以上に三千代姫への愛情が勝っているのだ。治部大輔への怒りと妻への愛情の板挟みになっている。そのために、表向きは治部討伐の決意を家臣に示しながら、実は三千代姫に災難が及ばないようにとの願いも込めて、八幡宮を裏鬼門に遷宮し、出来れば神祇の力を借りつつ円満な解決を図ろうという苦肉の策なのだった。
「須賀川衆は、何も言ってこないのですか?」
 図書亮は、たまたま峯ヶ城に伺候してきた源蔵に尋ねた。図書亮の質問に対して、源蔵は首を横に振った。
「特には。一応、須賀川城の裏鬼門に八幡宮を勧請するというのは、二階堂一族全体としての筋は通っているからな」
 確かに、筋は通っている。だが、治部大輔を始めとする須賀川方が何も言ってこないというのも、それはそれで不気味だった。自分等のことしか見えていないのか、それとも和田衆や周辺の土地の者を侮っているのか。
 図書亮に説明してくれた源蔵の住む古舘は、須賀川城の鬼門に当たる北東に位置している。館そのものは、美濃守が住む峯ヶ城と同じように、眼下を逢隈の大河が流れている。そこから逢隈川を渡って北東を目指せば、宿敵である田村氏の勢力範囲にぶつかる。古館の館は図書亮も訪れたことがあるが、その館のある場所の下には、かつての有力豪族の墳墓があるのだと言って源蔵は笑っていた。墓のある所に住まうなど図書亮はぞっとしないが、見様によっては、その祖霊の力を借りて守護神とし、須賀川全体を守ろうとしてるとも取れる。
 そのような古来の慣習を、治部大輔はどのように見ているのか。起請文にも書かれていたように、地祇への信仰をおろそかにするなど、土地の者からすれば許しがたいに違いない。
 一方為氏は年少の身でありながら、信心深い。先年國造が祀られている白方神社へ参拝したり、その白方神社を建立したと伝えられている石背国造であった建弥依米命に縁の深いオタキヤ様を庇護したりするなど、治部大輔とは正反対だった。
 もちろん、為氏一人の力でこれらを全て考え出したとは思えない。四天王を始め、山城守など他の二階堂一族の古老の知恵も借りての立案だろう。
 それにしても、なぜ四天王らはそこまで為氏を須賀川の主と担ごうとしているのか。もちろん為氏が正当な二階堂一族の血筋だからというのもあるだろうが、別にこのまま和田に居を構えるのでも良いのではないか。
 その疑問を、図書亮は安房守にぶつけてみた。
「うむ。それは今は言えぬな」
 安房守は、至極あっさりと図書亮の疑問をかわした。
「口にすると、神仏の罰でも下るのですか?」
 冗談混じりにそう言うと、じろりと美濃守に睨まれた。慌てて首を竦める。
「ま、そんなところだ」
 冗談とも本気ともつかない口調で、安房守も話を逸らす。どうやら、図書亮にはまだ話せない土地の事情があるらしい。
 ――結局八幡宮の遷宮も、為氏の意見が通された。大黒石池は、須賀川城から西へ四半里ほど行った場所にある。その池を左手に眺めながら坂を下ると、遠藤雅楽守の領地である茶畑や箭内一族の住まう堀底にたどり着くのだった。さらに、鎌倉へ続く鎌倉街道も通っており、確かに為氏がここに八幡宮を勧請するのも理解できる。
 だが、もっと不可解なのは美濃守の動きだった。元々彼も鎌倉に居住しており、和田を始めとする所領の管理は和田七将や弟たちに任せていたらしい。だがここに来て鎌倉府を見切ったのだろうか。

 文安三年。美濃守は、所領の一部である服部山に寺院を勧請することに決めた。ここはその名の通り、須田一族の宿老である服部監物の屋敷がある。その敷地の一角に、鎌倉の知己であった天仙寺の一麒饗純和尚を招き、金剛院を開山するというのである。
「ご自身は御屋形が諏訪明神の勧請や八幡宮の遷宮にいい顔をされなかったのに、ですか?」
 忍藤兵衛は、やんわりと美濃守に対する非難を口にした。だがそれを耳にした秀泰は、軽くいなした。
「兄者の本拠地は、あくまでもここ和田だ。御屋形とは別のお考えがある」
 秀泰の言葉に、やはり和田の根岸庄に住まう図書亮には何となく秀泰の言わんとすることが読めてきた。美濃守は、和田の領主としてその地の民を守ってやる義務もある。仏の加護と言えば、例の大仏や妙林寺も既にあるが、それだけでなく、もっと開けた場所である服部山の地に仏を祀って、領民の安寧の場所としてやろうというのだ。勿論、御仏の加護も期待してのことだろう。
 そして、和田の地に立派な金剛院が建てられた。はるばる鎌倉から高僧を招いたということで、侍も身分を問わず、開山の式典には多くの者が列席を許された。近くに住む図書亮夫妻も、本堂の一隅に正座して神妙に散華を受け取り、その功徳にあやかろうとした。境内には五色の色布が掲げられ、目にも鮮やかだ。耳に心地よく聞こえてくる僧たちの美声は朗々として、御仏のありがたさも増そうというものである。
 ふと見ると、何やら境内の一隅がざわめいている。周りは見知った者ばかりだが、彼等の視線を辿っていくと、粗末な身なりの若い夫婦の姿があった。
「図書亮さま。あれは……」
 りくが、そっと図書亮に囁いた。
 図書亮も、驚きに目を見開いた。麻の衣を纏った粗末ななりをしているが、何と為氏と三千代姫ではないか。まさか、お忍びでこの式典に列席しているのか。
 為氏はともかく、三千代姫まで来ているとは思わなかった。いつもは三千代姫に付き従っている藤左衛門の姿は見当たらないところを見ると、彼等は須賀川衆に黙って岩間館を抜け出してきたのだろう。
 図書亮やりくが気付いたくらいだ。開眼の法会の主催者である美濃守は、とうに気付いていたに違いない。美濃守は僧たちの手前笑顔を浮かべているが、ふと、図書亮と視線が合った。
 間違いなく、その目の奥には怒りが見え隠れしていた。
「一色殿。申し訳ないが……」
 服部監物が、そっと図書亮の袖を引いた。主である美濃守の意を受けてのことだろう。
 図書亮もそれに頷き返すと、他の者の邪魔にならないように、そろりそろりと為氏夫妻の席に近づいた。りくも、図書亮に倣う。
「御屋形」
 小声で為氏に呼びかけると、いたずらが見つかった子供のように、為氏はしょんぼりと肩を落とした。三千代姫も、そっと視線を逸らす。
 こうなっては、法会に最後まで列席するのは断念せざるを得ない。図書亮もため息をつきたいのを堪えて、主夫妻を境内の外に連れ出した。当然、主夫妻を二人だけで岩間館に帰すわけにもいかず、そのまま逢隈川の畔をてくてくと連れ立って歩いていく。
「御屋形。なぜこのような真似をなさったのです」
 さすがの図書亮も、この主夫妻を叱らないわけにはいかなかった。岩間館では今頃、大騒ぎになっているのではないか。
「……。美濃守が金剛院を開山するという話は、岩間館にも聞こえてきていたから」 
 確かに須田一族の総力を挙げての此度の開山は、華やかなものだった。だが、先年行われた花の宴と異なり、今回は道楽あそびではない。美濃守は和田や岩瀬の民の安寧を祈るために、開山に踏み切ったのだ。一色家も和田の領民の一員である以上、なけなしの家計からその費えを捻出している。だからこそ図書亮夫妻も、招かれたのだ。
「少しは、お立場をお考えなされませ」
 為氏のこのようなところが、まだ子供だ。日頃口うるさく主に対して小言を言う美濃守の気持ちが、ほんの少しだけ理解できる。
「ですが、図書亮殿。御仏の功徳に縋りたいと思う心は、身分に関係ないでしょう」
 小さく抗議の声を上げたのは、何と三千代姫だった。席を中座せざるを得なかったのが、よほど無念だったらしい。
「御台様、我儘を申してはなりません。由比殿や岩桐さまが、どれだけ心配されていらっしゃるか」
 りくも主夫妻に遠慮しつつも、その点は譲らなかった。
「私が和田に親しむのが、それほど悪いことなのでしょうか」
 目に涙をためつつ三千代姫が漏らした小さな言葉に、図書亮は思わず足を止めた。つられて、図書亮の後ろを歩いていたりくも歩みを止める。
 やはりりくが日頃こぼしているように、須賀川の衆は和田の者らと距離を取っているのか。それについては夫の為氏だけでなく、密かに妻の三千代姫も、胸を痛めていたのかもしれない。
「図書亮さま」
 りくが、何かを言いたげに図書亮を見つめた。妻の意を受けて、図書亮はつとめて優しい声色で、主夫妻に語りかけた。
「今の御台様のお言葉、我らだけの秘密と致しましょう」
 これが他の者たちの耳に入ったのならば、それはそれで、また須賀川衆と和田衆の新たな争いの火種となりかねない。
 為氏がほっと息をついた。
「ありがとう、図書亮」
 為氏が、素直に頭を下げる。その仕草に、図書亮は首を振った。
「参りましょう。妻の言うように、きっと須賀川の方々が心配されておられます」
 案の定、遥か彼方から岩桐藤左衛門が駆けてくる。
 主夫妻の姿を確認すると、しばし、「姫……」と絶句した。そして、きっと図書亮夫妻を睨みつけた。
「お主が姫を誑かして、館の外にお連れしたのか」
 この様子では、そう勘違いされても仕方がない。だが、先ほど主らに「姫の胸の内は黙っている」と約束したばかりだ。武士に二言はない。腹を括って、岩桐に頭を下げようとしたその時である。
「藤内左衛門」
 三千代姫が、きりりとした声で岩桐を叱りつけた。
「和田と須賀川の因縁については、わらわに聞かせなくて結構です。他の者にもそう伝えなさい」
 思いがけない三千代姫の叱責に、岩桐が俯いた。日頃、穏やかな御台とは打って変わった振る舞いだ。
「しかし……」
 岩桐の後を追ってきた乳母の由比も、三千代姫は目で制した。
「二度は言わせないでください」
 そして、三千代姫は為氏を見つめた。為氏も、それに頷き返す。その様子に、たとえまだ子供であったとしても、この二人は確かに夫婦なのだと図書亮は納得したのだった。

 その夜、図書亮とりくは随分と長いこと主夫婦について語り合った。あの二人が夫婦として強く結ばれているのは、疑う余地もない。美濃守を始めとする四天王からすれば、甘いと言われそうだが、三千代姫は確かに和田の者に馴染もうとしている。その心を、一方的に踏みにじっていいものだろうか。
 もうすぐ、約束の三年が経とうとしている。できれば、その期限が到来する前に和子誕生、そして治部大輔の隠遁が訪れてくれないか。
 互いに手を握り合いながら、図書亮とりくは、臥所の中でそう繰り返した――。
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