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第二章 焦土
母成への道
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大谷鳴海に諭されたこともあり、一同は会津を目指すことにした。二本松から会津を目指す道はいくつかある。
「まずは、岳温泉を目指してはどうだろう」
釥太が言い出した。岳温泉は、塩沢村の奥にある名湯である。ここから猪苗代に抜ける街道が通っており、現在五人が潜んでいる場所から回るにも、都合が良かった。
横で、ちびの豊三郎が黙っている。剛介も、できれば暖かい湯に浸って戦塵を落としたかった。それに、岳温泉には宿もある。うまくいけば、食べ物も手に入れられるかもしれない。皆が寅次郎の言葉を待った。
「よし、岳温泉へ行こう」
寅次郎が頷いた。
だが、思うように事は進まなかった。
一行が二本松を出たのは夕刻だったが、二十九日のその日の夜には会津が二本松を取り戻しに攻めてくるという流言が飛び交っていたこともあり、西軍は街道筋を厳しく監視していたのである。
道を見失わないように、できるだけ街道の見える山中を進んでいたが、絶え間なく西軍らしきだん袋姿の兵士や、赤や黒の獅子頭を見かけた。
岳温泉までは城下から二里程の距離であるにも関わらず、身を隠しながらの逃避行であるため、一行の行程は遅々として進まなかった。
夜になると、遠くから獣の鳴き声が聴こえてくる。狐だろうか、それとも山犬だろうか。
「狼もいるのかな」
怯えた声で、豊三郎がつぶやいた。皆城下育ちであるから、まだ狼を見たことはなかった。狼は容赦なく襲いかかってきて、人の肉を食らうというではないか。
「大丈夫だろう」
無理に笑顔を作ろうとした釥太の顔も、恐怖のために引きつっている。
「じゃあ、釥太さん。狼が出てきたらやっつけてくれよ」
豊三郎がそう言った、その時である。
「しっ!」
剛介は、慌てて二人の口を塞いだ。斜面の下から、大人たちの話し声が聞こえてきた。
暗くてどちらの兵かは判別しかねるが、段々話し声が近付いて来る。
一同は、息を殺して兵が通り過ぎるのを待った。
「……そこで、儂はそいつの荷を奪ってやったのよ」
男の一人がからからと下卑な笑い声を立てた。
「ほう、それでどげんした」
「儂の足にしがみついて命乞いをしておった。あまりにも鬱陶しいから、切り捨ててやったわ」
ハッハッハと、周りの兵士も笑った。
「家宝だが何だか知らぬが、我らは官軍。錦旗に手向かった者が悪い。奸賊のお宝やらを手にしたところで、咎められる謂われはないわ」
剛介は握りこぶしをぶるぶると震わせた。話を聞くと、どうも城下で乱暴狼藉を働き、財物を持って逃げようとした者を切り捨てて荷を奪ったのだろう。それが錦旗を戴く者のすることかと、剛介は飛び出して滅茶苦茶に斬ってやりたかった。
横を見ると、釥太も柄に手をかけており、夜の静寂にきらりと銀の刃元が見えた。それを見た途端、すっと剛介の頭が冷えた。
あいつらの狼藉は許せない。だが、今は会津に向かって再起を図れと鳴海様から命じられている。
「落ち着け」
剛介はそっと囁いた。
「今は、犬死にしてはだめだ」
釥太が渋々という体で頷いた。だが、はあはあと息はまだ荒かった。
その日は、山中の大木の根本で夜を明かした。木の根は枕にするにはごつごつして固かったが、まずは敵の目を逃れられた。それだけでも、剛介は大仕事を遂げた思いだった。
翌日も、その翌々日も、敵の追撃の目は至るところで光っていた。一度など、何の気まぐれか、長州兵によって小さな子供とその母親が斬られるのを見かけた。長州兵と分かったのは、司令官らしき男が黒の獅子頭を被っていたからである。奥羽征伐には、既に黒羽藩や忍藩など関東の諸藩も加わっていたが、先陣に立つのは薩長土と相場が決まっているようで、とりわけ乱暴狼藉が目につくのは、薩摩か長州の兵だった。
これも、出来ることならば長州藩士を斬ってやりたかったが、今の自分らは奸賊扱いされ、追われる身である。剛介は血が吹き出す母子を遠くからじっと見つめ、唇を噛んだ。
途中、山中を流れる沢で水を汲み、それを貪るように飲んだ。それで腹がくちくなるわけではない。
逃亡三日目にして、ようやく岳温泉に辿り着いた。だが、そこで一行は絶望的な光景を目の当たりにする。
岳温泉は、とうに西軍の手によって焼かれていた。それも、随分前に焼かれたようである。煙の匂いがほとんどせず、ただ黒ぐろとした残骸が残されているのみだった。一説によると、四月に世良修蔵が督戦のために岳温泉に足を運んだ際に、岳温泉を焼き払ったと言われている。
「二本松の者か」
はっと振り向くと、刀を手にした兵がいた。慌てて肩章を確認すると、日の丸が描かれている。会津兵だ。剛介は胸を撫で下ろした。
「他に二本松の方々は見ませんでしたか」
寅次郎が訊ねた。
「丹波殿は、公の後を追うために庭坂の方へ向かわれた。大谷鳴海殿は、先に会津で待つと仰っしゃられて、母成峠に向かわれたと聞いている」
眼の前の会津兵は、ここ木之根坂で、丁度丹波と鳴海が邂逅した場面に立ち会ったのだという。会津側でも、まだ二本松領に残っている自藩兵の引上げを待っているのだろう。
「剛介さん、どうします?」
豊三郎が訊ねた。
「母成峠へ行こう」
母成峠は、やはり会津と二本松の国境にある峠である。子供の足で山中を突っ切って国境を超えるのは難しいだろうと、剛介は思った。それに、先に大谷与兵衛様がいらっしゃるはずだ。
「では、深掘宿や玉井宿を通って、会津街道に出るんだな」
釥太が考え深そうに言った。
「我々は、丹波様を追ってみる」
寅次郎は、丹波を追うことに決めたらしい。元々同じ屋敷に住んでいるから、少しでも親しみを感じる方についていこうと思ったのだろう。
「俺も同じだ。少しでも公の御側に行こうと思う」
英三郎が、寅次郎の方へ回った。あまり大人数だと目立つから、ここで別れるというのならば、それもいいかもしれない。
元々、殿は会津と運命を共にすると仰せだったと聞く。遂に城下戦に間に合わなかった丹波様たちも、もしかしたら同じような志を持ち、会津を目指すかもしれない。
「では、道中気をつけて」
剛介と釥太、豊三郎は手を振って、左の道を取った。ここまで辛苦を共にしてきた二人には名残惜しさもあったが、仕方がない。寅次郎と英三郎は、右手の土湯方面に消えていった。
それから剛介、釥太、豊三郎の三人は、深掘宿を目指して、来た時とは別の道を辿った。ここでも街道には西軍が哨戒していたが、兵の移動があったのか、心持ち、城下付近よりは兵が少なめだった。
今が絶好の機会とばかりに、三人は深掘宿から箕輪村・上大江村を通って、玉ノ井村まで下った。
途中、幾軒もの農家を見かけたが、西軍の威光を恐れてか、剛介たちを積極的に匿おうという気骨のある者は現れなかった。
ぐうぐうと鳴り止まぬ腹を宥めながら、剛介らはひたすら母成峠を目指した。
腹が減っているからなのか、それとも連日の戦いや逃避行からの疲労のためなのか。日に日に三人の歩みの速さは鈍っていった。
時には寝静まった農家の納屋から、備蓄してあった荷を拝借したこともあった。だが、それも開けてみるとわずかの干し飯が入っているだけであった。考えてみれば、季節は既に秋であり、もうすぐ刈入れの時期を迎える。新しい米が取れるから、蓄えもそれほど必要としなかったのだろう。いや、もしかするとこのような奥地にも西軍がやってきて、米を始めとする食糧や物品を略奪していったのかもしれない。
またある時は、山中で、紫色の実がぱっくりと口を空けているあけびにかじりついたこともあった。が、甘さは腹に染みたものの、腹が満たされるには到底足りなかった。
剛介は泣きたい気分だったが、自分は一番年長である。自分が泣き言を言えば、釥太や豊三郎が不安がるだろう。
歯を食いしばって、剛介らは擦り切れ始めた草鞋を前に進めた。
またその次の日。どこからか小さな子供が無邪気に唄う声が聞こえてきた。
会津猪 仙台狢 阿部の兎はよく逃げた
会津猪 米沢狸 仙台兎で踊り出す
会津猪 米沢猿で 新発田狐に騙された
会津桑名の腰抜け侍 二羽の兎はぴょんとはねて 三春狐に騙された
会津猪 仙台狢 三春狐に騙された 二本松まるで了簡違い棒
三人は身を固くした。ここは恐らく玉ノ井村の外れだろう。もちろん二本松領なのだが、一足先に西軍がやってきて、何も知らない子供に教えたのだろうか。
ふと見ると、釥太も豊三郎も、目の縁に涙が盛り上がっていた。
「俺たちが教わってきたことって、何だったんだろう」
剛介は黙って首を振った。下民は虐げ易きも、上天は欺き難し。今、ここで子供たちを詰っても、きっとそれは天が見ているだろう。
だが、自分たちが守ろうとしていた領民にすら嘲笑われているのかと思うと、嗚咽が止まらなかった。
「まずは、岳温泉を目指してはどうだろう」
釥太が言い出した。岳温泉は、塩沢村の奥にある名湯である。ここから猪苗代に抜ける街道が通っており、現在五人が潜んでいる場所から回るにも、都合が良かった。
横で、ちびの豊三郎が黙っている。剛介も、できれば暖かい湯に浸って戦塵を落としたかった。それに、岳温泉には宿もある。うまくいけば、食べ物も手に入れられるかもしれない。皆が寅次郎の言葉を待った。
「よし、岳温泉へ行こう」
寅次郎が頷いた。
だが、思うように事は進まなかった。
一行が二本松を出たのは夕刻だったが、二十九日のその日の夜には会津が二本松を取り戻しに攻めてくるという流言が飛び交っていたこともあり、西軍は街道筋を厳しく監視していたのである。
道を見失わないように、できるだけ街道の見える山中を進んでいたが、絶え間なく西軍らしきだん袋姿の兵士や、赤や黒の獅子頭を見かけた。
岳温泉までは城下から二里程の距離であるにも関わらず、身を隠しながらの逃避行であるため、一行の行程は遅々として進まなかった。
夜になると、遠くから獣の鳴き声が聴こえてくる。狐だろうか、それとも山犬だろうか。
「狼もいるのかな」
怯えた声で、豊三郎がつぶやいた。皆城下育ちであるから、まだ狼を見たことはなかった。狼は容赦なく襲いかかってきて、人の肉を食らうというではないか。
「大丈夫だろう」
無理に笑顔を作ろうとした釥太の顔も、恐怖のために引きつっている。
「じゃあ、釥太さん。狼が出てきたらやっつけてくれよ」
豊三郎がそう言った、その時である。
「しっ!」
剛介は、慌てて二人の口を塞いだ。斜面の下から、大人たちの話し声が聞こえてきた。
暗くてどちらの兵かは判別しかねるが、段々話し声が近付いて来る。
一同は、息を殺して兵が通り過ぎるのを待った。
「……そこで、儂はそいつの荷を奪ってやったのよ」
男の一人がからからと下卑な笑い声を立てた。
「ほう、それでどげんした」
「儂の足にしがみついて命乞いをしておった。あまりにも鬱陶しいから、切り捨ててやったわ」
ハッハッハと、周りの兵士も笑った。
「家宝だが何だか知らぬが、我らは官軍。錦旗に手向かった者が悪い。奸賊のお宝やらを手にしたところで、咎められる謂われはないわ」
剛介は握りこぶしをぶるぶると震わせた。話を聞くと、どうも城下で乱暴狼藉を働き、財物を持って逃げようとした者を切り捨てて荷を奪ったのだろう。それが錦旗を戴く者のすることかと、剛介は飛び出して滅茶苦茶に斬ってやりたかった。
横を見ると、釥太も柄に手をかけており、夜の静寂にきらりと銀の刃元が見えた。それを見た途端、すっと剛介の頭が冷えた。
あいつらの狼藉は許せない。だが、今は会津に向かって再起を図れと鳴海様から命じられている。
「落ち着け」
剛介はそっと囁いた。
「今は、犬死にしてはだめだ」
釥太が渋々という体で頷いた。だが、はあはあと息はまだ荒かった。
その日は、山中の大木の根本で夜を明かした。木の根は枕にするにはごつごつして固かったが、まずは敵の目を逃れられた。それだけでも、剛介は大仕事を遂げた思いだった。
翌日も、その翌々日も、敵の追撃の目は至るところで光っていた。一度など、何の気まぐれか、長州兵によって小さな子供とその母親が斬られるのを見かけた。長州兵と分かったのは、司令官らしき男が黒の獅子頭を被っていたからである。奥羽征伐には、既に黒羽藩や忍藩など関東の諸藩も加わっていたが、先陣に立つのは薩長土と相場が決まっているようで、とりわけ乱暴狼藉が目につくのは、薩摩か長州の兵だった。
これも、出来ることならば長州藩士を斬ってやりたかったが、今の自分らは奸賊扱いされ、追われる身である。剛介は血が吹き出す母子を遠くからじっと見つめ、唇を噛んだ。
途中、山中を流れる沢で水を汲み、それを貪るように飲んだ。それで腹がくちくなるわけではない。
逃亡三日目にして、ようやく岳温泉に辿り着いた。だが、そこで一行は絶望的な光景を目の当たりにする。
岳温泉は、とうに西軍の手によって焼かれていた。それも、随分前に焼かれたようである。煙の匂いがほとんどせず、ただ黒ぐろとした残骸が残されているのみだった。一説によると、四月に世良修蔵が督戦のために岳温泉に足を運んだ際に、岳温泉を焼き払ったと言われている。
「二本松の者か」
はっと振り向くと、刀を手にした兵がいた。慌てて肩章を確認すると、日の丸が描かれている。会津兵だ。剛介は胸を撫で下ろした。
「他に二本松の方々は見ませんでしたか」
寅次郎が訊ねた。
「丹波殿は、公の後を追うために庭坂の方へ向かわれた。大谷鳴海殿は、先に会津で待つと仰っしゃられて、母成峠に向かわれたと聞いている」
眼の前の会津兵は、ここ木之根坂で、丁度丹波と鳴海が邂逅した場面に立ち会ったのだという。会津側でも、まだ二本松領に残っている自藩兵の引上げを待っているのだろう。
「剛介さん、どうします?」
豊三郎が訊ねた。
「母成峠へ行こう」
母成峠は、やはり会津と二本松の国境にある峠である。子供の足で山中を突っ切って国境を超えるのは難しいだろうと、剛介は思った。それに、先に大谷与兵衛様がいらっしゃるはずだ。
「では、深掘宿や玉井宿を通って、会津街道に出るんだな」
釥太が考え深そうに言った。
「我々は、丹波様を追ってみる」
寅次郎は、丹波を追うことに決めたらしい。元々同じ屋敷に住んでいるから、少しでも親しみを感じる方についていこうと思ったのだろう。
「俺も同じだ。少しでも公の御側に行こうと思う」
英三郎が、寅次郎の方へ回った。あまり大人数だと目立つから、ここで別れるというのならば、それもいいかもしれない。
元々、殿は会津と運命を共にすると仰せだったと聞く。遂に城下戦に間に合わなかった丹波様たちも、もしかしたら同じような志を持ち、会津を目指すかもしれない。
「では、道中気をつけて」
剛介と釥太、豊三郎は手を振って、左の道を取った。ここまで辛苦を共にしてきた二人には名残惜しさもあったが、仕方がない。寅次郎と英三郎は、右手の土湯方面に消えていった。
それから剛介、釥太、豊三郎の三人は、深掘宿を目指して、来た時とは別の道を辿った。ここでも街道には西軍が哨戒していたが、兵の移動があったのか、心持ち、城下付近よりは兵が少なめだった。
今が絶好の機会とばかりに、三人は深掘宿から箕輪村・上大江村を通って、玉ノ井村まで下った。
途中、幾軒もの農家を見かけたが、西軍の威光を恐れてか、剛介たちを積極的に匿おうという気骨のある者は現れなかった。
ぐうぐうと鳴り止まぬ腹を宥めながら、剛介らはひたすら母成峠を目指した。
腹が減っているからなのか、それとも連日の戦いや逃避行からの疲労のためなのか。日に日に三人の歩みの速さは鈍っていった。
時には寝静まった農家の納屋から、備蓄してあった荷を拝借したこともあった。だが、それも開けてみるとわずかの干し飯が入っているだけであった。考えてみれば、季節は既に秋であり、もうすぐ刈入れの時期を迎える。新しい米が取れるから、蓄えもそれほど必要としなかったのだろう。いや、もしかするとこのような奥地にも西軍がやってきて、米を始めとする食糧や物品を略奪していったのかもしれない。
またある時は、山中で、紫色の実がぱっくりと口を空けているあけびにかじりついたこともあった。が、甘さは腹に染みたものの、腹が満たされるには到底足りなかった。
剛介は泣きたい気分だったが、自分は一番年長である。自分が泣き言を言えば、釥太や豊三郎が不安がるだろう。
歯を食いしばって、剛介らは擦り切れ始めた草鞋を前に進めた。
またその次の日。どこからか小さな子供が無邪気に唄う声が聞こえてきた。
会津猪 仙台狢 阿部の兎はよく逃げた
会津猪 米沢狸 仙台兎で踊り出す
会津猪 米沢猿で 新発田狐に騙された
会津桑名の腰抜け侍 二羽の兎はぴょんとはねて 三春狐に騙された
会津猪 仙台狢 三春狐に騙された 二本松まるで了簡違い棒
三人は身を固くした。ここは恐らく玉ノ井村の外れだろう。もちろん二本松領なのだが、一足先に西軍がやってきて、何も知らない子供に教えたのだろうか。
ふと見ると、釥太も豊三郎も、目の縁に涙が盛り上がっていた。
「俺たちが教わってきたことって、何だったんだろう」
剛介は黙って首を振った。下民は虐げ易きも、上天は欺き難し。今、ここで子供たちを詰っても、きっとそれは天が見ているだろう。
だが、自分たちが守ろうとしていた領民にすら嘲笑われているのかと思うと、嗚咽が止まらなかった。
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