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第二章 焦土
敗戦
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坂下に着いたのは、四つ刻(午後一〇時)だった。さすがに人々は寝静まっているが、そもそも人気が少ない。
「ここだ」
石川が、とある庄屋の家の前で馬を止めた。
「これは、石川様」
家の主が、目をしょぼつかせながら出てきた。
「丸山四郎右衛門様が、士道を掛けてお守りしようとしているお子たちだ。丁重にな」
「へえ」
主は柔順に従った。
「まずは、床を延べましょう」
剛介と豊三郎は、頭を下げた。
二本松を出てから、このように落ち着いて、布団で眠るのは初めてではないだろうか。
だが、束の間の平安は、長く続かなかった。西軍は母成峠を陥落させた勢いそのままに、二十二日には日橋川にかかる十六橋を渡り、翌二十三日には、遂に会津城下に攻め入った。
石川は、二十二日にまだ猪苗代にいるはずの丸山の元に戻ろうとしたが、十六橋が敵の手に落ちたために戻れず、すごすごと引き返すしかなかった。
主の命令とは言え、他の藩の子弟をどうしたものか。
悩んだ末に、石川は、若松城に向かった。
「秋月様はおられますか」
城の中でもてんやわんやだというのに、このような私事のために、重臣である秋月悌次郎を呼び立てて良いものか迷ったが、石川も既にあの二人を何が何でも守ってやる気になっていた。ここで見捨てては、会津の名折れである。
「どうした」
強清水の戦いから戻ってきたばかりの悌次郎は、戦塵で真っ黒だった。
実は、と石川は事情を打ち明けた。
(父上も、酔狂な)
悌次郎はそう思わないでもなかった。今は、会津のことで精一杯である。だが、父の言うように、会津のために二本松が死力を尽くしてくれたのは事実だ。その恩義に報いるのが、まことの武士であろう。
「分かった」
悌次郎は、頷いた。
「父上の仰るように、城下で匿うのでは危険すぎる。また、越後口も敗れた今、坂下もどうなるか分からぬが、まずはその辺りの子供のように振る舞わせよ。そして、そちが命を賭して、その少年たちを守れ」
石川はほっとした。やはり、藩の俊才と言われただけのことはある。確かに、坂下の地で他藩の子がいるのは目立ちすぎた。
「畏まりました」
「どの道、多くの者が逃げているだろう。その庄屋に申し付けて風体を改めさせ、お主も含めて縁者ということで、よく言い含めよ」
坂下へ戻った石川は、悌次郎の指示を剛介らに伝え、着物を改めさせ、髪も農民の子供のように結わせた。もちろん刀は身に着けられないが、脇差しだけは護身用として、隠し持つことを認めて貰った。
だが、ほっと出来たのはそこまでだった。
二十三日に、家の主が「若松の城下が燃えている」と、目を血走らせて報告してきた。
「何でも城内に入れなかった方々は、西兵の手で辱められるよりは、と多くの方々がご自害されたそうじゃ」
剛介と豊三郎は、その話を聞いて真っ青になった。
自分たちの母も、同じような道を辿ってはいないだろうか。
「子供に酷い話を聞かせるな」
石川が叱った。
「ですが……」
黙れ、と石川が睨んだ。
「もう、この子たちは十分地獄を見てきたのだ」
それで、あらかたの事情を察したのだろう。二本松の落城の知らせは、この坂下にも届いていた。主は、それ以上特に言うことはなかった。
そしてその四日後には、坂下にも砲声が響いた。
「片岡まで西軍が来ているようです」
主は、がたがたと震えた。片岡は坂下から一里半のところにある村邑で、川を挟んで会津軍と西軍が対峙しているという。
「もう、好きにしてくだせえ」
怖くなったのだろう。家の主は、とうとう逃げていってしまった。
「石川様……」
剛介も震えた。ここまでか。
「諦めてはなりませぬ」
石川は、小声で叱咤した。
「この闇夜で逃げ出しても追われるだけです。いっそ、やり過ごしましょう」
そして、屋根裏に二人を追い立てると、自分も梯子をするすると上り、梯子を引き揚げて天井板を嵌めた。
唇に、人差し指を当てる。絶対に、声を出すな。
そう言うと、屋根裏の端に身を寄せさせた。
間もなく、西軍の兵が入ってきた。だが、家財がほとんどないのを見ると、あからさまにがっかりしたのだろう。羽目板の隙間から、乱暴狼藉を働いている様子が手に取るように見える。
「おい、人の気配がしないか」
西軍の兵士の一人が、首を傾げた。
その言葉に、剛介は歯の根が合わなくなった。
「誰か確かめてみろ」
ぶすりという音と共に、何度か槍の穂先が天井に刺さった。眼の前一尺程の距離にある板に穂先が刺されたのを見た時は、文字通り、息が止まりかけた。
「気のせいか」
やがて、気の抜けた声で呟くと、西軍兵らは入ってきたときと同じように騒々しく出ていった。
どれくらい時間が経っただろう。やがて、完全に撤収したのを見届けて、石川はふーっと息を吐き出した。
***
剛介と豊三郎が一番身の危険を感じたのは、その時だったかもしれない。
後は、時折城下から西軍が越後街道を進軍していくのも見かけたが、坂下の者に手出ししている暇がないのか、剛介らを見ても、怪訝そうな顔をするだけだった。どうやら先の兵は、越後口から進行してきた別の隊を迎えにいったようである。また、一度は逃げた主も再び戻ってきて、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。
だが、若松の戦はまだ続いている。そして、九月半ばに差し掛かった頃だろうか。
猪苗代で送り出してくれた丸山四郎右衛門が、坂下に姿を見せた。
「丸山様!」
二人を見て、丸山はちらりと笑った。
「ご無事でしたか。さすがに二本松の御子は強い」
剛介も、命の恩人が無事なのが嬉しかった。
「お二人に、お伝えせねばならぬことがありましてな。城をようやっと抜け出してきました」
剛介と豊三郎は、背筋を正した。そう言えば、二本松の方々はあれからどうなったのだろうか。
「米沢から、会津にも降伏するよう使者が参っております」
会津にも?
「それは、どのような意味でしょうか」
豊三郎が、堅い声で訊ねた。
意を決したように、丸山老人が述べた。
「米沢に滞在されていた丹羽左京大夫様は、先日、謝罪恭順の意をしたためた嘆願書を提出され、それが受理された由。間もなく、二本松にお帰りになり、当面謹慎処分となられるでしょう」
謝罪恭順。
その言葉の意味を飲み込むのに、しばらく時間がかかった。
「では、会津も……?」
石川が、恐る恐るという様子で訊ねた。
「恐らく。悌次郎らが、西郷殿や佐川官兵衛殿らを説得している」
剛介の体から、力が抜けていく。
とうとう、賊軍の汚名を跳ね返すことが出来ずに、戦が終わってしまった。しかも、自分がいるのは二本松ではない。異郷だ。
会津を助けることも、叶わなかった。
豊三郎が、そっと手を握ってくる。
いつもだったら、兄代わりとして握り返してやるのだが、その手を乱暴に払い除けた。
「うわあ!」
剛介は、床に伏して大声で泣いた。いつまでも、いつまでも。
九月二十二日には会津藩も降伏し、奥羽の地における長かった戦争が終結した。
降伏が決まると、直ちに若松城内にいた者達は猪苗代に送られ、そこで謹慎処分を待つことになった。丸山も同じである。
息子の秋月悌次郎は戦争の責任者の一人として、重い処分が下されるだろうと、丸山は嘆息した。
もっとも、猪苗代の郷士である石川は員数に数えられず、そのまま猪苗代を自由に闊歩できた。よって、石川の縁戚という体で、剛介たちは再び猪苗代に戻ってきていた。
季節は、既に冬である。
「四郎右衛門様。あの子らは、大丈夫でしょうか」
石川は、心配そうに剛介と豊三郎を見つめた。今、大勢の会津の人々に囲まれて食事をしているが、どうにも周りの者と馴染めていない様子だった。
特に剛介は、およそ表情というものが見られないのである。言われれば食事も取るし、頼めば用事も難なくこなす。だが、それだけだった。
「無理もない。国が亡くなったのだからな」
「自刃するようなことはないでしょうか」
せっかく助かったのだ。自ら命を絶つような真似は、できれば避けてほしかった。
それはない、と丸山老人は首を振った。
「あの子らは、自分たちが二本松の大切な種子であることを知っている。だからこそ、苦しんでいるのだろう」
自暴自棄になって自害することもかなわないが、二本松に戻れば追われる身である。子供と言えども、武士として戦の場に立ったからには、どのような処分が待っているか分からない。二本松は城も城下も焼かれ、眼の前で友や恩師が死んだ。時勢は既に明治と改元され、元の暮らしに戻ることはないだろう。
そして、ある日。
「剛介さん。二本松に帰らないの?」
豊三郎が、剛介に訊ねた。
剛介は、黙って首を横に振った。
周りの大人たちの情報から、あの三春が二本松に入って民政を統治しているのは、聞いていた。そして、領外に逃れた人たちが城下に戻りつつあるらしい。
だが、今さらどうしてあの地に戻れるだろうか。命だけは拾ったが、最後まで公の為に尽くすことが出来なかった。そして、二本松に戻ったところで、待っている人がいるか分からない。
「俺は、二本松に帰るよ」
豊三郎が、きっぱりと言った。二本松へ行く人がいて、一緒に連れて行ってくれるという。
剛介は黙ったままだった。
「……二本松に着いたら、消息を送ります」
豊三郎はそう言うと、くるりと背を向けた。
その日の夕餉に、豊三郎の姿はなかった。
豊三郎が消えてしまうと、剛介はますます無口になった。
そして、会津藩の処分も決まった。二本松の領土半減よりもさらに厳しい処分が、会津には待っていた。多くの藩士が東京に送られて謹慎処分、後に、領土は斗南藩に移封と決まった。
もっとも、老人などは会津に留まることを許されているので、丸山四郎右衛門は会津に残ることを決めていた。
「二本松が恋しくはないか」
不意に、目の前に徳利が差し出された。
剛介は、驚いて徳利の主を振り返った。自分よりやや年上の少年が、そこにはいた。
「まあ、一つやれ」
そんなことを言われても、酒など呑んだことがない。父や兄は、時折付き合いで嗜んでいたようだが、家には酒瓶はなかった。
剛介に構わず、相手は勝手に飲み始めた。
「私は、東京に行かなければならない。増上寺で謹慎しろと言われた」
鳥羽伏見の戦いからずっと容保公に従って会津に入り、そのまま籠城戦に突入して近辺をお守りしてきた。そのため年の割に罪が重く、当面新政府の監視下に置かれるのだという。ただ、南花畑にある自宅はどうにか無事らしい。
それにしても、この男はよく舌が回る。言葉に会津の訛りが少なく、綺麗な江戸風の言葉だ。この喋り方には、どこか聞き覚えがあると、記憶を辿ってみた。
思い出した。あの、新式の銃を見せびらかしていた、小沢幾弥の喋りに似ているのだ。剛介は、あまりの懐かしさに、久しぶりに笑みを浮かべた。
「何がおかしい」
相手が怪訝そうに、剛介の顔を覗き込んだ。
「いや。二本松の朋輩に話し方が似ていただけだ」
「そうか」
そこへ、少年の父親らしき男が姿を表した。
「こら、敬司。どこからそんなものを持ってきた」
敬司の手にある徳利を見て、呆れている。
「いいじゃありませんか。会津での酒も、これで飲み収めになりそうですし」
そして、剛介の方を見た。
「愚息が大変失礼を致しました。二本松の武谷剛介様ですな。某は遠藤と申します」
剛介は、遠藤に向かって黙って頭を下げた。
「父上も、一つ如何です?」
早くも酔いが回ったのか、敬司の目はほんのりと縁が赤くなっている。
「仕方がないな」
父親は舌打ちをすると、盃を持ってきた。敬司の手から徳利を取り上げると、その中身を注ぐ。親子揃って、酒に強いのだろう。
ままよとばかりに、剛介も生まれて初めて、酒を口にした。
胃の腑を熱いものが流れたと思ううちに、頭がぽうっとしてきた。何だか、ふわふわして気持ちがいい。
「お主。これからどうしたいのだ」
敬司が訊ねた。
「……どうしたら良いのか、分からないのです」
会津の地に来て初めて、剛介は本音をさらけ出した。これが、酒の力というものだろうか。
「今まで、公の前で死ぬのが当然と教えられてきました。ですがその公は東京に送られ、私は死ぬことも許されなかった。兄は須賀川に送られたきりで、どうなったか分かりません。父も、軍監として城下の布陣に加わっていましたから、恐らく……」
遠藤も、息子の敬司も黙って剛介の話に聞き入っていた。
「恩師も友も、皆死にました。私一人が、どうして生きて二本松へ戻れましょう」
敬司が鼻をすすり上げた。
「母御は?」
剛介は首を横に振った。
「城下を離れるつもりはあるようでしたが、どちらへ向かったのかも分かりません。その前に、出陣してしまいましたから」
気がつくと、剛介の目からも涙がこぼれていた。
「学問も半ばにして、戦に臨んでしまいました。敵に背を向けるな、他の者に後れを取るなという父の教えも、守れませんでした。あの世で合わせる顔がありません」
「それは違いますな」
遠藤が静かに言った。
「たとえ武士であっても、我が子は可愛いものです。この敬司の弟も、熊倉の戦いで十五で討死しました」
そう言うと、遠藤はきつく目を瞑った。
「残された子を、これ以上死なせるわけには参りませぬ。私はたとえ賊軍の汚名を着せられても、我が子に生きてほしいと思います」
剛介は黙って聞いた。あの猪苗代での離別の際、鳴海様は自分たちを「二本松の大切な種子」と仰ってくれた。主君を失い故郷を離れても、尚、生きることを許してもらえるだろうか。
「左様」
さらに、別の声が聞こえてきた。丸山である。いつの間に来ていたのだろう。
「あの夜、猪苗代で送り出した者らは、皆がそう思っていたでしょう」
丸山は、静かに述べた。
「武士の面目にかけて、この丸山は二本松の皆様方とお約束した。二本松の種子を、大切に預かると。我々は負け申したが、武士の約束を違えるわけには参りませぬ」
どうして、会津の人はこんなにも優しいのだろう。確かに、自分たちは否応無しに会津の戦に巻き込まれたのかもしれない。それでも、会津の為に戦ってきたのは決して間違いではなかった。
命を永らえていれば、いつか二本松に帰れる日も来るだろうか。
「とは言え、丸山の家もどうなるか分からぬな」
丸山が苦笑いを浮かべた。何せ、次男の悌次郎が既に戦犯とされている家である。
「丸山殿」
遠藤が、膝を進めた。
「遠藤の家も、それは同じこと。惣領の敬司は上京を命じられ、竜二も奪われた。会津の地に残されたのはこの老身と、娘だけです。それでも幸い家屋も無事ですから、城下に戻ればどうにか暮らせましょう。よろしければ、武谷殿を遠藤の家にお迎えさせて頂けないでしょうか」
「それは、重畳」
丸山が手を叩いた。
「剛介殿。この遠藤殿は学に明るく、義に篤い。きっと会津の父親として、二本松の種を大切になさるでしょう」
「……よろしいのですか?」
孤児となった自分を、会津で養育するのは容易いことではないだろう。
「会津武士の魂まで取られたわけではございませぬ」
遠藤が微笑んだ。
「剛介といったな。私からも頼む。私の代わりに、父と妹を守ってくれないか」
脇から、敬司も言い添えた。
「分かりました」
遂に、剛介は頷いた。
「これからよろしくな、義弟よ」
敬司が、少年らしい笑顔を開いた。
***
翌日、剛介は遠藤に連れられて若松へ赴いた。
その右手には、一〇歳になるという女の子の手が握られていた。
「ここだ」
石川が、とある庄屋の家の前で馬を止めた。
「これは、石川様」
家の主が、目をしょぼつかせながら出てきた。
「丸山四郎右衛門様が、士道を掛けてお守りしようとしているお子たちだ。丁重にな」
「へえ」
主は柔順に従った。
「まずは、床を延べましょう」
剛介と豊三郎は、頭を下げた。
二本松を出てから、このように落ち着いて、布団で眠るのは初めてではないだろうか。
だが、束の間の平安は、長く続かなかった。西軍は母成峠を陥落させた勢いそのままに、二十二日には日橋川にかかる十六橋を渡り、翌二十三日には、遂に会津城下に攻め入った。
石川は、二十二日にまだ猪苗代にいるはずの丸山の元に戻ろうとしたが、十六橋が敵の手に落ちたために戻れず、すごすごと引き返すしかなかった。
主の命令とは言え、他の藩の子弟をどうしたものか。
悩んだ末に、石川は、若松城に向かった。
「秋月様はおられますか」
城の中でもてんやわんやだというのに、このような私事のために、重臣である秋月悌次郎を呼び立てて良いものか迷ったが、石川も既にあの二人を何が何でも守ってやる気になっていた。ここで見捨てては、会津の名折れである。
「どうした」
強清水の戦いから戻ってきたばかりの悌次郎は、戦塵で真っ黒だった。
実は、と石川は事情を打ち明けた。
(父上も、酔狂な)
悌次郎はそう思わないでもなかった。今は、会津のことで精一杯である。だが、父の言うように、会津のために二本松が死力を尽くしてくれたのは事実だ。その恩義に報いるのが、まことの武士であろう。
「分かった」
悌次郎は、頷いた。
「父上の仰るように、城下で匿うのでは危険すぎる。また、越後口も敗れた今、坂下もどうなるか分からぬが、まずはその辺りの子供のように振る舞わせよ。そして、そちが命を賭して、その少年たちを守れ」
石川はほっとした。やはり、藩の俊才と言われただけのことはある。確かに、坂下の地で他藩の子がいるのは目立ちすぎた。
「畏まりました」
「どの道、多くの者が逃げているだろう。その庄屋に申し付けて風体を改めさせ、お主も含めて縁者ということで、よく言い含めよ」
坂下へ戻った石川は、悌次郎の指示を剛介らに伝え、着物を改めさせ、髪も農民の子供のように結わせた。もちろん刀は身に着けられないが、脇差しだけは護身用として、隠し持つことを認めて貰った。
だが、ほっと出来たのはそこまでだった。
二十三日に、家の主が「若松の城下が燃えている」と、目を血走らせて報告してきた。
「何でも城内に入れなかった方々は、西兵の手で辱められるよりは、と多くの方々がご自害されたそうじゃ」
剛介と豊三郎は、その話を聞いて真っ青になった。
自分たちの母も、同じような道を辿ってはいないだろうか。
「子供に酷い話を聞かせるな」
石川が叱った。
「ですが……」
黙れ、と石川が睨んだ。
「もう、この子たちは十分地獄を見てきたのだ」
それで、あらかたの事情を察したのだろう。二本松の落城の知らせは、この坂下にも届いていた。主は、それ以上特に言うことはなかった。
そしてその四日後には、坂下にも砲声が響いた。
「片岡まで西軍が来ているようです」
主は、がたがたと震えた。片岡は坂下から一里半のところにある村邑で、川を挟んで会津軍と西軍が対峙しているという。
「もう、好きにしてくだせえ」
怖くなったのだろう。家の主は、とうとう逃げていってしまった。
「石川様……」
剛介も震えた。ここまでか。
「諦めてはなりませぬ」
石川は、小声で叱咤した。
「この闇夜で逃げ出しても追われるだけです。いっそ、やり過ごしましょう」
そして、屋根裏に二人を追い立てると、自分も梯子をするすると上り、梯子を引き揚げて天井板を嵌めた。
唇に、人差し指を当てる。絶対に、声を出すな。
そう言うと、屋根裏の端に身を寄せさせた。
間もなく、西軍の兵が入ってきた。だが、家財がほとんどないのを見ると、あからさまにがっかりしたのだろう。羽目板の隙間から、乱暴狼藉を働いている様子が手に取るように見える。
「おい、人の気配がしないか」
西軍の兵士の一人が、首を傾げた。
その言葉に、剛介は歯の根が合わなくなった。
「誰か確かめてみろ」
ぶすりという音と共に、何度か槍の穂先が天井に刺さった。眼の前一尺程の距離にある板に穂先が刺されたのを見た時は、文字通り、息が止まりかけた。
「気のせいか」
やがて、気の抜けた声で呟くと、西軍兵らは入ってきたときと同じように騒々しく出ていった。
どれくらい時間が経っただろう。やがて、完全に撤収したのを見届けて、石川はふーっと息を吐き出した。
***
剛介と豊三郎が一番身の危険を感じたのは、その時だったかもしれない。
後は、時折城下から西軍が越後街道を進軍していくのも見かけたが、坂下の者に手出ししている暇がないのか、剛介らを見ても、怪訝そうな顔をするだけだった。どうやら先の兵は、越後口から進行してきた別の隊を迎えにいったようである。また、一度は逃げた主も再び戻ってきて、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。
だが、若松の戦はまだ続いている。そして、九月半ばに差し掛かった頃だろうか。
猪苗代で送り出してくれた丸山四郎右衛門が、坂下に姿を見せた。
「丸山様!」
二人を見て、丸山はちらりと笑った。
「ご無事でしたか。さすがに二本松の御子は強い」
剛介も、命の恩人が無事なのが嬉しかった。
「お二人に、お伝えせねばならぬことがありましてな。城をようやっと抜け出してきました」
剛介と豊三郎は、背筋を正した。そう言えば、二本松の方々はあれからどうなったのだろうか。
「米沢から、会津にも降伏するよう使者が参っております」
会津にも?
「それは、どのような意味でしょうか」
豊三郎が、堅い声で訊ねた。
意を決したように、丸山老人が述べた。
「米沢に滞在されていた丹羽左京大夫様は、先日、謝罪恭順の意をしたためた嘆願書を提出され、それが受理された由。間もなく、二本松にお帰りになり、当面謹慎処分となられるでしょう」
謝罪恭順。
その言葉の意味を飲み込むのに、しばらく時間がかかった。
「では、会津も……?」
石川が、恐る恐るという様子で訊ねた。
「恐らく。悌次郎らが、西郷殿や佐川官兵衛殿らを説得している」
剛介の体から、力が抜けていく。
とうとう、賊軍の汚名を跳ね返すことが出来ずに、戦が終わってしまった。しかも、自分がいるのは二本松ではない。異郷だ。
会津を助けることも、叶わなかった。
豊三郎が、そっと手を握ってくる。
いつもだったら、兄代わりとして握り返してやるのだが、その手を乱暴に払い除けた。
「うわあ!」
剛介は、床に伏して大声で泣いた。いつまでも、いつまでも。
九月二十二日には会津藩も降伏し、奥羽の地における長かった戦争が終結した。
降伏が決まると、直ちに若松城内にいた者達は猪苗代に送られ、そこで謹慎処分を待つことになった。丸山も同じである。
息子の秋月悌次郎は戦争の責任者の一人として、重い処分が下されるだろうと、丸山は嘆息した。
もっとも、猪苗代の郷士である石川は員数に数えられず、そのまま猪苗代を自由に闊歩できた。よって、石川の縁戚という体で、剛介たちは再び猪苗代に戻ってきていた。
季節は、既に冬である。
「四郎右衛門様。あの子らは、大丈夫でしょうか」
石川は、心配そうに剛介と豊三郎を見つめた。今、大勢の会津の人々に囲まれて食事をしているが、どうにも周りの者と馴染めていない様子だった。
特に剛介は、およそ表情というものが見られないのである。言われれば食事も取るし、頼めば用事も難なくこなす。だが、それだけだった。
「無理もない。国が亡くなったのだからな」
「自刃するようなことはないでしょうか」
せっかく助かったのだ。自ら命を絶つような真似は、できれば避けてほしかった。
それはない、と丸山老人は首を振った。
「あの子らは、自分たちが二本松の大切な種子であることを知っている。だからこそ、苦しんでいるのだろう」
自暴自棄になって自害することもかなわないが、二本松に戻れば追われる身である。子供と言えども、武士として戦の場に立ったからには、どのような処分が待っているか分からない。二本松は城も城下も焼かれ、眼の前で友や恩師が死んだ。時勢は既に明治と改元され、元の暮らしに戻ることはないだろう。
そして、ある日。
「剛介さん。二本松に帰らないの?」
豊三郎が、剛介に訊ねた。
剛介は、黙って首を横に振った。
周りの大人たちの情報から、あの三春が二本松に入って民政を統治しているのは、聞いていた。そして、領外に逃れた人たちが城下に戻りつつあるらしい。
だが、今さらどうしてあの地に戻れるだろうか。命だけは拾ったが、最後まで公の為に尽くすことが出来なかった。そして、二本松に戻ったところで、待っている人がいるか分からない。
「俺は、二本松に帰るよ」
豊三郎が、きっぱりと言った。二本松へ行く人がいて、一緒に連れて行ってくれるという。
剛介は黙ったままだった。
「……二本松に着いたら、消息を送ります」
豊三郎はそう言うと、くるりと背を向けた。
その日の夕餉に、豊三郎の姿はなかった。
豊三郎が消えてしまうと、剛介はますます無口になった。
そして、会津藩の処分も決まった。二本松の領土半減よりもさらに厳しい処分が、会津には待っていた。多くの藩士が東京に送られて謹慎処分、後に、領土は斗南藩に移封と決まった。
もっとも、老人などは会津に留まることを許されているので、丸山四郎右衛門は会津に残ることを決めていた。
「二本松が恋しくはないか」
不意に、目の前に徳利が差し出された。
剛介は、驚いて徳利の主を振り返った。自分よりやや年上の少年が、そこにはいた。
「まあ、一つやれ」
そんなことを言われても、酒など呑んだことがない。父や兄は、時折付き合いで嗜んでいたようだが、家には酒瓶はなかった。
剛介に構わず、相手は勝手に飲み始めた。
「私は、東京に行かなければならない。増上寺で謹慎しろと言われた」
鳥羽伏見の戦いからずっと容保公に従って会津に入り、そのまま籠城戦に突入して近辺をお守りしてきた。そのため年の割に罪が重く、当面新政府の監視下に置かれるのだという。ただ、南花畑にある自宅はどうにか無事らしい。
それにしても、この男はよく舌が回る。言葉に会津の訛りが少なく、綺麗な江戸風の言葉だ。この喋り方には、どこか聞き覚えがあると、記憶を辿ってみた。
思い出した。あの、新式の銃を見せびらかしていた、小沢幾弥の喋りに似ているのだ。剛介は、あまりの懐かしさに、久しぶりに笑みを浮かべた。
「何がおかしい」
相手が怪訝そうに、剛介の顔を覗き込んだ。
「いや。二本松の朋輩に話し方が似ていただけだ」
「そうか」
そこへ、少年の父親らしき男が姿を表した。
「こら、敬司。どこからそんなものを持ってきた」
敬司の手にある徳利を見て、呆れている。
「いいじゃありませんか。会津での酒も、これで飲み収めになりそうですし」
そして、剛介の方を見た。
「愚息が大変失礼を致しました。二本松の武谷剛介様ですな。某は遠藤と申します」
剛介は、遠藤に向かって黙って頭を下げた。
「父上も、一つ如何です?」
早くも酔いが回ったのか、敬司の目はほんのりと縁が赤くなっている。
「仕方がないな」
父親は舌打ちをすると、盃を持ってきた。敬司の手から徳利を取り上げると、その中身を注ぐ。親子揃って、酒に強いのだろう。
ままよとばかりに、剛介も生まれて初めて、酒を口にした。
胃の腑を熱いものが流れたと思ううちに、頭がぽうっとしてきた。何だか、ふわふわして気持ちがいい。
「お主。これからどうしたいのだ」
敬司が訊ねた。
「……どうしたら良いのか、分からないのです」
会津の地に来て初めて、剛介は本音をさらけ出した。これが、酒の力というものだろうか。
「今まで、公の前で死ぬのが当然と教えられてきました。ですがその公は東京に送られ、私は死ぬことも許されなかった。兄は須賀川に送られたきりで、どうなったか分かりません。父も、軍監として城下の布陣に加わっていましたから、恐らく……」
遠藤も、息子の敬司も黙って剛介の話に聞き入っていた。
「恩師も友も、皆死にました。私一人が、どうして生きて二本松へ戻れましょう」
敬司が鼻をすすり上げた。
「母御は?」
剛介は首を横に振った。
「城下を離れるつもりはあるようでしたが、どちらへ向かったのかも分かりません。その前に、出陣してしまいましたから」
気がつくと、剛介の目からも涙がこぼれていた。
「学問も半ばにして、戦に臨んでしまいました。敵に背を向けるな、他の者に後れを取るなという父の教えも、守れませんでした。あの世で合わせる顔がありません」
「それは違いますな」
遠藤が静かに言った。
「たとえ武士であっても、我が子は可愛いものです。この敬司の弟も、熊倉の戦いで十五で討死しました」
そう言うと、遠藤はきつく目を瞑った。
「残された子を、これ以上死なせるわけには参りませぬ。私はたとえ賊軍の汚名を着せられても、我が子に生きてほしいと思います」
剛介は黙って聞いた。あの猪苗代での離別の際、鳴海様は自分たちを「二本松の大切な種子」と仰ってくれた。主君を失い故郷を離れても、尚、生きることを許してもらえるだろうか。
「左様」
さらに、別の声が聞こえてきた。丸山である。いつの間に来ていたのだろう。
「あの夜、猪苗代で送り出した者らは、皆がそう思っていたでしょう」
丸山は、静かに述べた。
「武士の面目にかけて、この丸山は二本松の皆様方とお約束した。二本松の種子を、大切に預かると。我々は負け申したが、武士の約束を違えるわけには参りませぬ」
どうして、会津の人はこんなにも優しいのだろう。確かに、自分たちは否応無しに会津の戦に巻き込まれたのかもしれない。それでも、会津の為に戦ってきたのは決して間違いではなかった。
命を永らえていれば、いつか二本松に帰れる日も来るだろうか。
「とは言え、丸山の家もどうなるか分からぬな」
丸山が苦笑いを浮かべた。何せ、次男の悌次郎が既に戦犯とされている家である。
「丸山殿」
遠藤が、膝を進めた。
「遠藤の家も、それは同じこと。惣領の敬司は上京を命じられ、竜二も奪われた。会津の地に残されたのはこの老身と、娘だけです。それでも幸い家屋も無事ですから、城下に戻ればどうにか暮らせましょう。よろしければ、武谷殿を遠藤の家にお迎えさせて頂けないでしょうか」
「それは、重畳」
丸山が手を叩いた。
「剛介殿。この遠藤殿は学に明るく、義に篤い。きっと会津の父親として、二本松の種を大切になさるでしょう」
「……よろしいのですか?」
孤児となった自分を、会津で養育するのは容易いことではないだろう。
「会津武士の魂まで取られたわけではございませぬ」
遠藤が微笑んだ。
「剛介といったな。私からも頼む。私の代わりに、父と妹を守ってくれないか」
脇から、敬司も言い添えた。
「分かりました」
遂に、剛介は頷いた。
「これからよろしくな、義弟よ」
敬司が、少年らしい笑顔を開いた。
***
翌日、剛介は遠藤に連れられて若松へ赴いた。
その右手には、一〇歳になるという女の子の手が握られていた。
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