直違の紋に誓って

篠川翠

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第二章 焦土

母成峠の戦い

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 翌二十一日の早朝は、剛介たちのいる猿岩も、深い霧に包まれた。猿岩の断崖下を流れる石筵いしむしろ川の水面から、ゆらゆらと川霧が立ち上っている。かねてより、敵が攻めてきたときは、萩岡台場の木砲を二発撃つことになっていた。
 一方萩岡後方の八幡には、丹羽丹波の姿もあった。昨晩の会議で大谷隊は猿岩、丹波の隊は萩岡方面に振り分けられたのである。二本松の軍事総裁として、丹波は何が何でも母成峠で西軍を食い止めるつもりだった。もはや、仙台は当てにならなかった。この先、二本松が頼れるのは会津か米沢しかないではないか。
「者共、怯むな」
 丹波は二本松の兵を叱咤激励した。軍事総裁という地位にあったため、実際に戦塵にまみれて刀を振るう姿は、ほとんど見せたことがなかったのである。
(このまま、むざむざと二本松を捨てられるか)
 土湯から見た霞ヶ城炎上の光景が、脳裏をよぎった。
 だが、西軍は兵力でも火力でも、東軍より圧倒的に勝っていた。白河から連戦してきた丹波は、それをよく知っていた。
 そんな丹波を、冷ややかな目で見つめる姿があることに、このときの丹波は気付いていなかった。

 五ツ半(午前九時)頃であろうか。丹波らのいる萩岡方面から、砲声が二発聞こえてきた。
「中山峠からではなく、こちらから会津に入るつもりか」
 剛介が見ると、鳴海が口元を引き結んでいた。だがそれも束の間で、東軍陣地はたちまち色めき立った。こちらの陣地からは、赤木平の方から西軍の兵が蟻の行列のように細い道をぞろぞろと進軍してくるのが見える。それに備えるべく、崖下には既に新選組が待機していて、銃口を伊達路に向けていた。崖の上の砲も、数百メートル下の露出している伊達路に照準を合わせて、いつでも砲撃できる態勢にあった。剛介も新たに支給された銃に弾を込めて、撃鉄を起こしてある。後は、引き金を引くだけだった。
 先方に、土佐の三つ葉柏の紋が見えた。
 そこへ、会津の伝令が対岸の様子を伝えに来た。
「十三、四丁程向こうの獄山下方に、敵がいます」
「来たか。様子は」
「山腹の平原に散開して、こちらへ向かってくる様子」
 与兵衛は傍らにいる鳴海に向かって頷いた。
「撃て!」
 大砲二門が火を吹き、猿岩に取り付こうとしていた土佐兵や長州の兵の頭上に砲弾が落ちてきた。同時に、小銃も一斉に火を吹いた。先込め式のため、次の発射までは多少の時間がかかる。素早く後方に下がって次の列と入れ替わり、その間に銃弾を込めた。
 だが、長土の兵らは川を渡り粘り強く攻め込んで来る。岩の影に身を隠しながら、数十メートルもある崖を走る、つづら折りの細道を上ってくる。
 登ってくる兵に対して、東軍の兵士らは銃弾の雨を浴びせた。同時に、対岸に向けても発砲する。その距離は六百ヤードほどだった。
 長州は攻めあぐねているのか、次第に砲声が少なくなってきた。
「ざまあみろ」
「我らの力を思い知ったか」
 東軍の間から、失笑が湧き起こった。

 その失笑は、対岸にいる谷干城たにたてきの耳にも、しっかり届いていた。東軍の嘲笑に歯噛みしながら、谷は次の策略に頭を巡らす。
「あちらの崖から回り込みましょう」
 土佐から従ってきた祖父江可也が、長州兵を率いて渓谷の右側から灌木の密林を抜け、峻険な崖側から攻撃を加えるという。
「よし。行け」
 干城の命令を聞くと、祖父江はすぐに出発した。だが、その動きを望遠鏡で見ていた大鳥は、直ちに伝習隊の狙撃兵を山に登らせ、長州兵がこちらに渡河してくるのを防ぐ。
(このまま持ちこたえられるか……)
 猿岩上の塁上にいた剛介がちらりとそう思った刹那、どこからともなく、霧が流れ始めた。霧はたちまちすっぽりと山を覆い、視界が遮られた。霧の中からは、砲声と銃声だけが響いている。隣にいるはずの豊三郎の姿も、かすかに見える程度の濃霧である。
 薬包がこの霧で駄目にならなければ良いが。そんな心配をしながら、剛介は銃口から新たな弾を押し込んだ、その時。
 向こうから、伝習隊の大鳥が駆け寄ってきた。
「大谷殿」
 大鳥は息を切らしている
「戦況は」
「今しがた、中軍山より伝令が参った。敵軍は両道に分れ、本道と間道から攻めてくる模様」
「挟撃を狙っているな」
 与兵衛が呟いた。
 折しも、猿岩に控えていた大鳥らの伝習兵の部隊のところへ、第二台場からの伝令がやってきた。
「只今、八幡前にて交戦中!」
 大鳥は、次の指示を仰ぐために崖下から登ってきた山口次郎や、二本松の鳴海・与兵衛らと顔を見合わせた。早くも萩岡が破れたらしい。萩岡の背後にある中軍山が破れてしまえば、母成峠はたちまち敵の手に落ち、会津への進入を許してしまう。
 大鳥の顔色が変わった。
「申し訳ないが、こちらをお頼み申す。私は、伝習隊の第二大隊を連れて、中軍山の援護に回る」
「待たれよ!」 
 いつの間にか崖下から登ってきていた山口が、大鳥を鋭く制した。守備兵の半数ほどを連れて行かれたのでは、たまったものではない。だが、大鳥は首を横に振った。
「中軍山が敵の手に落ちては、元も子もない」
 そして、一部の兵を猿岩上方にある二枚橋に回すように指示を残すと、あっという間に萩岡方面に駈けていってしまった。
 大鳥の行動に、二本松兵は一瞬呆然とした。
「二枚橋に向かえ」
 与兵衛が怖い顔をして、剛介等に命令を下した。その言葉に従い、二枚橋へ向かう。既に、西軍の兵はこちらへ回り込んでおり、白兵戦となった。 
 剛介も銃を投げ捨て、脇差を抜いた。
 
 本道の通る萩岡で戦が始まったのは、午前十時頃である。
 中央道を目指し板垣、伊地知が率いてきた西軍の兵は、およそ一三〇〇。第一台場の東軍守兵は、号砲二発を撃ち終えると、予定通り、第二台場の陣地が置かれている八幡前に退いた。
 八幡前は萩岡の北方二里程のところにあり、道の半ばまでは比較的なだらかな原野であるが、そこから急激に台地がせり上がって、急斜面を形成している。母成峠は、樹木らしい樹木がなく、灌木が広がっている。そのため、東軍側からは、手に取るように西軍の動きが見えた。
 八幡前の堡塁には狙撃兵が配備され、西軍が射程距離内に入るのを待っていた。まず、西軍の行列を狙って中軍山及び八幡山から砲撃を加えた。だが、命中精度が悪い上に、弾込めに時間がかかる旧式の砲が一門あるだけであった。そのため、西軍の前進を阻止するまでには至らない。
 一方、萩岡をやすやすと突破してきた西軍の砲隊は、次々に砲座を設定していく。そこから八幡前の東軍陣地に対して、砲撃を加えてきた。それと前後して、岩壁にとりついた西軍の部隊からは、東側や中軍山陣地に対して、活発に銃弾が発射される。
 東軍が反撃を試みる暇もなく、西軍の砲撃は次第に正確さを増していく。それに呼応するかのように、八幡山の陣地からも銃声が起こり、戦闘はたけなわとなった。
 西軍の砲弾の一部が、八幡前の兵舎に命中した。またたく間に炎が上がり、枯れ草や山裾に燃え移る。
 さらには、数十もあった八幡前の陣小屋に火を放ち、西兵は丹波が率いる二本松兵がいた中軍山にも迫ってくる。
 中軍山で指揮を取っていた丹波の眼の前では、前方より、会津兵が引き揚げてくるのが見えた。
「萩岡が敵の手に落ちました!」
 萩岡から戻ってきた会津兵が、口から泡を飛ばしながら報告する。
「何だと」
 そこへ、さらに西軍の砲弾が無数に飛来し、中軍山や八幡山の砲台が火を吹いた。
 八ツ半(午後三時)頃には、中軍山付近の東軍の砲台はほぼ壊滅状態となり、激しい銃撃戦となった。だが、砲を破壊された東軍は、なす術もない。背後からは、猿岩方面から回ってきた兵も迫っている。
「御家老、一旦一度退きましょう!」
 側近が叫ぶ。
「与兵衛や鳴海らは、何をしているのだ」
 猿岩は、天然の要害の地のはずであった。なのに、なぜそちらから敵が回ってくるのか。丹波は混乱しながらも、必死で状況を分析しようとした。
 ともかく、まずは二本松の兵をまとめて引き揚げさせるのが肝要である。西軍の先回りをして挽回を図らなければならない。
「猿岩の者たちに伝えよ。猪苗代にて今後の諸事を差配致す」
 従者が頷いて、駆け出していく。
 丹波の眼の前で燃え広がる炎は、東側の山裾を舐めて銚子ヶ滝の方まで這い上がっていった――。
 
 その少し前、大谷隊の守る猿岩方面では、西軍の土佐の谷干城が焦っていた。このままでは、前進できない。敵陣との高低差がありすぎて、やっと到着した長州藩の砲が届きにくいのも、問題だった。
 そこへ、長州の桃村初蔵がやってきた。
「我らも谷を越えようと渡る場所を探ってきました。一箇所、越えられそうな場所を見つけました」
「本当か」
 桃村が頷く。
「貴藩もご同行願えませんか。今一度、試してみましょう」
 谷はこれに同意し、側にいた久時衛に命じて、別動隊を組織した。その数、土佐・長州合わせて四十人ほどである。
 四丁ほど下流の地点から、木を攀じって岩を超え、辛うじて谷を下りた。そこから左に入り、木々の間を進むと、猿岩と本道の中間地点に出た。その時は既に、本道でも激しい戦いが繰り広げられ、萩岡方面に火の手が上がるのが見えた。
 時衛は、長州の兵に頷いた。
「萩岡の方に回られよ。我が土州は、猿岩へ回る」
 別動隊は、二手に分れた。
 
 二枚橋のところで白兵戦を演じていた二本松兵は、背後から西軍の兵が迫ってくるのを見た。このままでは、挟み撃ちにされる――。
「各々退けっ!」
 与兵衛の怒号が響いた。
「与兵衛様。どちらに向かえば良いのですか!?」
 剛介も、眼の前の土佐の兵と切り結びながら、誰かが怒鳴っているのを聞いた。
「猪苗代だ。猪苗代の長の家に行け。そこを、丹波様たちが宿にされるとのことだ」
 眼の前にいる敵の懐に飛び込み、刀を突き立てて素早く抜く。右手を見ると、豊三郎がいた。
「豊三郎!」
 剛介は、豊三郎の手を取った。その二人の眼の前に、土佐兵数人が立ち塞がった。
 舐めるな。
 剛介が再び突きを試みようとした瞬間、一陣の風が、目の前の敵を斃した。その返す刀で、別の土佐兵も切り倒す。
 束の間、剛介等の周りに空白が出来た。
「早く行け」
 振り返った顔は、山口次郎だった。
「かたじけない」
 軽く会釈をすると、山口がうなずき返してくれた。そして、奥にある山の方を指した。街道筋ではなく、山麓を伝って西軍に見つからないように進め、という意味だろう。
 山口の言葉に従い、二人は萩岡の本道とは反対方向に駆け出した。

 そのまま、山奥を目指す。熊笹を掻き分けようとすると、地竹に足を取られ草鞋が脱げた。そこを抜けると、たちまち肉刺ができて、破れる。
 他所の国なので、地理感覚などない。ようやくのことで藪を抜けると、滝が見えた。
「大丈夫か」
 剛介は、豊三郎を石に座らせてやった。さっきから足を引きずっている。見ると、どこかで草鞋を失くしてしまったらしく、裸足だった。
 滝壺の水で傷を洗って手早く足に包帯を巻いてやると、豊三郎は「ありがとう」と微かに笑った。
「ねえ、剛介さん。ここに来る前に、盗賊たちが話していた事、覚えている?」
 剛介は、目を見開いた。あの、かぼちゃの汁を馳走になったときのことだろう。
「今は、それどころでは……」
 そう言いかけて、剛介も豊三郎の言わんとしていることに、気付いた。石筵村は、会津兵に焼かれたと言っていた。それを怨みに思い、西軍を嚮導した者がいるに違いない。そうでなければ、きっと中山峠から会津に攻め入ろうとするに違いないのだ。
 石筵村は、二本松藩の領土だった。自分たちの民が、裏切った。だが、それは石筵の領民にしても同じ思いだったのかもしれない。
 二人は、束の間黙り込んだ。
 だが、こうしてはいられない。またいつ西軍が姿を表すか、知れたものではなかった。
「急ごう。猪苗代へ」


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