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第二章 焦土
二本松を奪還せよ
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剛介たちがようやく母成峠に着いたのは、その翌日だった。大谷鳴海は与兵衛と共に母成峠に陣を布いており、会津兵や大鳥圭介の率いる伝習隊の姿もあった。
「よくぞここまで、無事に辿り着けたものよ」
鳴海は、三人を労ってくれた。それだけでなく、部下に命じ、剛介の背中の火傷の手当もしてくれた。あの後、十丁程も走ってからようやく鍋を捨てたが、時既に遅く、剛介の背には大きな水疱が出来ていた。小柄でその袋を破いて中の水を力いっぱい絞られたときには、思わず痛みに呻きかけた。その後、濡らした手ぬぐいで傷口を清めてもらい、ぎゅうぎゅうと晒を巻かれた。
手当が一段落して改めて辺りを見回すと、母成峠はあちこちに塹壕が掘られたり、砲弾避けの胸塁が築かれたりしていた。
それだけではなく、幾棟もの丸木小屋が建てられている。簡易小屋であるから、壁の代わりに萱が使われており、土間には藁が敷かれてその上に筵が敷いてあった。
三人は、宿舎に充てがわれた小屋に、ごろりと横たわった。たちまち、睡魔が襲う。振り返ってみれば、連日の逃避行で、まともに眠れていなかった。
やっと二本松の仲間に出会えた。
その事実がただ嬉しく、剛介は背中に出来た火傷の痛みも忘れ、いつしかあの白亜の箕輪門の夢を見ていた。
「寝かせておいてやれ」
見張り番をさせるため剛介を起こそうとした部下を、鳴海は止めた。まだいたいけな子供を遥々このような地まで逃亡させてきたのは、自分たち大人の責任である。せめて、今日くらいはゆっくり休ませてやろう。
「それで、鳴海様。丹波様にはお目にかかれたのですが?」
部下の左兵衛が訊ねた。
「ああ。丹波様とは木之根坂でお目にかかった。今は、蚕飼村におられるとのことだ」
そのときの事を、鳴海は苦々しく思い出していた。
***
鳴海と五番隊の軍監である黒田傳太は、二本松郊外の鉄扇橋で、「水原村に向かって君公を追うよりも、会津へ赴き、二本松の落城について説明する」ということで、意見の一致を見た。会津の援軍なしでは、二本松を取り戻すのは不可能である。このとき既に、塩沢村に落ち延びる味方に数多出会い、二人がいくら止めようとも敗軍の習いで、隙を見て逃げ出していく者も、少なくなかった。鳴海と黒田は馬首を並べ、木の根坂に向かた。だが、そこまで到達した時に、向こうから二本松兵らしき集団がやってくるのが見えた。
見えてきたのは、中央にいるのが幕臣の吉村要之介。その左右に、丹羽丹波、浅尾数馬之介が轡を並べている。その他、俗吏数人がこれに従っていた。
丹波は鳴海と黒田に向かって、高らかに宣言した。
「これより、二本松へ斬り込んで死ぬ。伴をせよ」
鳴海は呆れて、傍らにいる黒田を振り返った。その黒田の顔にも、困惑の表情が浮かんでいる。
わずかな人数で城に斬り込んだとしても、城を取り戻す見込みなど、あろうはずがない。子供でも分かる理屈だ。
「どうされます?」
丹波等の耳に届かないように、黒田が小声で鳴海に訊ねた。
「この場を退こう」
鳴海は、口元に狡猾な笑みを浮かべた。丹波の感情論につきあわされるのは、真っ平である。
「一刻も早く会津へ赴き、向後の策を立てる方が得策であろう?」
(全く、このお人は)
黒田も苦笑いを浮かべた。だが、黒田はそんな鳴海が嫌いではない。時に突飛な行動と思われることもするが、多くの場合は、理に適っているものだったからである。
二人の返事を待つのがもどかしいのだろう。丹波は苦虫を噛み潰したような表情で、じりじりとこちらの返答を待っていた。そして痺れを切らしたのか、浅尾に何か指示をしようとしたその隙をついて、鳴海は馬首の向きを土湯の方へ向けて、鞭を当てて駆け出した。黒田も、それに続く。
二人はそのまま土湯の小槌屋という宿に到着し、食事を取った。朝から戦闘に追われていたが、ようやく腹もくちくなり、正に出発しようとしたその時、再び見覚えのある顔が宿の玄関先から現れた。
「吉川殿か」
鳴海は溜息をついた。宿先に姿を見せた使者は、丹波と共にいた吉川左司馬である。吉川は、二人をきつく睨んだ。
「丹波様より、至急戻られよとのご命令です」
「やかましい」
苛々と、鳴海は述べた。上役が上役なら、家臣も家臣である。今更、少人数で斬り込んでどうするというのか。鳴海はぞんざいに立ち上がり、黒田に目配せした。再び、土湯から遁走するつもりなのである。だが、今度は運がなかった。丁度、青山甚五右衛門もやってきたからである。
「丹波様も、只今ここにお着きになります」
ということは、嫌でも顔を合わせることになる。このまま犬死に道連れにされては、たまったものではない。
「顔を合わせるのは、面倒だ」
「ですな」
阿吽の呼吸とでも言うべきか。鳴海と黒田はさっと甚五右衛門や吉川の脇を駆け抜けると、そのまま騎上の人となった。時刻は夜半であるにも関わらず、土湯から横向峠に向かって馬を走らせ、さすがに横向で一泊した。ここで入浴して本日の戦塵を落とし、そのまま宿泊した。
翌朝、横向を発つと須川野村へ赴いた。ここには、会津藩が兵を出張させていたのである。関門の兵は、鳴海らを睨みつけた。
「二本松藩は、降伏したというではないか」
「馬鹿なことを」
その居丈高な物言いにむっとした鳴海は、負けじと睨み返した。会津の下々の者は、二本松の落城など一片の痛痒も感じていないのではないか。
そこへ、丹波らの一行もやってきた。丹波が、ちらりと鳴海に目をやった。どうやら、「城に入って討ち死にする」というのは、一時的な錯乱による言であったらしい。
「先に参っておったか」
嫌な人間が来た、と思わないでもない。だが、さすがに二本松の軍事総裁は、番頭よりも立場が強かった。丹波が二本松の落城について説明すると、君公へ仔細を知らせるために、ようやく黒田と甚五右衛門の米沢出立が認められた。
***
左兵衛に説明してやる鳴海の声は、幾分苦々しげだった。主力部隊を率いていながら、結局丹波は城下戦に遅参した。途中会津との折衝に追われ遅参したとのことだったが、鳴海の耳には言い訳にしか聞こえなかった。
「丹波様もお悔しいのでしょう」
とりなすように、左兵衛が言う。あの丹波のことだ。これで諦めるとは左兵衛にも考えられなかった。
「ああ。あの御仁のことだ。きっとまだ何か考えられておるだろう」
鳴海は口元を結んだ。
鳴海にとっても、西軍の所業は許しがたい。弟の衛守が殺されたのもさることながら、今は会津侵攻の最前線基地の一つとして、西軍は二本松にも滞留していると聞こえている。それが何よりも、鳴海は許せなかった。会津と共に戦って、必ずや二本松を取り戻す。その為には、丹波への個人的な感情は一先ず横に置いておくべきだろう。
翌日、剛介らは会津藩士の一人に連れられて、陣地を見回った。
聞くところによると、二本松の残兵の一部は会津と共に戦う決意を新たにし、母成峠を目指してきた者が複数いるという。
台場は大きく三つに分かれ第一台場は萩岡、第二台場は本道と山入村に通じる中軍山・八幡山付近に築かれている。そして、第三台場は母成峠に台座が築かれていた。
また、猿岩には新たに胸壁が築かれようとしていた。剛介らがいるのはその猿岩の陣地である。まだ陣地が完成していないので、塹壕や胸壁をこれから作るのだという。
あのかぼちゃ汁以外、禄に食事を取っていなかった剛介らだったが、会津軍からは食事も支給されるとのことだった。
もっとも、一通り陣地を見回った後に出された食事は、握り飯一個に味噌汁だけという簡素なものだった。それでも連日空腹を抱えて山野を逃げ回った剛介らは、ゆっくりと米の甘みを味わった。
午後になると、早速塹壕掘りに駆り出された。久しぶりの食事が力になったのか、地面を掘る手にも力が入る。一尺程掘ったところで、ふと顔を上げると、二人の男が話し合っているのが見えた。そのうちの一人はやや大きな目をしており、総髪の美丈夫である。総髪の美丈夫は洋装という珍しさもあり、剛介はしばし手を止めて、二人の男に魅入った。
「こら、手を休めるな」
既に顔見知りとなっていた渡部という会津兵が、剛介を叱った。
「あの方々は、どなたですか?」
「ああ、新選組の山口様だ」
「新選組……」
剛介の体がぞくりと震えた。新選組の名は、剛介も知っていた。何でも在京時代に、長州や薩摩の不逞浪士を斬りまくったという。
「会津にいらしていたのですか」
「土方様は、この間まで福良《ふくら》にいらっしゃったらしい。宇都宮でお怪我をされたから、日光を通って会津にいらっしゃって東山で療養されていたそうだ。だが、もうすっかり良くなられたのだな。山口様は、白河では怪我をされた土方様に替わって、新選組を指揮されていたそうだ」
山口次郎とは、新選組の三番隊長だった斎藤一の変名である。
「新選組が来たからには、ここも百人力だな」
自分も職務を放棄していることに気づかずに、渡部は惚れ惚れと山口らを眺めていた。すると、山口がひょいとこちらを見た。
「まずい」
剛介は慌てて鍬を持ち、渡部も背筋を正した。
夕方、皆で炊き出しの汁をもらうために並んでいると、そこに思いがけない顔を見つけた。
「水野!」
あの悪夢のような二十九日、大隣寺で別れたきりの水野進だった。
水野も目を大きく見開いた。
「無事だったか」
聞くと、二十九日のあの日、水野は夜まで城下に潜んでいたという。夜になってようやく一ノ丁の山に分け入り、そこから西谷の山へ抜けて、宗形幸吉や下河辺武司らとばったり出くわした。そして二日二晩かけてようやく塩沢村に入ることができ、主婦に手厚くもてなされてから岳温泉へ向かった。そこから先、やはり会津の陣営があった土湯峠に向かったが、既に会津兵が火をかけようとしていたところだったので、道を引き返し、中山峠を越えて会津領の蚕飼村に至ったという。その地で丹波とその家臣団に出会い、指示を受けてこの地にやってきたとのことだった。
「水野さん、他の皆は?」
一緒に列に並んでいた釥太が訊ねた。すると、水野は椀の中に視線を落とした。
「才次郎が死んだ」
剛介と釥太は言葉を失った。聞くと、才次郎はあの後銃太郎の首級を桑畑の畝に埋めて、ふらふらと郭内へ向かった。それを、たまたま出会った大桶から聞いたのだと言う。その後、才次郎は一ノ丁の通りで長州藩の指揮を執る男に向かって、刺突していった。才次郎はその男を見事仕留めたものの、周りにいた兵にたちまち撃たれて、死んだ。偶然だが、水野は郭内において才次郎のすぐ近くで戦っていた。やはり敵と遭遇し、自分のいる場所からわずか半丁程先で、才次郎が死ぬ様の一部始終を見ていたという。
あと、どれだけの仲間が命を落としたのだろう。今、自分らが母成峠にたどり着けたのは、奇跡のようなものだった。
それから暫く、剛介らは塹壕掘りや、土塁を作る作業に駆り出された。死んでいった仲間の分まで、今度こそ一人でも多くの兵を斃してやる。毎日、その誓いを新たにして活力の源にしていった。
時には、小商人がこんな山奥にまでやってきて、塩鮭や菓子を売っていた。それらの商人たちの話によると、西軍は未だ二本松城下に留まっていて、こちらの出方を伺っているという。また、二度目に小商人がやってきた頃には、肌寒くなってきただろうと会津藩から木綿の筒袖の支給があった。まとっている衣服もぼろぼろになっていた剛介らにとっては、これはありがたかった。
一方、母成峠にいる東軍にも、新たな命令が下された。
聞くところによると、八月九日、庭坂で丹波様らは庭坂で会談を開き、二本松奪還作戦が計画されたという。初めは兵力を割く余力はないと出兵を渋られたが、伝習隊の大鳥圭介は、会津藩の首脳陣の勢いに押されて、作戦の決行を支持してくれた。当初、作戦決行の日は十二日と聞かされていた。ところが、待てども待てども、なかなか出撃命令が出ない。結局、母成峠にいる二本松兵や伝習隊に出撃命令が出たのは、十九日の夜だった。
二本松兵は喜んだ。聞けば、玉ノ井村へ出動せよという。
中には「玉ノ井から二本松までは二里余りだ。敵を撃退して、お城を取り返そう」と小躍りする者もあった。
だが翌朝、喜び勇んで出陣した二本松兵を待ち受けていたのは、またしても過酷な戦いだった。
二本松隊は岳温泉へ向かう間道で西軍を待ち構えていた。西軍は中山峠を越えて会津へ進軍するとの噂が流れていたため、その背後から衝こうという作戦である。玉ノ井村の中でも比較的高台にあり、玉ノ井村全体が見渡せた。仙台兵・会津兵を右翼に、二本松兵を左翼に配置し、中央に伝習兵が陣を張った。
時刻は正午を回った頃であろうか。
「敵だッ!」
誰かの鋭い叫び声を合図に、戦闘が開始された。
剛介も夢中で刀を奮った。膂力では大人たちに劣るため、ひたすら刺突を繰り返しては、一人、また一人と斃していった。
「大鳥様が討たれたあ」
悲鳴のような声が耳に飛び込んでくる。だが、伝習隊より先に西軍の猛攻を受けていて山上に追い詰められていた剛介たちには、その言葉の真偽を確かめる余裕もなかった。
最終的な東軍の死傷者は、百人以上にも上った。大敗である。
もっとも、当の大鳥圭介が死亡したというのは誤りで、その大鳥は「左右両翼の会津兵、二本松兵は血戦に及ばずに山腹に引き揚げた。敵は両翼を追って山に登ってくるので、正面で対峙していた伝習隊が正面の敵の後ろからも打ち掛かれる様相になった。伝習隊の兵も大いに驚いて敵を追い払おうとしたが、正面の敵も再び進んできて挟撃され、大苦戦した。多くの兵を失い、かろうじて引き揚げた」と、『幕末実戦史』(大鳥圭介手記)で書き残している。
だが、五十余りの兵力しか持たない会津・二本松に対して「ろくに戦わなかった」というのは、あまりにも辛辣かもしれない。水野氏の『二本松戊辰少年隊記』によると、首級の髻を提げて走る者あり、負傷者に肩を貸し、或いは足を負傷して刀を杖代わりにする者など、その混乱ぶりは名状し難いものだったとある。母成峠までの三里余りの道を疾走したが、壮健な者でも吐血するものが出るほど、厳しい退却だった。
剛介も、例外ではない。背中の火傷が引き攣り、塞がりかけていた傷口が開こうとしている。足の筋が切れそうだ。何度も気を失いそうになりながら、ようやくのことで母成峠まで戻ってきた頃には、夜になっていた。退避の途中から雨が振り出して道がぬかるみ、大変な行軍だった。
振り返ると、熱海方面がぼうっと赤く光っている。敵はあちらに陣を張り、今日はそこから張り出してきたのだろう。明日は中山峠に回されるのかもしれない。疲労でぼんやりとした頭で、剛介はそう考えた。
血反吐を吐きつつ、やっと退却してきた剛介らを母成峠で待っていたのは、丹羽丹波だった。さすがに戦況が気になったのだろうか。
だが、敗戦の軍をちらりと見ると、眉を上げた。何か言いたげである。
「そなたら」
暗く、怒りを感じさせる声だった。丹波は、兵たちが敗退してきたのが許せないのだろう。剛介は身を縮めた。
その時である。誰かが丹波の袖を引いた。丹波がそれ以上言葉を紡ぐのを止めたのは、大谷与兵衛だった。襤褸布のようになりながら命からがらで戻ってきた兵士に対して、あまりにも不遜だと感じたのだろう。与兵衛とて、息子の志摩を失っている。悔しい思いをしているのは、丹波だけではないのだ。
一瞬の沈黙の後に、丹波はぼそりと「大義であった」と、一言だけ声を掛けた。それからくるりと諸兵に背を向け、そのまま本陣の方へ戻っていった。
兵士等は呆然と、その背を見送った。
大方の兵が宿営地に戻ると、これから軍議だというのに、与兵衛はこっそり鳴海を手招いた。
「丹波様のことでございますか」
話を先回りして、鳴海は声を顰めながら与兵衛に訊ねた。
「そうだ。ここに至って、まだあの御仁の悪癖が出ているらしい」
与兵衛が唇を歪めた。与兵衛も長く藩政に携わってきた者である。丹波の祖父、丹羽貴明が藩内における一大勢力を築き上げたが、その弊害もまた大きかった。賄賂なども横行し、亡き丹羽和左衛門や安部井又之丞などが、それを嘆いていたのが思い出される。
「我々は良い。だが、これ以上無駄死にする者が出れば、二本松は本当の意味で亡びるぞ」
鳴海は、与兵衛の言葉を噛み締めた。
「よくぞここまで、無事に辿り着けたものよ」
鳴海は、三人を労ってくれた。それだけでなく、部下に命じ、剛介の背中の火傷の手当もしてくれた。あの後、十丁程も走ってからようやく鍋を捨てたが、時既に遅く、剛介の背には大きな水疱が出来ていた。小柄でその袋を破いて中の水を力いっぱい絞られたときには、思わず痛みに呻きかけた。その後、濡らした手ぬぐいで傷口を清めてもらい、ぎゅうぎゅうと晒を巻かれた。
手当が一段落して改めて辺りを見回すと、母成峠はあちこちに塹壕が掘られたり、砲弾避けの胸塁が築かれたりしていた。
それだけではなく、幾棟もの丸木小屋が建てられている。簡易小屋であるから、壁の代わりに萱が使われており、土間には藁が敷かれてその上に筵が敷いてあった。
三人は、宿舎に充てがわれた小屋に、ごろりと横たわった。たちまち、睡魔が襲う。振り返ってみれば、連日の逃避行で、まともに眠れていなかった。
やっと二本松の仲間に出会えた。
その事実がただ嬉しく、剛介は背中に出来た火傷の痛みも忘れ、いつしかあの白亜の箕輪門の夢を見ていた。
「寝かせておいてやれ」
見張り番をさせるため剛介を起こそうとした部下を、鳴海は止めた。まだいたいけな子供を遥々このような地まで逃亡させてきたのは、自分たち大人の責任である。せめて、今日くらいはゆっくり休ませてやろう。
「それで、鳴海様。丹波様にはお目にかかれたのですが?」
部下の左兵衛が訊ねた。
「ああ。丹波様とは木之根坂でお目にかかった。今は、蚕飼村におられるとのことだ」
そのときの事を、鳴海は苦々しく思い出していた。
***
鳴海と五番隊の軍監である黒田傳太は、二本松郊外の鉄扇橋で、「水原村に向かって君公を追うよりも、会津へ赴き、二本松の落城について説明する」ということで、意見の一致を見た。会津の援軍なしでは、二本松を取り戻すのは不可能である。このとき既に、塩沢村に落ち延びる味方に数多出会い、二人がいくら止めようとも敗軍の習いで、隙を見て逃げ出していく者も、少なくなかった。鳴海と黒田は馬首を並べ、木の根坂に向かた。だが、そこまで到達した時に、向こうから二本松兵らしき集団がやってくるのが見えた。
見えてきたのは、中央にいるのが幕臣の吉村要之介。その左右に、丹羽丹波、浅尾数馬之介が轡を並べている。その他、俗吏数人がこれに従っていた。
丹波は鳴海と黒田に向かって、高らかに宣言した。
「これより、二本松へ斬り込んで死ぬ。伴をせよ」
鳴海は呆れて、傍らにいる黒田を振り返った。その黒田の顔にも、困惑の表情が浮かんでいる。
わずかな人数で城に斬り込んだとしても、城を取り戻す見込みなど、あろうはずがない。子供でも分かる理屈だ。
「どうされます?」
丹波等の耳に届かないように、黒田が小声で鳴海に訊ねた。
「この場を退こう」
鳴海は、口元に狡猾な笑みを浮かべた。丹波の感情論につきあわされるのは、真っ平である。
「一刻も早く会津へ赴き、向後の策を立てる方が得策であろう?」
(全く、このお人は)
黒田も苦笑いを浮かべた。だが、黒田はそんな鳴海が嫌いではない。時に突飛な行動と思われることもするが、多くの場合は、理に適っているものだったからである。
二人の返事を待つのがもどかしいのだろう。丹波は苦虫を噛み潰したような表情で、じりじりとこちらの返答を待っていた。そして痺れを切らしたのか、浅尾に何か指示をしようとしたその隙をついて、鳴海は馬首の向きを土湯の方へ向けて、鞭を当てて駆け出した。黒田も、それに続く。
二人はそのまま土湯の小槌屋という宿に到着し、食事を取った。朝から戦闘に追われていたが、ようやく腹もくちくなり、正に出発しようとしたその時、再び見覚えのある顔が宿の玄関先から現れた。
「吉川殿か」
鳴海は溜息をついた。宿先に姿を見せた使者は、丹波と共にいた吉川左司馬である。吉川は、二人をきつく睨んだ。
「丹波様より、至急戻られよとのご命令です」
「やかましい」
苛々と、鳴海は述べた。上役が上役なら、家臣も家臣である。今更、少人数で斬り込んでどうするというのか。鳴海はぞんざいに立ち上がり、黒田に目配せした。再び、土湯から遁走するつもりなのである。だが、今度は運がなかった。丁度、青山甚五右衛門もやってきたからである。
「丹波様も、只今ここにお着きになります」
ということは、嫌でも顔を合わせることになる。このまま犬死に道連れにされては、たまったものではない。
「顔を合わせるのは、面倒だ」
「ですな」
阿吽の呼吸とでも言うべきか。鳴海と黒田はさっと甚五右衛門や吉川の脇を駆け抜けると、そのまま騎上の人となった。時刻は夜半であるにも関わらず、土湯から横向峠に向かって馬を走らせ、さすがに横向で一泊した。ここで入浴して本日の戦塵を落とし、そのまま宿泊した。
翌朝、横向を発つと須川野村へ赴いた。ここには、会津藩が兵を出張させていたのである。関門の兵は、鳴海らを睨みつけた。
「二本松藩は、降伏したというではないか」
「馬鹿なことを」
その居丈高な物言いにむっとした鳴海は、負けじと睨み返した。会津の下々の者は、二本松の落城など一片の痛痒も感じていないのではないか。
そこへ、丹波らの一行もやってきた。丹波が、ちらりと鳴海に目をやった。どうやら、「城に入って討ち死にする」というのは、一時的な錯乱による言であったらしい。
「先に参っておったか」
嫌な人間が来た、と思わないでもない。だが、さすがに二本松の軍事総裁は、番頭よりも立場が強かった。丹波が二本松の落城について説明すると、君公へ仔細を知らせるために、ようやく黒田と甚五右衛門の米沢出立が認められた。
***
左兵衛に説明してやる鳴海の声は、幾分苦々しげだった。主力部隊を率いていながら、結局丹波は城下戦に遅参した。途中会津との折衝に追われ遅参したとのことだったが、鳴海の耳には言い訳にしか聞こえなかった。
「丹波様もお悔しいのでしょう」
とりなすように、左兵衛が言う。あの丹波のことだ。これで諦めるとは左兵衛にも考えられなかった。
「ああ。あの御仁のことだ。きっとまだ何か考えられておるだろう」
鳴海は口元を結んだ。
鳴海にとっても、西軍の所業は許しがたい。弟の衛守が殺されたのもさることながら、今は会津侵攻の最前線基地の一つとして、西軍は二本松にも滞留していると聞こえている。それが何よりも、鳴海は許せなかった。会津と共に戦って、必ずや二本松を取り戻す。その為には、丹波への個人的な感情は一先ず横に置いておくべきだろう。
翌日、剛介らは会津藩士の一人に連れられて、陣地を見回った。
聞くところによると、二本松の残兵の一部は会津と共に戦う決意を新たにし、母成峠を目指してきた者が複数いるという。
台場は大きく三つに分かれ第一台場は萩岡、第二台場は本道と山入村に通じる中軍山・八幡山付近に築かれている。そして、第三台場は母成峠に台座が築かれていた。
また、猿岩には新たに胸壁が築かれようとしていた。剛介らがいるのはその猿岩の陣地である。まだ陣地が完成していないので、塹壕や胸壁をこれから作るのだという。
あのかぼちゃ汁以外、禄に食事を取っていなかった剛介らだったが、会津軍からは食事も支給されるとのことだった。
もっとも、一通り陣地を見回った後に出された食事は、握り飯一個に味噌汁だけという簡素なものだった。それでも連日空腹を抱えて山野を逃げ回った剛介らは、ゆっくりと米の甘みを味わった。
午後になると、早速塹壕掘りに駆り出された。久しぶりの食事が力になったのか、地面を掘る手にも力が入る。一尺程掘ったところで、ふと顔を上げると、二人の男が話し合っているのが見えた。そのうちの一人はやや大きな目をしており、総髪の美丈夫である。総髪の美丈夫は洋装という珍しさもあり、剛介はしばし手を止めて、二人の男に魅入った。
「こら、手を休めるな」
既に顔見知りとなっていた渡部という会津兵が、剛介を叱った。
「あの方々は、どなたですか?」
「ああ、新選組の山口様だ」
「新選組……」
剛介の体がぞくりと震えた。新選組の名は、剛介も知っていた。何でも在京時代に、長州や薩摩の不逞浪士を斬りまくったという。
「会津にいらしていたのですか」
「土方様は、この間まで福良《ふくら》にいらっしゃったらしい。宇都宮でお怪我をされたから、日光を通って会津にいらっしゃって東山で療養されていたそうだ。だが、もうすっかり良くなられたのだな。山口様は、白河では怪我をされた土方様に替わって、新選組を指揮されていたそうだ」
山口次郎とは、新選組の三番隊長だった斎藤一の変名である。
「新選組が来たからには、ここも百人力だな」
自分も職務を放棄していることに気づかずに、渡部は惚れ惚れと山口らを眺めていた。すると、山口がひょいとこちらを見た。
「まずい」
剛介は慌てて鍬を持ち、渡部も背筋を正した。
夕方、皆で炊き出しの汁をもらうために並んでいると、そこに思いがけない顔を見つけた。
「水野!」
あの悪夢のような二十九日、大隣寺で別れたきりの水野進だった。
水野も目を大きく見開いた。
「無事だったか」
聞くと、二十九日のあの日、水野は夜まで城下に潜んでいたという。夜になってようやく一ノ丁の山に分け入り、そこから西谷の山へ抜けて、宗形幸吉や下河辺武司らとばったり出くわした。そして二日二晩かけてようやく塩沢村に入ることができ、主婦に手厚くもてなされてから岳温泉へ向かった。そこから先、やはり会津の陣営があった土湯峠に向かったが、既に会津兵が火をかけようとしていたところだったので、道を引き返し、中山峠を越えて会津領の蚕飼村に至ったという。その地で丹波とその家臣団に出会い、指示を受けてこの地にやってきたとのことだった。
「水野さん、他の皆は?」
一緒に列に並んでいた釥太が訊ねた。すると、水野は椀の中に視線を落とした。
「才次郎が死んだ」
剛介と釥太は言葉を失った。聞くと、才次郎はあの後銃太郎の首級を桑畑の畝に埋めて、ふらふらと郭内へ向かった。それを、たまたま出会った大桶から聞いたのだと言う。その後、才次郎は一ノ丁の通りで長州藩の指揮を執る男に向かって、刺突していった。才次郎はその男を見事仕留めたものの、周りにいた兵にたちまち撃たれて、死んだ。偶然だが、水野は郭内において才次郎のすぐ近くで戦っていた。やはり敵と遭遇し、自分のいる場所からわずか半丁程先で、才次郎が死ぬ様の一部始終を見ていたという。
あと、どれだけの仲間が命を落としたのだろう。今、自分らが母成峠にたどり着けたのは、奇跡のようなものだった。
それから暫く、剛介らは塹壕掘りや、土塁を作る作業に駆り出された。死んでいった仲間の分まで、今度こそ一人でも多くの兵を斃してやる。毎日、その誓いを新たにして活力の源にしていった。
時には、小商人がこんな山奥にまでやってきて、塩鮭や菓子を売っていた。それらの商人たちの話によると、西軍は未だ二本松城下に留まっていて、こちらの出方を伺っているという。また、二度目に小商人がやってきた頃には、肌寒くなってきただろうと会津藩から木綿の筒袖の支給があった。まとっている衣服もぼろぼろになっていた剛介らにとっては、これはありがたかった。
一方、母成峠にいる東軍にも、新たな命令が下された。
聞くところによると、八月九日、庭坂で丹波様らは庭坂で会談を開き、二本松奪還作戦が計画されたという。初めは兵力を割く余力はないと出兵を渋られたが、伝習隊の大鳥圭介は、会津藩の首脳陣の勢いに押されて、作戦の決行を支持してくれた。当初、作戦決行の日は十二日と聞かされていた。ところが、待てども待てども、なかなか出撃命令が出ない。結局、母成峠にいる二本松兵や伝習隊に出撃命令が出たのは、十九日の夜だった。
二本松兵は喜んだ。聞けば、玉ノ井村へ出動せよという。
中には「玉ノ井から二本松までは二里余りだ。敵を撃退して、お城を取り返そう」と小躍りする者もあった。
だが翌朝、喜び勇んで出陣した二本松兵を待ち受けていたのは、またしても過酷な戦いだった。
二本松隊は岳温泉へ向かう間道で西軍を待ち構えていた。西軍は中山峠を越えて会津へ進軍するとの噂が流れていたため、その背後から衝こうという作戦である。玉ノ井村の中でも比較的高台にあり、玉ノ井村全体が見渡せた。仙台兵・会津兵を右翼に、二本松兵を左翼に配置し、中央に伝習兵が陣を張った。
時刻は正午を回った頃であろうか。
「敵だッ!」
誰かの鋭い叫び声を合図に、戦闘が開始された。
剛介も夢中で刀を奮った。膂力では大人たちに劣るため、ひたすら刺突を繰り返しては、一人、また一人と斃していった。
「大鳥様が討たれたあ」
悲鳴のような声が耳に飛び込んでくる。だが、伝習隊より先に西軍の猛攻を受けていて山上に追い詰められていた剛介たちには、その言葉の真偽を確かめる余裕もなかった。
最終的な東軍の死傷者は、百人以上にも上った。大敗である。
もっとも、当の大鳥圭介が死亡したというのは誤りで、その大鳥は「左右両翼の会津兵、二本松兵は血戦に及ばずに山腹に引き揚げた。敵は両翼を追って山に登ってくるので、正面で対峙していた伝習隊が正面の敵の後ろからも打ち掛かれる様相になった。伝習隊の兵も大いに驚いて敵を追い払おうとしたが、正面の敵も再び進んできて挟撃され、大苦戦した。多くの兵を失い、かろうじて引き揚げた」と、『幕末実戦史』(大鳥圭介手記)で書き残している。
だが、五十余りの兵力しか持たない会津・二本松に対して「ろくに戦わなかった」というのは、あまりにも辛辣かもしれない。水野氏の『二本松戊辰少年隊記』によると、首級の髻を提げて走る者あり、負傷者に肩を貸し、或いは足を負傷して刀を杖代わりにする者など、その混乱ぶりは名状し難いものだったとある。母成峠までの三里余りの道を疾走したが、壮健な者でも吐血するものが出るほど、厳しい退却だった。
剛介も、例外ではない。背中の火傷が引き攣り、塞がりかけていた傷口が開こうとしている。足の筋が切れそうだ。何度も気を失いそうになりながら、ようやくのことで母成峠まで戻ってきた頃には、夜になっていた。退避の途中から雨が振り出して道がぬかるみ、大変な行軍だった。
振り返ると、熱海方面がぼうっと赤く光っている。敵はあちらに陣を張り、今日はそこから張り出してきたのだろう。明日は中山峠に回されるのかもしれない。疲労でぼんやりとした頭で、剛介はそう考えた。
血反吐を吐きつつ、やっと退却してきた剛介らを母成峠で待っていたのは、丹羽丹波だった。さすがに戦況が気になったのだろうか。
だが、敗戦の軍をちらりと見ると、眉を上げた。何か言いたげである。
「そなたら」
暗く、怒りを感じさせる声だった。丹波は、兵たちが敗退してきたのが許せないのだろう。剛介は身を縮めた。
その時である。誰かが丹波の袖を引いた。丹波がそれ以上言葉を紡ぐのを止めたのは、大谷与兵衛だった。襤褸布のようになりながら命からがらで戻ってきた兵士に対して、あまりにも不遜だと感じたのだろう。与兵衛とて、息子の志摩を失っている。悔しい思いをしているのは、丹波だけではないのだ。
一瞬の沈黙の後に、丹波はぼそりと「大義であった」と、一言だけ声を掛けた。それからくるりと諸兵に背を向け、そのまま本陣の方へ戻っていった。
兵士等は呆然と、その背を見送った。
大方の兵が宿営地に戻ると、これから軍議だというのに、与兵衛はこっそり鳴海を手招いた。
「丹波様のことでございますか」
話を先回りして、鳴海は声を顰めながら与兵衛に訊ねた。
「そうだ。ここに至って、まだあの御仁の悪癖が出ているらしい」
与兵衛が唇を歪めた。与兵衛も長く藩政に携わってきた者である。丹波の祖父、丹羽貴明が藩内における一大勢力を築き上げたが、その弊害もまた大きかった。賄賂なども横行し、亡き丹羽和左衛門や安部井又之丞などが、それを嘆いていたのが思い出される。
「我々は良い。だが、これ以上無駄死にする者が出れば、二本松は本当の意味で亡びるぞ」
鳴海は、与兵衛の言葉を噛み締めた。
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